西果てのラボ 2 大鴉

 階段を上り4階まで来たが、4階のフロアは全く見えない。代わりに見えるのは、隔壁だ。隔壁の中心にはモニターが付いている。生体認証だろうか。

 隔壁の奥からは、うめき声や何かを引っ掻くような音がひっきりなしに聞こえている。この先は、危険地帯ということだ。

 念の為、剣を抜いておこう。


「討ち漏らさないようには気をつけるけど、覚悟はしておいてちょうだい」

「もちろんだ」

「私も、自分の身くらいは……!」


 言って、リゼが杖をぎゅっと胸の前で握る。

 リゼも多少は戦いに有用な魔法を使えるかもしれないが、なるべくなら俺とメイジーで片付けたいところだな。メイジーが先陣を切り、彼女が討ち漏らした者、彼女の死角から現れた者を俺が斬る。

 この先にいるのが、灰入だけとも限らない。わざわざ隔壁を下ろすということは、エルピス達でも対処が難しかった何かがいるのだろう。


「さ、行くわよ。目指すはこの先の一番奥」

「ああ」


 深く深呼吸をしている間に、メイジーが自身の瞳をモニターに近づけた。モニターが彼女の瞳を読み取っているらしく、緑色の光の線が彼女の瞳を上下に何往復もしている。

 やがて線が消えると、隔壁が大きな音を立てて上がっていった。


 メイジーが通れる程度の隙間が開いた瞬間、灰入が五人飛び出してきた。

 メイジーは一体の放った爪撃を半身をずらして躱した後、その首を両断し、続けざまにもう一体の首も両断。わずかに体を捻り、横一列に並んで飛びかかってきた頭上の三体の首も断ち切った。

 無駄のない洗練された動きに、思わず見惚れてしまう。

 あの巨大な剣を完全に使いこなしている。それどころか、多少なりとも重さに振り回されることを前提とした動きを構築しているのか。

 重さに引きずられると同時に半身をずらして避け、今度は重さに任せるかのように体を捻った。


「センスが良すぎるな」

「言ってないで、ゆっくり進むわよ」

「了解だ」


 隔壁の先に踏み込むと、そこは地獄だった。床を天井を壁を灰入が這っており、そのうえ人骨を喰らう毒鼠までいる。

 毒鼠と灰入が死闘を繰り広げていたり、人の形を保った灰入と犬と合体した灰入、鳥と合体した灰入がどつきあったりしている。

 彼らは、生前よく喧嘩でもしていたのだろうか。

 幸い、こちらのことを気にする者はあまりいないようだ。飛びかかってきた奴らも、隔壁をガリガリと引っ掻いていた奴らだろう。

 外に出たかっただけなのかもしれないな。


「うわあ……」

「リゼには刺激が強いみたいね」

「普通はこうだろう。俺達が変なんだ」

「それはそうね。あなたも記憶がないのだから、同じリアクションでも良いくらいよ」

「記憶がなくとも、本能では忘れないこともあるらしい」


 こうした光景は、珍しいものではなかった。

 俺の本能には、そう刻まれているらしい。


 だが、いつ牙を剥くかわからない。目に付く者は、処理していくしかないだろう。メイジーもそう判断したのか、たとえこちらに見向きもしていなくとも、灰入達の首を断ち切っている。

 しかし、毒鼠を前に一瞬動きが止まった。


「私こいつ嫌いなのよね」

「好きなやつなんているのか?」

「私も苦手だ~」

「俺がやろうか」

「……いや、やるわ」


 メイジーが意を決したように拳を強く握り、剣の切っ先を毒鼠に向け、炎を放った。この剣は杖の役割もこなしているらしい。

 そして、これが毒鼠の正しい対処法だ。体を傷つければ、毒液を飛ばしてくる。死ぬ間際にも毒霧を放つが、身を焼かれていれば毒霧は放てなくなる。流石に、知っているようだ。

 それにしても……。


「守られるというのも、歯がゆいものだな」

「あ、おじさんやっとわかった?」


 リゼが頬を膨らませて、俺の脇腹を突いた。


「ああ、すまんな」

「まあ、私あまり戦えないからしょうがないけどね」

「時間があるとき教えてあげましょうか」

「え、いいの? 教えて教えて!」


 そんな会話をしながら、メイジーは一体また一体と灰入を片付けている。目が見えなければ和やかな会話に聞こえたかもしれないが、会話の和やかさと目に見える光景の凄惨さのギャップに頭がどうにかなりそうだ。

