第2話
王都から父の治める公爵領へ戻る馬車の中、私は深く息を吐いた。社交界の喧騒から離れ、窓の外に広がる緑豊かな風景を見ていると、張り詰めていた心が少しずつ緩んでいくのを感じる。
「お嬢様、大丈夫でいらっしゃいますか?」
隣に座る老齢の執事、セバスチャンが心配そうに声をかけてきた。公爵家で長年仕えている彼は、私が幼い頃から世話をしてくれている、信頼できる人物だ。
「ええ、セバスチャン。私は大丈夫ですわ」
私は微笑みかける。広間での騒動は、あっという間に王都中に広まっただろう。彼もまた、私の身を案じているに違いない。
「しかし、まさか第二王子殿下から婚約破棄を…そして、あのような騒ぎになるとは…」
セバスチャンは困惑した様子で言葉を濁す。公爵令嬢の婚約破棄は、ただでさえ一大事だ。それが、公衆の面前で、しかも私が反論し、王子の不貞を暴く形で行われたのだから、その衝撃は計り知れない。
「セバスチャン、もうあの件は構いませんわ。私にとっては、むしろ望んでいたことなのですから」
「望んで、とは…?」
「ええ。あのまま王家に嫁いでいれば、私はきっと息苦しさを感じていたでしょう。でも今は違います。私は自由になった。これからは、私のやりたいことができますわ」
私の言葉に、セバスチャンはさらに首を傾げる。彼の知るイリス様は、どちらかといえば王妃教育に熱心で、社交界での立場を重んじるタイプだったはずだ。前世の記憶を持つ今の私と、本来のイリス様の間に生じる僅かな違和感は、きっと今後も出てくるだろう。だが、それも私の「新しい人生」の一部だ。
父である公爵は、私が王都で学園生活を送っている間、ほとんど領地に滞在していた。高齢ということもあり、そろそろ私に領地経営の多くを任せたいと考えている、と以前手紙で受け取っていた。今回の騒動を知れば、最初は驚き、落胆するかもしれない。しかし、私が王家と縁を切ったことで、かえって領地運営に専念できる、とポジティブに捉えてくれる可能性もある。
(まあ、父上なら、私の好きにさせてくれるでしょう。問題は、領地の現状と、それをどう変えていくか、だわ)
馬車は、王都から離れるにつれて道を外れ、領地へと続く舗装されていない道を進む。王都の整備された道路に比べ、揺れが大きい。
(インフラ整備は喫緊の課題ね)
窓の外の景色は、農地が広がっているが、どこか活気がないように見える。行き交う人々の服装も質素で、明るさに欠ける印象だ。
馬車が公爵邸に到着すると、使用人たちが慌ただしく出迎えてくれた。皆、私の顔を見て安堵したり、心配そうな表情を浮かべたりしている。
「お嬢様! おかえりなさいませ!」
「セバスチャン様からもご連絡はいただいておりましたが、本当に…」
彼らの温かい出迎えに、私は少し胸が熱くなる。社交界での冷たい視線とは真逆の、純粋な心配と歓迎の気持ちだ。
「ただいま戻りました、皆さん。ご心配をおかけしましたわ」
私は努めて明るく振る舞う。私の追放は、彼らにとっても不利益になる可能性がある。だからこそ、私が大丈夫であることを示す必要があった。
父である公爵は、広間に私を待っていた。白髪が増え、穏やかな表情をした父上は、私を見るなりホッとしたような顔をした。
「イリス…無事であったか」
「はい、父上。ただいま戻りました」
「王都から連絡があった。…色々あったようだな」
父上は多くを語らないが、その眼差しには理解と、そして私が無事に戻ったことへの安堵が見て取れる。
私は父上の前に進み出て、正直に話した。アルフレッド様との婚約破棄に至った経緯、私が彼らの不正を暴いたこと、そして自ら社交界から離れることを選択したこと。
話し終えた後、父上はしばらく黙っていた。私は父上の反応を待つ。怒られるか、それとも失望されるか…
やがて、父上はゆっくりと口を開いた。
「…そうか。苦労したな、イリス」
意外な言葉に、私は目を見開いた。
「あのアルフレッドという男は、昔からどうにも見栄っ張りで器量が小さいと思っていた。今回の件で、それが明らかになったのだな」
父上は、私の行動を責めるどころか、アルフレッド様を批判した。
「お前が自分で決めた道ならば、父は何も言わぬ。公爵令嬢としての責務から外れると言ったな。構わない。お前は今まで十分頑張ってきた」
父上は優しい眼差しで私を見つめた。
「これからは、お前が本当にやりたいことをすればいい。この領地で、好きなように暮らすがいい」
「父上…」
私は感動で言葉に詰まる。父上は、私が「悪役令嬢」として断罪されることよりも、私の意思と幸福を尊重してくれたのだ。
「ありがとうございます、父上」
私は深々と頭を下げる。
「ですが、好きなように暮らす、と言っても、ただの隠居生活を送るつもりはありませんわ。父上が築き上げてきたこの公爵領を、私が引き継ぎ、もっと豊かにしたいのです」
父上は驚いた顔をした後、嬉しそうに笑った。
「ほう、それは頼もしいな。このイリス・エルグランドが、今度はこのエルグランド領をどう変えてくれるか、楽しみにしているぞ」
父上の許しを得たことで、私の心は決まった。
ここが私の新しい舞台だ。この領地で、私は前世の知識を活かし、自らの手で理想郷を築き上げる。そして、かつて私を「悪女」と呼び、追放した者たちに、私の選択が間違っていなかったことを証明してやるのだ。
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