第2話 目覚め

 頬に触れた石の冷たさに、咲矢は目を覚ました。

 まぶたをかすかに照らす光に反して凍るような空気。


 身体の下に広がる硬い感触に身じろぎすると、後ろに結い上げていたはずの髪が、埃っぽい床にふわりと広がっているのが見えた。

 グァッグァッという奇妙な鳴き声が響く合間に、遠くからまるで祈りのような声が聞こえてくる。


 小さく咳き込みながら上半身を起こすと、そこは見たこともない石造りの空間だった。天井まで伸びる太い柱。その表面には、ところどころ摩耗の跡がある。けれど壮麗さは失われていない。


 背後に視線をやれば、神像が無言のまま、こちらを見下ろしている。

 ただの彫刻なのに、まるで咎めるように――神の目で、見下ろされているような気がした。

 その彫刻は手が届きそうで届かず、柱の上部には神々の姿が彫り込まれている。

 壁面を飾る装飾も、日本では見たことがない、遠い異国の様式。そこに浮かんでいるのは、神々しくもどこか冷徹な美しさだった。


 ――なにこれ……夢? 違う、夢じゃない。ここ……どこ?


 ずれ落ちかけていたリュックサックを背負い直し立ち上がる。

 左手の袖をまくり、腕時計に目をやる。

 文字盤は七時すぎを指していた。大学の入学祝いに両親からもらった、ソーラー充電式の腕時計。いつもと変わらぬ静けさで、秒針が無機質に時を刻んでいる。

 電車を降りたのは、確か六時前後だったはず。混乱と恐怖で時間の感覚が曖昧になっていたが、どうやらそれほど長くは経っていないらしい。

 それなのに。

 さっきまで歩いていたのは、紛れもない暗い夜道だったはずなのに──今、頭上高くに空いた窓から差し込んでくるのは、眩しいほどに白い、昼の光だった。

 ぐるりと辺りを見回すと、金の装飾が刻まれた壁の一角、読み取れない文字の下、藁の山に何羽かの鳥が丸くなって眠っていた。


  ――アヒル?……じゃなくてガチョウ? なんでこんなところに。


 思わず見つめてしまうほど、その寝姿は無防備でかわいらしい。

 だが次の瞬間、咲矢はハッと息をのんだ。

 祭壇の奥から、ひとりの少女が現れ、こちらに歩いてくる。

 ひらひらとしたワンピースのような白い衣を身にまとい、腰に金色の装飾を施したその少女は、長いヴェールを肩に垂らし、まるで神殿の神官か巫女のような雰囲気を漂わせている。

 咲矢と目があった刹那、少女の表情がサッと青ざめた。

 驚きの表情を浮かべながら何かを叫び始めたけれど、その言葉は咲矢にはまったく理解できなかった。


「ごっ、ごめんなさい!えっと、あたなの言葉、分からなくって。日本語……は無理そう、だよね……」


 しどろもどろに頭を下げながら、英語で話しかける。


「Do you…… speak English?」


 だが、少女は一歩後ずさると、さらに大きな声を上げ、誰かを呼ぶように身振りを加えはじめた。

 咲矢の脳裏に、「歴史的建造物に不法侵入して逮捕」なんてニュースの見出しがよぎる。

 入学したばかりの大学、退学になったらどうしよう――!


「とっ、とにかくごめんなさい!」


 混乱のまま、日本語で叫びながら、少女の現れた方向とは反対へと駆け出した。

 何が起きているのか分からない。ここはどこで、自分はなぜここにいるのかも。

 背後で少女の甲高い声が響く一方で、ガチョウたちの呑気な鳴き声が、やけに平和に響いていた。


 石壁に囲まれた回廊を抜け、建物の外へ一歩踏み出した瞬間、風がふわりと髪を撫でた。

 熱を帯びた空気が咲矢の全身を包んだ。

 空気が違う。思わず立ち止まり、息を吸う。

 どこか異国の、けれど妙に生々しい匂いが、その風に乗って鼻先をかすめる。スパイスのような香り。乾いた土の匂い。そして、人の汗と、甘ったるい油のような、なんとも言えない香気。


 雑多な喧騒の中から聞こえる。誰かが怒鳴る声。街頭演説のような声。革が擦れる音に、裸足が石を打つ軽やかな足音――見えないのに、すぐそばにある。まるで音が石畳を伝って足元から響いてくるようだった。