 しかし、リゼに戦いを教えるのは悪くない。リゼには戦いとは無縁でいてほしいという気持ちもあるが、こんな状況だ。身を守るため、戦えるにこしたことはないだろう。

 俺も、時間があるときに教えるとするか。


 しばらくして廊下の灰入もあらかた片付いたが、まだうめき声は止まない。この階には、部屋は奥の大扉以外には見当たらない。

 あの大扉の先にある研究室のためだけのフロアなのだろう。

 つまり、このうめき声の主が、あの大きな扉の奥にいるということか。この……地響きさえ起こしそうなほどの大きなうめき声の主が。


「一体どんなやつなんだ」

「……とある研究員の成れの果てよ」

「知っているのか?」

「ええ。あなたの記憶にも関わる人だわ」


 そう言われると、妙に緊張してくるな。剣の柄を握る手にも、自然と力が入るというものだ。

 大扉の目の前まで来たが、この扉もまた生体認証で閉じられているらしい。隔壁と同じモニター付きの装置が、扉の横に取り付けられている。


「なぜメイジーの生体情報が登録されているんだ?」

「あなたも登録されてるわよ」


 メイジーが、当然でしょと言わんばかりに即答した。


「そうだったのか」

「エルピスが気を許してる人間は、最高管理権限を全員持ってるのよ」

「ええ……大丈夫なのかそれ」

「彼が気を許すというのは、そういうことよ」


 どうもエルピスというのは、人をあまり信じない人物らしい。

 だが、一度信じれば自分が管理している施設の最高管理権限を付与するほど甘くなるのか。エルピスの人物像が、少し良くわからなくなってきたな。

 先ほど1階で見たような実験を行うような人物で、人間不信で信用した人間はとことん信用する。いまいちピンとこない。

 エルピスは、俺の親友の一人は、そんな人物だっただろうか。


「さ、いい加減このうめき声を止ませないとね」

「そうだな、本人も苦しいだろう」

「調整はできないのかな」

「難しいわ。ここまで狂ってしまうと。それに、調整で黒紋を治せるのは不死者だけよ」

「逆に言えば不死者は治せるのか」

「ええ、それが私の一番の仕事なの」


 言いながら、メイジーが生体認証を行った。

 この扉の向こうに、轟音を垂れ流す者がいる。あの隔壁は、ここにいた灰入とわずか一体の毒鼠だけを隔離するために降ろされたものではないだろう。

 あれだけならば、エルピスならどうにかできたはずだ。

 記憶がなくとも、それくらいはわかる。エルピスは、強かった。彼の手にも負えないのは、この先にいる灰入が強すぎるからか、それとも精神的な理由からか。

 いずれにしても、心臓が早鐘を打つ理由には十分過ぎた。


 扉が音を立てて開いた。


 目の前に現れたのは、体中に黒い痣のある女性だ。背中には、彼女の体の何倍も大きな翼があるが、鱗はない。翼の形は、どこか鴉に似ている。

 彼女の真紅に染まった瞳が、俺達を見据えた。

 一際大きなうめき声を上げ、両手で頭を掻きむしっている。頭からは血が流れるが、傷は一瞬のうちに修復された。

 彼女の四肢は、人間の肌と相違ないが、関節を見れば機械なのがわかる。最終型アーティカルだ。


「やっぱりね……さっき読んだ日記の持ち主よ」

「え、あの人なの?」

「あの外見……大鴉と融合したか」

「大鴉ってモンスターだよね。どうして……」


 大鴉は、普段は温厚だ。特別な資格は必要になるが、飼う者もいると聞く。

 だが、怒らせれば騎士が十人束になっても敵わないほど強大な力で暴れる。彼女の赤い瞳と鋭く尖った羽は、大鴉が怒ったときの特徴と一致している。

 そして、彼女は一瞬だらんと腕を弛緩させたあと、腕を大きく開いて咆哮を上げた。


「来るわ。下がってて!」


 言われるがままに、リゼを抱きかかえて下がる。任せてもいいのかと口をついて出そうになった言葉は、大鴉と融合した灰入が羽ばたき飛び上がった瞬間、喉の奥へと引っ込んだ。

