走竜を駆り、西果てのラボへ
目が覚めると、リゼが髪の毛を手ぐしで整えているのが目に入った。
なぜか、妙に心地よい気分だ。郷愁とでも言うべきか、魔力光炉の薄白い光に目を薄めながら、胸を生暖かい手に撫で回されているかのような心地だ。
「あ、おじさんおはよう」
「ああ、おはよう」
リゼが俺を見て、にこっと微笑んだ。同時に髪から手を離し、部屋に備え付けられている鏡を見て「よしっ」と右手の拳を握っている。
俺も、支度をしなければ。
服を宿屋の寝間着から着替え、ベッドに立てかけておいた剣を腰に差し、ベルトをキツく締める。
うん、身が引き締まる想いだ。
「おじさんおじさん、外套まだ借りててもいい?」
壁に埋め込まれたフックに吊るしておいた外套に手を伸ばすと、リゼが両手を合わせて少し腰を折りながらそんなことを言った。
「気に入ったのならお前にあげよう」
俺が言うと、リゼは目を丸くして「え?」と言って外套と俺を交互に見た。俺はなにか変なことを言っただろうか。
確かにこの外套は大切なものだ、という実感がある。
だが、リゼになら譲ってもいいと心から思えるのだ。何故かは、わからないが。
「どうした?」
「ううん、ありがとう! だけど、借りておくだけにするよ」
「そうか、じゃあ要らなくなったら言ってくれ」
「うん、わかった」
それから寝癖を直し、宿でパンとスープだけの簡素な食事を摂り、宿の主人に見送られながら外へ出た。
朝早い時間ということもあってか、街に人の影はほとんど見受けられない。
「西の門だったよね」
「ああ、そこに救援物資と、知り合いがいるかもしれないという話だった」
「知り合い? 私も知ってる人?」
「眠る前はどうか知らんが、目覚めてからという話なら、知らん人だろう」
「ふうん、じゃあ私が眠っている間に会ったんだね」
こくりと頷くと、リゼは「なるほどね」と言って、愉快そうにふふっと笑った。何がそんなに愉快なのか、俺にはとんとわからんが。
西門に到着すると、確かに彼女はいた。援助物資と思しき箱の傍らに、門に背中を預けて立っている。
そして、彼女の傍らには走竜がいた。古竜のなり損ないとも呼ばれる、地を駆ける竜だったか。なんだか妙に懐かしい。
「来たわね」
「メイジー、隣の走竜はなんだ?」
「この子? アレクサンドラ……ドラと呼んでるわ」
メイジーは隣に行儀よく佇むドラの頭を優しく撫で、ドラの鞍に物資の入った箱を括り付けた。
「元はあなたの走竜だったのよ。だからあなたに返そうと思って連れてきたの」
「懐かしいと思ったのはそういうことか」
「そういうこと。そしてリゼ、お久しぶりね」
メイジーが今度はリゼに向き直り、右手を軽く挙げた。リゼは少し目を泳がせて、外套の裾をギュッと掴んだ。
「えと、はじめまして……メイジーさん」
言われたメイジーは、ふっと笑い、「そうだったわね」と湿り気を帯びた声色で呟いた。
「わたし、あなたの学校の先輩だったのよ」
「そうなのか? じゃあお前も魔術師なのか」
「正確には魔技師よ」
「その割には、背中に巨大な剣を携えているが……」
先日会ったときには無かったものだ。リゼよりも低い身長には不釣り合いなほどに、巨大な剣が彼女の背中に斜めに背負われている。
メイジーは剣の柄に手をかけて、微笑んだ。
「かっこいいでしょう?」
「正直な」
「あら素直。街に来て少しは元気が出たみたいね」
「まあな、生者にも会えた」
「面白い人がいたよね!」
リゼがドラを撫でながら言った。
面白い人というのは、きっとハンスのことだろう。彼は確かに、面白い人だったかもしれない。
「ま、話は道中聞かせてもらうわ。わかってると思うけど、わたしもラボまで行くから」
「ああ、じゃあ早速出発するとしよう」
「うんっ!」
ドラの鞍に跨ると、リゼとメイジーも後ろに連なるように跨った。手綱を握ると、ドラは畳んでいた足を真っ直ぐに立ち上がらせた。
走竜は四足歩行の珍しい竜だが、背は高い。目線が高くなり、街の門に頭をぶつけそうになってしまった。
「行くぞ、ドラ」
声をかけて足でドラの体側を軽く叩いて合図すると、ドラは形容しがたい甲高い声をあげ、駆け出した。初速はゆっくりとしているが、速度は徐々に上がっていき、みるみるうちに人間が走るより何倍も速くなった。
風を切る感覚が気持ちいいな。
人口風なのを呪いたくなる気分だ。これが地上の天然の風だったならば、もっと心地よかったことだろう。
二人が後ろで何事かを話していたが、風が耳の横を駆け抜ける音で何を話していたかは聞こえなかった。
