シェラドゥルーガは、生きている

ヨシキヤスヒサ

1.シェラドゥルーガは、生きている

1−1

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「なあ。この水面みなもに移る星々こそ、魂のほんとうの居場所だとは思わないかい?」

「あら。こんな時に、素敵なことをおっしゃるのね」

「夜空の星に手は届かない。でも、この水面みなもの星になら手が届く。ふたりで、そこに行けるよ」

「ならわたくしは、月になりたい。我が儘かしら?」

「すべて、君の思うがままに。我が愛しき人」


パトリシア・ドゥ・ボドリエール、著

“湖面の月”より

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 店を開けようとした途端、雨が降りはじめた。またか、という表情で、夫婦ふたり、顔を合わせてため息をついた。

 もとより長雨の季節ではある。それでも、今年は随分と降るように感じた。水害になっていないだけありがたいと思うべきか。

 地方はいざ知らず、首都近郊は治水計画の見直しにより、だいぶ水捌けがよくなった。店の前が川のようになることもなくなったし、乾季に水不足になることを心配することもなくなった。政治家というのは、たまにはいい仕事をするものである。

 それよりは、辻の天気読みとかいう連中だ。道端をうろついて、小銭をせびっては、適当なことしか言わない。昨日、両替するのを面倒くさがった分を渡したら、満面の笑みで、明日は快晴だと踊り狂っていたが、この有様だ。まったく、帳簿を書く身にもなってほしい。

 ああくそ、国家憲兵どもめ。ああいう手合いも詐欺師の類として引っ捕えてくれないものかね。


「あれえ、憲兵さんたちだよ。お前さん」


 そんなことを毒づいていたら、ひと回り太くなった腹回りを揺らしながら、女房が声を上げた。言った通り、長雨滴る石畳の向こうから、規則正しく軍靴の音が響いてきた。

 数にして三十名程度。先に五騎ほどが駆け抜けた後に、ざっざと足音を立てながら、進んでいく。


 雨の中だが、傘は差さない。深緑に染まった、頭巾フード付きの外套は、降りしきる水滴を面白いぐらいに弾いていく。

 綿織物の上に、蝋入りの油を塗り込むことで、水を弾くようになっている。昔から油合羽あぶらがっぱと呼ばれているものだが、漁師町の若い衆が好んで羽織るような、野暮ったい作業着である。

 兵隊連中、まして民衆の前に姿を見せることが多い国家憲兵隊が制式採用すると聞いた時は、あの連中、ついに頭がおかしくなったのかと思ったものだが、今となっては見慣れたものになっていた。時間というものは恐ろしい。


 この国において、油合羽あぶらがっぱといえば国家憲兵。その中でも、首都近郊の犯罪捜査を担当する警察隊本部を差す言葉として通じるようになってしまっていた。


「近くかねえ。とすると、今日は客が来ないかもねえ」

「もとよりこの雨さ。朝めしを食うような連中も仕事をさぼりたがるだろう。ちょっと行って、見てこいよ」

「いやだよう。どうせ人死にだろう?死人なんか見て、何が楽しいもんかよ」

 女房が顔をしかめながら店の奥に戻っていった。客が少ないだろうとはいえ、鶏肉の煮込みか何かしらの用意はしておく必要がある。


 雨音の中に、がらがら、という音が混ざった。

 歩兵の後ろに、ゆったりとした速度で、一台の馬車が続いていく。簡素な作りだが、しっかりと屋根がついていた。


「ご覧よ。ダンクルベールの殿さまだ」

 思わず声に出していた。


 女房が、慌てた様子で奥から走ってきた。その頃には、馬車はすでに店の前を通り過ぎてしまっていた。

「あやあ。今回も見そびれちまったよ」

「好きだねえ、お前も。俺というものがありながら」

「それはそれ、これはこれ、さね。ありがたいもんじゃないか。なんたって魔除けの案山子、ダンクルベールのお殿さまだよ。あの人のおかげで、この店だって、ようやく路地前に椅子を並べれるようになったじゃないか。あの人はねえ、商売繁盛の守護聖人なんだから」

 女房が額の前で、右手の親指と人差し指を擦り合わせた。ヴァーヌ聖教式の礼拝である。


 まあ確かに女房の言う通り、あの杖付きの大男が警察隊の重役についてからは、この国の治安も格別によくなったのは確かである。


 十数年前までは、このあたりだってひどい有様だった。

 年老いた娼婦と、傷痍軍人の物乞いと、乾涸びた死体が仲よく横になっているのが、当たり前の光景だった。うちのような流行らないめし屋だって、店を開くのにも勇気と度胸がいるぐらいの、語るのもおぞましいほどの治安だった。


 そこに颯爽と現れたのが、先の警察隊本部捜査一課課長にして、今はその本部長官たるオーブリー・ダンクルベールさまだ。

 貧民の生まれだとは聞いているが、相当に才覚が走る人なのだろう。盗人だろうが、ひとごろしだろうが、容赦なく取っ捕まえる。かつて巷を賑わせた怪盗や、なんとか夫人っていう凶悪すぎる殺人狂いも、この人の活躍で、お縄を頂戴している。

 一方で、わけありの盗人なんかであれば、情けをかけて密偵にして面倒を見てるなんて噂も立っているほど、立派なお人だ。

 おかげさまで、こんな通り外れでも安心して店を開けられるようになったのだ。女房のように、聖人のように持てはやす連中も少なくない。


 だが、そんなダンクルベールさまも、今や足を悪くした老人である。それが馬車まで出して現場に来た。つまりは、それぐらいのことが起きているということだ。


「いやあ、おはよう。今日もひどい天気だね」

 常連のひとりが店の中に飛び込んできた。この辺りにたむろしている、日雇い稼ぎの中年である。

「やあ。今日みたいな日でも、真面目に仕事かい?」

「そんなもん、後回しさ。野次馬っていう副業がある」

 運ばれてきたスープに、黒いものが多いパンを浸しながら、常連さんはにやにやと答えた。

「さっき憲兵馬車が通ったもんでね。お給金より、話の種の方が金になる」

「とっつぁんも目ざといねえ。どうせ憲兵さん相手に、ある事ない事吹き込むんだろ?」

「馬鹿言うんじゃあねえよ。立派な捜査協力さ」

 げらげら笑う常連さんに、安物の白をグラスに注いで渡してやる。いやいや、どうも、と言いながら、常連さんはそいつを一気に飲み干した。てきぱきと食事を片付けてから、外套から小銭を相当分取り出して、足早に去っていった。


 大事にならなきゃ何よりだがねえ。そんなことを思いながら、まずは自分の店をどうにかすることを考えることにした。


(つづく)

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