 リゼを隠すように左腕で抱えながら、右手で剣を握り警戒態勢を取る。

 メイジーは飛び上がった彼女めがけ氷柱を素早く放ったが、氷柱は彼女の頬を掠めて天井に突き刺さっただけだった。

 彼女は天井の氷柱とメイジーを見比べた後、再度甲高い咆哮をあげ、急降下。翼から刃のような羽を二枚もぎ取り、両手に一枚ずつ持っていた。

 メイジーが剣を水平に構えた瞬間、剣に二枚の羽の刃がぶつかる。甲高い金属音が鳴り響き、風が巻き起こった。風圧に足元が揺らぎそうになるのを堪え、彼女たちの戦いに注視する。


 これは、俺の苦手な相手だ。

 飛んだり降下したり素早く動き回る相手は、昔から苦手だった。


 防がれた大鴉灰入は再度飛び上がるが、メイジーが跳躍し追いすがる。剣を水平に構え、彼女の首めがけて凪いだ。

 だが、硬質な翼で防がれる。それでもメイジーは剣を振り抜き、彼女の体を吹き飛ばし、自身の足元に風を発生させ、推力にして彼女を追った。


 まるで舞踊だな。

 踊り狂うかのように空中で放たれる大鴉灰入の連撃を落下しながらいなし、再度推力をつけ浮かび上がる。夜風に舞う光の刃のようなメイジーの連撃が、大鴉灰入の左翼を削った。


「すごいね……私全然わかんないや」

「そうだな」


 左翼が削がれた大鴉灰入が体制を崩した瞬間、メイジーがまた風魔法で飛び上がり、彼女より高く跳んだ。

 そして巨大な剣を彼女の体に叩きつけた。大鴉灰入が声もなく床に叩きつけられ、鈍い音が鳴る。


「ごめんね」


 メイジーがぽつりと呟き、風魔法を天井に噴射し、目にも止まらぬ速さで――。

 大鴉灰入の首を斬り飛ばした。


「終わったか」

「ええ……終わったわ」


 非道な実験に心を痛め、エルピスの姿に浮かれていた彼女の亡骸が、浄化された灰へと変わる。体も頭も全てがアッシュへと変わり、メイジーとリゼと三人で彼女の遺灰を麻袋に詰めた。

 しっかりと、彼女だとわかるよう、まだ何も入れていない麻袋に。メイジーはそれを一瞬大事そうに抱きかかえた後、俺に手渡した。


「いいのか?」

「ええ。旅には必要でしょう?」

「……使いづらいな」

「そうね。けれど、使ってあげて」


 俺は一瞬逡巡した後、頷いた。

 考えてみれば、何気なく使っていたアッシュ達も、そうだったのだろう。誰かの大切な人だったり、誰かの知り合いだったりしたのかもしれない。

 それが弔いになるかはわからないが、せめて、全て大事に使わせてもらおう。


「……少し休憩にしましょうか」

「そうだな、お前には必要そうだ」


 メイジーが額に汗をかきながら、僅かに微笑んだ。

 扉を閉め、持ってきていた水と食糧をそれらを包んでいた布の上に並べる。先ほどまで激しい戦いが繰り広げられていたとは思えない光景に、思わず息が漏れた。

 三人で布を囲んで座る。

 戦いの音と彼女の咆哮の鳴り響いていた部屋から一変、部屋は静けさに満たされていた。

 メイジーは乾燥したパンと干し肉を手に取り、少しずつ齧った。噎せて慌てて水を飲み、リゼに背中を擦られている。

 俺も干し肉を食べてみたが、なるほど結構繊維質だ。肉体的、そして精神的疲労もあれば噎せてしまうのも無理はないな。


 そう思ったが、俺も盛大に噎せた。

 リゼに背中を擦られながらメイジーの顔を見ると、彼女は「あはは」と大口を開けて笑っていた。まあ、彼女に一笑い提供できたのなら良しとしよう。


「あー、笑ったわ」

「それはなによりだ」

「あー、リゼ、あなたどんな魔法が使えるんだっけ?」

「え? 生活魔法はひとしきり。あとはアーティカルの調整魔法と、呪術魔法かな」


 メイジーが「ああそうだったわね」と、天井を仰いでいる。呪術……そういえば、呪術も魔法の一種だったか。リスクのある魔法が多い類だったと思うが、リゼが呪術か。どうにも結びつかんな。


