第5話 ドムスの浴場
男が出ていってすぐ、音もなく現れたのは、淡い布をまとった二人の女性だった。長い髪を結い上げ、視線は下げたままだが、近づいてくる手には一切のためらいがない。
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください!」
服に触れられそうになり、咲矢はとっさに身を引く。
「じ、自分でやります、脱ぎますから!」
女性たちは顔を見合わせる。やがて一人が、おずおずとした声で告げた。
「ご主人様より、湯の支度と着替えのお手伝いをせよと仰せつかっております」
あれ、この人も日本語わかるんだ――驚きがよぎる間もなく、さらに詰め寄られて咲矢は慌てて言葉を重ねる。
「いえ、本当に……大丈夫です。ひとりでできますので……!」
しばしの沈黙が流れる。何か言いたげな空気をまといながらも、結局二人はそれ以上強引には動かず、そっと一歩下がって礼をして、脇に控える形になった。
けれど部屋を出ていこうとはしない。
じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。けれど、自分がこの家にとってどういう存在かを考えれば、監視も当然かもしれない。
咲矢は小さく息を吐き、腕時計を外して椅子の上に置くと、手早く服を脱いでいった。
裸になってから、浴室の中心にある湯舟へと歩み寄る。足元は滑らかに磨かれた石で、ひんやりとした感触が肌をくすぐる。
桶もシャワーも見当たらない。かけ湯の作法もわからず、ためらいながら湯舟の縁に手をかけて足を入れる。
肌に触れた湯は、意外なほどやわらかく、ゆっくりと全身を包んでくる。
思わず小さく息が漏れる。
肩まで沈んだ瞬間、張り詰めていたものが一気に緩み、体の芯にじんわりと温もりが染み込んでいく。
けれど、湯に浮かんだ安堵の隙間から、ぽつぽつと現実が立ちのぼってきた。
(そういえば、帽子……どこで落としたんだろう。腕、掴まれた時かな……。)
右腕を見ると、うっすらと赤い痕が残っている。
リュックもスニーカーも、今どこにあるのか見当もつかない。
ぬるま湯に揺られながら、ぼんやりと思い浮かぶのは、さっきまでの騒がしさと、 男の腕の中で感じた不思議な安心感。そして、今の状況の異様さ。
このまま湯に溶けて、夢だったことになったらいいのに。
ふと身体がぐらりと傾き、あわてて縁を掴んで姿勢を戻す。
「……ぼーっとしすぎた」
とにかく、体を洗わないと。
そう思って周囲を見渡すが、見慣れない壺や陶器ばかりで、どれを使えばいいのかさっぱり分からない。
「あの……すみません、石鹸って……どれですか?」
控えていた女性の一人が、ほんの少し眉をひそめる。だがすぐに壺のひとつを手に取り、静かに差し出してきた。
「ありがとう……ございます」
礼を言って受け取ると、彼女は再度困ったような顔をして、また控えの位置に戻っていった。
壺の蓋をそっと開けてみると、中にはとろりとした黄金色の液体が入っている。少しすくって、鼻先に近づけた。
オリーブオイルの香りがする。
使い方が分からず、結局そのまま湯で身体をこすって汚れを落とす。髪も何度も湯にくぐらせて、ようやくさっぱりとした気分になる。
肌についた汗と土埃をようやく洗い流したことで、少しは気持ちが落ち着いた気がした。けれど、心の奥では違う種類のざわめきが、じわじわと広がっていた。
――これから、どうなるのだろう。
あの異常な光景から逃げられたこと自体は、間違いなくよかった。けれど、あの鋭い目をした男が、どうして自分を助け、ここに連れてきたのか。まったく分からない。
逃げてくる途中で聞けばよかった。けれど、正直、あんな距離を全速力で走らされて、揺れる輿の上で気がつけば眠ってしまっていた。緊張の糸が切れたせいだろうか。
少なくともあの男の人は、転びそうになったとき、ちゃんと支えてくれた。輿の上でも、あまりの近さにびっくりしたが、多分――いや、きっと落ちないように支えてくれてたんだと思う。
少なくとも、悪い人ではないと思いたかった。
とにかく、この家の人には日本語が通じる。それが一番の安心材料ではある。
この邸宅は、明らかに尋常ではない。天井は高く、壁は石造りで、広々とした邸宅内には美しい装飾が施されていた。使用人らしき人々も多く、風呂に至っては湯の温度までちょうどいい。これほどの家に住む人間が、いったいなぜ――。
騒ぎを起こしたと牢に入れられるのも困る。けれど、少なくともさっきの薄汚れた男たちに腕を掴まれたまま、どこかへ引きずられていくよりは、まだマシなはず。
もしかして、これは――現代の生活を捨てて、あえて昔の暮らしをしている人たちなのかもしれない。世界にはそんなコミュニティも存在すると聞いたことがある。だが、そう思うには、何もかもが本格的すぎる。スケールが違いすぎる。
湯に浸かったまま、ずっとこうしていたい。けれど、それでは何も変わらない。ここがどこなのかも、どうすれば帰れるのかも、今の自分には何一つ分かっていない。
だったら今は――せめて、従うしかない。
湯舟から上がると、女性のひとりがすかさず、ふわりとした布を持って近づいてきた。バスタオル代わりのようだ。
それを受け取り、水気を拭いながら髪をしぼっていると、視界の端に衣服が並べられているのに気づく。
控えていた女性はいつのまにか一人だけ。
自分が脱いだ服はすでに見当たらない。
代わりに置かれていたのは、薄く軽やかな布と、何本かの細長い帯。
下着のようなものが見当たらない。布の巻き方も見当もつかず、布を手に取ってしばし悩んだ末に――ついに観念して声をかける。
「……あの、すみません。やっぱり……着替え、手伝ってもらってもいいですか……?」
言いながら、咲矢は顔が熱くなるのを感じた。
自分から頼んだとはいえ、人に下着を着せてもらうなんて――恥ずかしすぎる。
女性は無言でうなずくと、自然な手つきで布を手に取り、咲矢の前にひざをついた。
最初に巻かれたのは、腰用の布。さらりとしたその肌触りは、意外と心地よかった。
きゅっと締められ、端が巧みに差し込まれて固定される。
「これ……取れたり、しませんか?」
つい不安が口をつく。女性はちらとこちらを見たが、無表情のまま、黙って手は次の動作へと移る。
胸元にも布が巻かれ、さらに柔らかな肌着のようなものが上からかぶせられる。胸元と裾が控えめに絞られていて、着るだけでほんのりと女性らしい輪郭が浮かび上がる。
その上にワンピース状の衣が重ねられ、布は次第に体に沿ってゆるやかに形を作っていく。
最後に、革の細い帯で腰を締められた。
これは一人では無理だと、観念してなすがままに身を預けると、長椅子へと導かれ、座らされる。
後ろから、濡れた髪に櫛が通されていく。
根元から毛先まで、静かな指先が撫でるように動き、布でそっと水気を吸い取っていく。
ふんわりとした香りが、鼻先をかすめた。
「……これ……?」
問いかける間もなく、何かとろりとしたものが髪に塗られ、次第に首筋や肩口にも広がっていく。
温かい指先が、まるで風を肌を滑るように香油をすりこんでいく。
――何か分からなくてちょっと不安だけど……いい匂い。
花のようでも、果実のようでもない、不思議な香り。
異国の、時間ごとずれた世界は、まだどこか現実味がない。
肌に触れる温もりさえ、本当はどこか落ち着かなくて――でも今は、それにすがるしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます