第6話 軽い尋問
最後に、顔のサイドの髪の毛を左右少しずつ、指先で丁寧にすくわれる。
三つに分けられた細い束が、くるくると編まれていく感触がくすぐったくて、咲矢はじっと目を伏せた。髪の毛の動きが耳元でさやさや揺れるのが分かる。
鏡がないから、どんな風にされているのかは分からない。
でも、たぶん――なんか、かわいい感じにされてる気がする。
着けなおした腕時計は深夜1時を過ぎようとしていた。けれどこの家の外の光はまだほんのりと明るく、斜陽のような柔らかさを保っていた。元いた場所との時間の感覚のずれが、胸の奥にじわじわと広がっていく。
「ご主人様がお待ちです」
いつのまにか戻ってきていた女性の一人が、静かに告げた。
咲矢は反射的に「はいっ」と返事をして、慌てて立ち上がる。
ついさっきまで、湯の中でぽかんとしていた気分が、一気に引き締まる。心臓が急にバクバクと早鐘を打ち出し、喉の奥が乾いていく。
何を話せばいいのかも、聞かれることすら分からない。私は……いったい何者として見られてるの?
もやのかかったような頭のまま、女性に先導されて石造りの廊下を進む。
開け放たれた入口の向こうに広がっていたのは――食堂だった。
他と同様の石造りの床は磨かれて滑らかで、素足に履いたサンダルの足にはほんのり冷たさが伝わってくる。
壁は灰白色の漆喰で覆われ、その上に淡く色褪せた幾何模様が刻まれている。ところどころに飾られた彫像やランプが、部屋に静かな陰影を落としていた。
高い天井には梁がめぐらされ、外光を取り入れるための開口部からは薄明かりが差し込む。その光が、壁にかかる小さな金属製の燭台に反射し、揺れる炎が映す影がゆらゆらと揺れていた。
部屋の中央に鎮座するのは、どっしりと重厚な石のテーブル。その周囲をコの字型に、低く長い椅子が三方から囲んでいる。椅子の上には、織り目の粗い布が敷かれ、座る者の冷えを和らげていた。
最奥、中央の席に――あの男がいた。
昼間の革鎧とは異なる装い。淡い色の、柔らかそうな布が体にゆったりと巻かれている。広場で多くの人が身にまとっていた、あの布のスタイルに似ている。だが、布の質も着こなしも、どこか洗練されて見える。
その姿勢は、くつろいでいるというより――もはや、寝そべっていると言っていい。
男は片肘をついて横たわりながら、手にした銀の杯で赤い液体を軽く揺らしていた。
ワイン、だろうか? それとも――
目が合うと、彼は杯を少し傾け、短く言った。
「こちらに来い」
来いって……どこまで? どうすればいいの?
内心で戸惑いながらも、とにかく言われた通りに歩み寄る。
ふと、男の後ろに立つ人物に目がいった。
三十代後半か四十代前半。咲矢の父より少し若いか、同じくらいに見える男性が直立不動で立っている。
どこまで近づけばいい? どこに座る? そもそも立っているべき?
男のように寝そべって座るのが正しいのかもしれない。でも――初対面の、それも名前すら知らない相手の前で、そんな無防備な姿勢にはなれない。
迷った末に、咲矢は長椅子の端にそっと腰を下ろした。自然と背筋が伸びる。
まずかったかな……?
不安が胸を刺す。もしかして、こういう時は寝そべるのが礼儀だった?無礼だと怒られたりする?
「もっと近くに」
静かに促されて、咲矢は長椅子の反対側、男の傍へと小さく移動した。視線を落としたまま、指先を強く握りしめる。
その時、男がゆっくりと身じろぎする気配がした。
おそるおそる顔を上げると、男はゆるやかに体を起こし、咲矢と同じように腰を下ろしていた。
それは、まるで――こちらに合わせてくれたようだった。
少しだけ、緊張の糸がほぐれる。
「あの……お風呂だけじゃなくて、着替えまでありがとうございます。助かりました」
目を合わせながら、咲矢はそう言った。
礼を伝えたい気持ちは本当だったけれど、声がわずかに震えてしまうのを自覚する。
彼の家に連れてこられた理由も、自分の立場も、何ひとつ分からないまま。
けれど、少なくとも――いま目の前にいる彼は、怒っていない、ように見える。
それだけが、咲矢の心を少しだけ支えていた。
「助かった、か」
男が低く言った声には、わずかに皮肉めいた響きがあった。だがそれは棘ではない。余裕のある者が口元に浮かべる冗談のようにも聞こえた。
「なら、次からは最初から素直に頼るといい。……意地を張ったところで、誰も得をしない」
咲矢は思わずまばたきする。まるで――あの浴場で、着替えを手伝われるのを拒んだ時のことを見抜いていたかのような言葉だった。
彼は杯をゆるりと回しながら、赤い液体をひとくち含んだ。
「名前は?」
言葉は短く、問いの形だったが、返答を拒む選択肢は初めからないような響きだった。
咲矢は一瞬だけためらったあと、息を飲み込み、小さく答える。
「……高瀬咲矢です。あっ、外国だから順番が逆?咲矢が名前で、高瀬が苗字です。」
彼はその名を繰り返すことはしなかった。
ただ琥珀色の瞳で咲矢をじっと見据えたまま、手元の杯をテーブルに静かに置いた。
「タカセ、というのは……お前の属していた“部族”の名か?」
――ぶぞく?
咲矢は混乱する。
“苗字”が通じないのかな?