「調整魔法の担当教師が呪術マニアでね、私の代の子は全員無理やり教えられたんだよ」

「とんでもない教師だな」

「でしょー? 名前は確か――」

「トム・ティット・トット校長ね」

「そうそう、そんな名前!」


 校長ときたか。

 授業に無関係な魔法まで教えるとは……しかも呪術には、禁じられた魔法も多いと聞く。教育に悪影響なんじゃなかろうか。

 しかし、リゼもメイジーも懐かしそうに笑い合っている。悪い教師というわけではなかったのだろう。


「でも呪術が使えるなら、ちょっと教えれば自分の身くらいは守れるようになるわよ」

「え、やったー! 要らないと思ってたけど習っててよかったー!」

「要らないとは思ってたんだな」

「戦闘魔術専攻ならいいけど、調整魔術専攻だったし」

「メイジーは呪術は?」

「わたしは呪術は理論はわかってるけど、使えないわね。呪術の才能だけはなかったのよ」


 なるほど、向き不向きがあるらしい。実際のところ、メイジーの戦闘スタイルには呪術は合わないだろうが。呪術は確か、搦め手が多かったからな。

 搦め手を使うより、正面から叩き伏せるスタイルに見えるメイジーには通常の攻撃魔術のほうが合っているのだろう。


 飯を食べながらひとしきり談笑して片付けをし、メイジーが「さてと」とデスクに置かれた冊子を持ってきた。二冊あるな。一冊は、彼女の日記だ。アサミの日記と書かれている。

 もう一冊も日記のようだが、書かれている名前も文字も違う。こちらは……エルピスと、名前が書かれている。


「実験装置とかは完全に壊れてて形もないけど、この二冊でだいたいわかるでしょ」

「確かにな」


 改めて見渡してみると、部屋の中央に鎮座している巨大なガラス槽が完全に粉々になっている。床にガラス片が散らばっていないのを見るに、片付けることはできたのだろう。

 ガラス槽とパイプで繋がっている機械もまた、ボコボコに凹んでいる。ここで何が行われていたのか、それを知る手がかりは、メイジーの持ってきた二冊の日記だ。


 三人で身を寄せ合って座り込み、アサミの日記から開いてみた。



 ――――。


 ここで働き出して、もう3年だ。もうって書いたけど、私的にはまだ3年という感覚で、本当はもっと長い間働いていたような気がしている。

 なんて言ったって、ここでの日々は毎日慌ただしくて大変で、色々なことが起きすぎているせいで、時間の進み方がおかしく感じるんだもの。


 (中略)


 西果てのラボに所属して、もう3年と半年が経つ今日、異動命令を受けた。というか、まあ、実験体になれってことらしい。

 これはローエングリン様からのご命令で、エルピス様はすごく辛そうにしていた。なんでも、命の保証はないんだって。同意書まで書かされちゃった。

 本当は嫌だったけど、エルピス様が庇ってくれて、かえって決心ができた。

 人類の生き残りのためなら、私も命をかける覚悟を持てちゃったよ。

 肖像画にいたずら書きをしちゃったことを謝ったら笑って許してくれたハインリヒさん、エルピス様、イーリス様、メイジーさん、●●さん(検閲済み)、私もあなた達の覚悟に並べたかな?


 (中略)


 今日から実験開始だ。

 私の大事なペットの大鴉のミミちゃんが、研究室に連れてこられた。なんでも、大鴉は灰への完全抗体を持っていて、しかも竜人と比べて暴走リスクが低いらしい。

 だから、大鴉の遺伝子情報を人間に組み込んで適合すれば、ナラティブを利用しなくても灰への抗体が得られる可能性があるという話だった。

 大丈夫だよね……?