 足元に視線を落とせば、石。

 でも日本で見るような灰色の舗装ではない。磨かれたように滑らかで、少し黄味がかった石が敷き詰められている。

 スニーカーの底ごしに伝わってくる冷たさとは反対の、肌を突き刺すような熱気に頭がくらむ。

 目を上げると、白い柱の隙間から広がるのは、まばゆい陽光に照らされた広場だった。

 石畳はまるで磨き上げられたように輝き、その上を、裸足に近いサンダルのような履物を履いた人々が次々と行き交っていく。

 男たちはカーテンのような布を体に巻きつけ、女たちは肩や背中を大胆に露出したワンピースのような服をひらひらとなびかせている。色とりどりの布が風を受けて揺れるさまは、まるで映画の中の一場面みたいだった。


「……え……なに、ここ……っ」


 震えるように声が漏れた。

 空気も、匂いも、音も、全部――知っている世界じゃない。

 たしかさっきまでは、コンサートの帰り道だった。妙な路地に入って、社に手を合わせて――……いや、そんなことより。


 思わず振り返る。

 今、自分が出てきた建物が目に入った。高くそびえる石造りの壁。上部には繊細な彫刻が施された柱がずらりと並んでいる。どう見ても、これは神殿……それも、ただの観光用のレプリカではない。どこまでも本物の質感がある。


 頭に浮かんだのは、姉が卒業旅行でヨーロッパを巡ったときに送ってきた写真の数々。中でもローマの遺跡――あれに似てる。


 咲矢が恐怖と混乱で後ずさった瞬間、背に硬い何かがぶつかった。

 呼吸が止まる。

 鉄と革の、冷えた匂い――けれどその奥に、夜明け前の森のような、静かで涼やかな気配があった。ほんのわずかに、香りが肌を撫でていく。

 反射的に振り返る。

 金の粒を閉じ込めたような、冷えた琥珀色の瞳がそこにあった。

 彫刻のように整った男の顔。その視線に、心臓が掴まれる。

 浅黒い肌。短く整えられた髪。

 日差しを受けて淡く光る金具を備えた鎧のような衣装に、深紅の布が肩から垂れている。

 一目で、ただの人ではないと分かった。

 強く、静かで、すべてを見透かすような目。

 言葉もなく、動くこともなく、男は咲矢を見下ろしている。

 それだけなのに、命令のように感じた。

 ただ立っているだけで、抗えない何かを放っていた。

 その時、男の後ろから誰かの叫ぶ声が響く。

 はっとして咲矢は、その声からではなく、その男から逃げるように、足を踏み出した。

 心臓が喉の奥で脈打つ。

 けれどあの視線だけが、焼きついたまま離れなかった。


 咲矢の姿が人々の間に消えていくのを、男は追わなかった。

 立ち尽くしたまま、ただ風の行方を読むように、その瞳を細める。

 浅黒い頬に刻まれた輪郭は硬く、無駄のない線で形作られていた。

 目元に宿る琥珀の色は、陽光を受けてなお冷たく、見る者の息を止めるような静けさを湛えている。

 肩を覆う赤い布が、風に煽られてはためくたび、彼の背を包む外套も重たく揺れた。

 鎧の金具が、日差しの中でひときわ鋭く輝く。


「見るからに怪しい娘ですが……よろしいのですか? このまま逃がして」


 背後で、従者が小さく問いかけた。

 おそらくこの場で誰よりも、その沈黙が意味するものを知る者。

 男はわずかに口元を歪めた。

 それは感情を示すものというよりも、冷笑にも似た計算の表情だった。


「神殿の者どもに先に手を出されるのは面倒だ」


 視線を遠くに投げながら、彼は静かに言う。


「ここで捕まえれば、面子と礼儀を盾に引き渡しを拒まれるだろう。そうなれば話が煩雑になる」


「では……?」


「私の手で、私の屋敷に連れてゆく」


 その声に熱はない。ただ事実を告げるのみだ。


「何か企んでいるなら、一先ずは泳がせてぼろをださせるのが一番早いが……」


 風がひと吹き、回廊の柱の間を抜け、外套をはためかせる。

 男はそれを制するように肩をひとつ揺らし、空を見上げた。

 まるで、この空そのものさえ、自らの計画の一部に組み込もうとするかのように。


「……今は追うだけでいい。見失うな」

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