日本語が通じているとしてもここは日本ではない――自分の常識が通じる場所ではないということを、改めて突きつけられた気がした。
「えっと……部族はちょっと意味が違うような。確かに一族の名前ですけど……」
言いながらも、どこまで説明していいものか迷う。けれど、彼は咲矢の戸惑いを咎めるようなことはしなかった。
「……そうか。では“サクヤ”と呼べばいいな」
その名が彼の口から音となって現れた瞬間、背中に一筋、薄い緊張が走る。
命名ではなく、認識。それは、彼の中で咲矢という存在が“把握された”感覚だった。
言葉の端に、許可なくそう呼ぶことへの迷いは微塵もない――けれど、それがなぜか――嫌ではなかった。
「あの、あなたのお名前は?」
「ルシウス・アクィリアヌス・セヴェルスだ」
「ルシウス……?」
耳に馴染みのない響きが、頭にうまく入ってこない。
「セヴェルスでいい」
英語の語順でいうなら“ルシウスでいい”じゃなくて?と一瞬思ったが、何か文化的な違いだろうと判断して、咲矢は素直にうなずいた。
「はい……セヴェルスさん」
……その瞬間、彼の表情がわずかに固まった気がした。咲矢は思わずまばたきをする。
え、今の呼び方……まずかった?
同じ日本語で会話しているはずなのに、どこか噛み合わない。そんな微妙なずれが、言葉の隙間からじわりと滲んでくる。
「サクヤ。神殿で会ったのは覚えているな。――あそこで、何をしていた?」
セヴェルスは体をわずかに前に傾ける。威圧というには穏やかすぎるその動きは、それでも逃げ道のない視線を咲矢に向けてくる。
「お前は、どこから来た?」
その声はやさしさすら感じさせるほど静かだった。だが、その静けさこそが、逆に咲矢を追い詰める。逃げ場はない。答えを濁すことも、嘘でごまかすことも――彼の目はすべてを許さない。
「言葉を選ぶ時間はやる。だが……黙るのは、誠実さを示す方法ではない」
耳の奥で、心臓の鼓動がやけに大きく響く。
何をどう答えればいいのか分からない。でも、この人にはどんな嘘も通じない気がする。
「正直な話、何も分からないんです。」
「分からない?」
その言葉に、彼の声がほんのわずか、鋭さを帯びた。
「あの……本当に、ここがどこかも分からなくて。あの建物が神殿だってことも知らなかったし、目を覚ましたらあそこにいて……周りを見てみたらガチョウが寝てて……」
「……ガチョウが寝ていた、か」
セヴェルスの表情がわずかに変化する。
それが嘲笑か、興味か、見分けがつかない。
咲矢は思わず口を閉ざした。自分でも分かっていた。馬鹿げた話にしか聞こえないと。
沈黙が落ちた。胸の奥がぎゅっと縮こまる。
「すみません……馬鹿なこと聞くと思うんですけど、ここって……もしかして、イタリアだったりします?」
「イタリアだと……?ここは属州ではない、ローマの地だ」
やっぱりローマ。でも、イタリアが属州?ローマってイタリアの一部では?中国じゃなくて台湾、のように、ローマはローマということだろうか?
「……えと……今何年……とか」
「今年の執政官は、メテッルスとラエナスだ」
執政官、ってローマの偉い人だっけ。受験勉強で詰め込んだ歴史の知識を必死でひねり出す。でも、人の名前を聞いても、まったくピンとこない。
「西暦何年、みたいな感じで教えてもらえると助かるんですけど……」
空気が、重くなった気がした。セヴェルスの眉がわずかに動き、次の瞬間、彼の口元がわずかに歪んだ。
「西暦……?ローマ建国から何年ということか?」
思考が遠のいていく。西暦が通じない。メッテルスとは誰のことか見当もつかない。
現実感が、すとんと抜け落ちた。何を聞いても、何を言っても、まともに通じない。そんな確信が、じわじわと背中を這い上がってくる。
呼吸が浅くなる。体がこわばる。逃げたい。でも、逃げてどこへ? 私は……なんで、ここに――。
ふいに、ひやりとした指先が首筋に触れた。反射的に肩が跳ねる。なぞられた部分が、かすかに痛んだ。
「これはどうした」
低く、落ち着いた声。セヴェルスの視線が咲矢の首元を射抜く。
顔を覗き込まれていることに動揺するより早く、あの瞬間の記憶が脳裏をよぎる。
「あっ、ネックレス……盗られたときの……」
入学祝いに、自分で買ったネックレス。シルバーの小さな花、その中心には、小粒の赤い石。お年玉をかき集めて手に入れた、お気に入りだった。
喉元を庇うようにそっと手を添え、俯いた。
「――あの者たちが、お前を奴隷商へ売ろうとしていたのは理解しているか?」
乾いたような声が頭上から降ってきた。
咲矢は、息をのむ。
奴隷商……? 奴隷――?
その言葉がもたらす現実味に、背筋がぞわりと粟立つ。想像していた以上に、自分は危険なところにいたのかもしれない。
セヴェルスは目を細め、ひとつ、吐息をこぼした。
それは責めるでも、嘲るでもない。ただ、すべてを理解した者の、静かな諦念のようなため息だった。
「それすらも分かっていなかったのか……よほど……混乱しているようだな。神殿でも、あのまま連れていかれれば、お前は今、鎖で繋がれて牢の中だ。」
静かにそう言って、セヴェルスはゆるやかにテーブルの上を手で示した。
「ここではそのような扱いはしない。喉も渇いただろう。食事をとって、休め。今日はそれでいい……日も、そろそろ暮れる」
穏やかだが、有無を言わせぬ口調。
それは気遣いに見せかけた“終わりの合図”だった。これ以上を許さないという意思が、ごく自然な形で伝わってくる。
咲矢は、無意識に肩の力を抜き、小さく息を吐いた。
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