 私はともかく、ミミちゃんが犠牲になるのは辛い。今もこうして日記を書いている私の肩に寄り添って、心配そうに左手に翼を重ねてくれるミミちゃん。

 本当に、大丈夫なのかな。


 (中略)


 嘘だ。

 こんなのおかしい。

 だって、ローエングリン様、ミミちゃんの命には別状がないって。それくらいの遺伝子情報をちょっともらうだけだって言っていたのに……どうして……。

 どうして、血を全部抜いたの……?

 嘘だよ、こんなの。

 ねえ、ミミちゃん……。




 ローエングリン……私はあなたを許さない。


 ――――。


 読んでいるだけで、目眩がしそうだった。

 彼女がなぜ、大鴉と一体化していたのか、おおよその検討がついてしまった。恐らくは、その答えがエルピスの日記に書かれているのだろう。

 そして、俺は彼女に会ったことがあるらしい。ということは、彼女がああなったのは相当昔のことなのだろう。


 はあ……気が重いな。


「続けて読むか」

「うん」


 リゼが、いつになく沈んだような声で答えた。

 事実から目を背けることは、最早許される段階にはない。メイジーに任せていたとはいえ、俺達が彼女を殺したのだから。


 ――――。


 ローエングリンめ、何を考えているんだ。

 あんな実験、到底許容できるはずもない……ないけど……僕に彼を責める資格はないな。灰の抽出だって、ハインリヒに一発殴られた。

 今度は、知られたら一発じゃ済まないだろう。

 だけど、彼女の大鴉ミミちゃんから大量の血を抜くのだけは阻止したい。


 (中略)


 ローエングリンが、僕に内緒でミミちゃんから大量の血を抜いた。致死量どころか、全部だ。カラカラに干からびたミミちゃんの姿を、僕は直視できなかった。

 変異しはじめた体の痛みに耐えながら、必死にミミちゃんの亡骸を抱きかかえるアサミくんの姿は、もっと見るに耐えなかった。

 なんて声をかけていいか、わからない。

 今も彼女は、研究室で痛みに耐えながら泣いていることだろう。


 ローエングリンに文句を言いに行ったら、こんな言葉が返ってきた。

 あなただって、これまで実験と称してモンスターの命を犠牲にしてきたでしょう、と。それと何が違うんですかと言われ、反論できなかった。

 同じことなのだ。

 僕は、研究者でありながら、命を区別している。大切な職員の家族だからと、他のモンスター達とは切り離して考えている。

 それは人間の常だし、悪いことだとは思わないけど、返す言葉がないのもまた事実だ。


 結局、僕達はまた罪を増やして、これからも罪を増やし続けて、罪を抱えて生きるしかないんだな。

 なあハイン、一足先に眠りについた君には、今の僕らはどう映るだろうか。


 ああ、君の拳が恋しく思うときがくるなんてね。

 一緒にイーリス先生のところで暮らしていたときは、思いもしなかったよ。起きたら、また僕を叱ってくれ。

 いや、そう願う僕は傲慢だな。


 (中略)


 最も恐れていた事態が起きた。

 アサミくんが、ミミと一体化し、灰入になった。なぜだ? ここには浄化されていない灰など持ち込まれていないはずだが……。

 ローエングリンに問いただしたが、彼もわからないようだった。


 (中略)


 調べた結果、アサミくんが夜中にラボを抜け出し、上層に行ったことがわかった。上層で灰をたっぷりと浴びたのだ。

 もともとは、ローエングリンを殺そうと思って向かったらしいが、騎士に阻まれてできなかった。だから自殺行為に及んだのだ。

 ローエングリンの部下のハンスが答えてくれた。彼はぐったりとした様子で答えると、姿を消してしまった。僕には、彼を追いかけて捕まえることはできない。

 解放してやりたい。

 アサミくんは灰を浴びたあと、研究室に戻り、ミミちゃんと寄り添い眠りについた。そうして、融合したのだ。

 不思議なことに、彼女は僕だけは襲わないようだった。他の職員が入ると襲いかかったが、僕だけは襲わない。

 どうしてだよアサミくん……僕が憎いはずだろう。


 (中略)


 このラボは放棄することになった。

 僕らだけ、下層でぬくぬくとやってはいられない。それに、アサミくんには酷なことだが、彼女にあてられてか自ら灰入になる職員が続出した。そのうえ、今のアサミくんは危険だ。

 介錯しようとしたが、できなかった。対峙するだけで手が震えて、照準が合わなくなった。

 情けない。

 すまない。

 不甲斐ない所長を許してくれなんて言わないから。

 せめて……ここの灰入や君を解放してくれる者が現れるまで、待っていてほしい。


 本当にすまない。

 ごめんなさい。


 ――――。


 読んで、いくつか思い出すことがあった。この頭痛は、この日記の内容から来るものでもあり、記憶の復元によるものでもあるんだろうな。

 エルピスと俺は、兄弟のようなものだ。共にイーリス先生に拾われ、育てられた。詳しいことは未だ思い出せないが、夕食の揚げ鶏の数が俺のほうが一つ多いと文句を言うエルピスに揚げ鶏を一つあげたことを覚えている。

 そうした日常の些細な記憶が、俺の中に確かに蘇った。


 同時に、アサミのことも思い出した。確かに彼女に頭を下げられ、大笑いしたという記憶がある。記憶の中の俺の声は、今の俺からは考えられないほど愉快そうな大声だった。


 だが……苦しいな。

 思い出したのが、全てが終わってしまった後だなんて。


「おじさん……?」

「おおかた、記憶が一部戻ったんでしょう」

「その通りだ……」

「それで? エルピスを一発殴る?」

「いや、殴れるわけがない。俺は眠っていたんだ。俺にその資格はない」


 エルピスは、苦しんだはずだ。彼は心優しい性格だった。確かに研究バカで必要とあれば非道な実験も視野に入れていたが、少なくとも昔はそうじゃなかったし、非道な実験を決行するときはいつも申し訳無さそうな顔をして、俺に殴られたがっていた。

 俺はアイツを殴る度、エルピスにこんな非道な選択を迫る世界を恨んだものだ。


 だが、ローエングリン。

 騎士団長を名乗りながら実質的に国のトップにいるというアイツは、一発殴らなければならないかもしれないな。彼は、正面から責任を取るべき立場にいながら、そうしていないように思える。


 ため息をつくと、リゼも同時に長く息を吐いていた。彼女は瞳に涙を滲ませながら、拳を硬く握っている。


「みんながこんなに苦しまないといけないなんて……」


 その声色は悲しみか、それとも怒りか、俺には判別はつかなかった。きっと、どちらでもあるのだろう。


「皆多かれ少なかれ苦しんでいるのだろう。それは、どんな世界でも同じことだが、歪だな、これは」

「うん、こんなのおかしいよ」

「そうね、だからわたし達は、この世界を変えたいの」


 メイジーの言葉に、ようやく得心がいった。俺がどれほどの人間かは知らんが、俺を目覚めさせたのは世界を変えるためなのだろう。買いかぶられたものだと思うし、そう思い至った俺も自惚れが過ぎるが。

 だが、そのためには記憶だ。

 記憶が朧気なままでは、こんなぼやけた視界では、世界に立ち向かうことなどは到底できやしないのだから。


「メイジー、俺は――」

「相変わらず察しが良いわね。わかってるわ。ゆっくり旅を続けて、じっくり思い出してちょうだい」

「悪いな」

「ううん、そもそもわたしが記憶に蓋をしたんだもの。悪いなんてことはないわよ」


 メイジーは二冊の日記をカバンに入れて立ち上がり、カバンをリゼに手渡した。リゼはカバンを背負うと、「重いね」と零した。

 だが、俺達は背負っていかなければならない。どれだけ重かろうと……。


「さあ、次は地下よ。そこにエルピスからの伝言があるはず」


 メイジーが扉を開けながら言った。淡々とした声色だが、少し声が震えているようにも感じる。当然だ。アサミを介錯したのは、彼女なのだから。

 俺は彼女の重荷を少しでも背負ってやりたいと、彼女の隣に並び立った。


「もう後ろに隠れるのはやめだ」

「そう……ならもう止めないわ」

「ああ、ありがとうな、メイジー」


 礼を言うと、メイジーは耳を少し赤くして「行くわよ」と扉の先へと歩き出した。

 目指すは地下。

 そこに、親友からの伝言があるらしい。放棄されたラボの調査も、大詰めということだろう。

 一層身を引き締めながら、俺達はまた廊下を歩いた。

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