あっという間に中央通りを抜け、西央通りに入り、そして以前休憩した焚き火台が見えた。
ドラの速度が少し遅くなってきている。
確か、走竜は速く走ることに特化した種族だが、バテるのも速いのだったか。エネルギーの消費が激しいのだろう。
「一旦ここで休憩にしよう!」
聞こえているかはわからないが、二人に声をかけ、ドラの手綱を強く引き、停止させる。ドラは息切れをしており、口からはよだれが垂れていた。
ちょうど限界だったらしい。
箱から食糧と水を取り出し、いくらかをドラに与える。何日分もの食糧と水が入っているようだが、ドラがいるから俺達三人では多い。ちょうど良かったと思うべきだろう。
ドラは弱々しい声を出し、大きなあくびを一つして、姿勢を低くして目を閉じた。食ったらすぐ眠り、英気を養い、また走り出すのだろう。
ドラの体に背中を預けるようにして座ると、両隣にリゼとメイジーが座ってきた。ベンチもあるというのに……。
「もうここまで来ちゃったんだねえ」
「あっという間だったな」
「今後も、早く目的地に行きたい場合には走ってもらうことになりそうだ」
「それがいいわ、走竜は走ることを生きがいにしているし」
これだけ速くては景色などは見られないだろうが、緊急事態にはドラの速さはとても役に立つ。目的地が定まっており、寄り道をする余裕がないときには走ってもらい、それ以外は歩いてもらうか。
ただ、歩きが多くなれば、意味もなく走らせよう。
それが走竜と共に在るための心得なのは、覚えている。
「西果てのラボは、ここから近いな」
「ええ、ここから少し走ったら分かれ道が見えるわね」
「そこを曲がれば、ラボのエリアなんだよね?」
「そうよ。ラボとか研究所区画とか言われてるけど、実際は国が抱えている大きな建物が一つあるだけの簡易的な場所なんだけどね」
「何の研究をしてたの?」
「当然、死灰と灰入よ」
まあ、そうだろうな。
国のお抱えの研究所となれば、国にとって重大な事柄を研究するものだろうが、目下最も重大な事柄は、もうずっと長い間、変わらない。
リゼはため息をついて、ドラの体に深くもたれかかり、天井を見上げていた。青空があるわけでもないのに、日光を模した光だけが降り注ぐ歪な下層の空を。
「もっと違うことをのびのび研究できるようになればいいのにね」
そのリゼの言葉に、メイジーが「そうね」と吐息混じりの声を返した。
「だけど、所長のエルピスはとても楽しそうよ」
エルピス……。
なぜだか妙に懐かしい名前だ。知り合いだったのだろうな。ますます、俺が一体何者なのかわからなくなってきた。
「そうなの?」
「彼は研究バカだから……難題であるほど楽しそうなのよ」
朧気に、浮かぶ情景があった。
誰かが、白衣を着て背中を曲げている長髪の男に実験結果を報告している様子だ。内容はハッキリとは覚えていないが、実験結果が芳しくないものだったということは報告者の落胆ぶりから見て取れる。
報告書を読んで話を聞いた長髪の男は、口端を大きく歪ませた。
そして、こう言った。
「素晴らしいよ、僕達はまた一つ課題を得たんだ。ああ、楽しみだなあ……とかなんとか」
声に出していたことに途中で気づき、慌てて取り繕ってしまった。メイジーとリゼが、似たように目を見開いて俺を見ている。
「思い出したの?」
「いや、薄っすらとだけだ。このセリフを放ったのが恐らくエルピスだろう?」
「ええ、そうよ。その言葉を聞いたあなたは、ハッハッハッとお腹を抱えて大笑いしてたわ」
「俺がか? 想像つかんな」
「今のあなたからは、そうでしょうね」
俺は、そんなに豪快に笑うような奴だったのか。
言われてみても、いまいちピンとはこない。これまで、記憶を揺さぶるような話をされると、記憶が蘇るような感覚があった。今回のエルピスのこともそうだ。
だが、自分のこととなるとそうした感覚は全くない。
もどかしいな……。
「ただ、安心してちょうだい。あなたは記憶を失う前と、そう変わりないわ」
「そうなのか?」
「そうなの、あの頃はまだみんな笑えていた。ただそれだけのことよ」
「……」
メイジーの言葉に何か返そうとしたが、何を返せばいいのか、とんと検討がつかなかった。
彼女は「さてと」と立ち上がり、箱の中から水の入ったボトルを3本取り出して、俺達に配った。
それから水を飲み、仁王立ちし、「生き返ったわ」と微笑んだ。
彼女なりに、この空気をどうにかしようとしてくれたんだろう。不死者の言う生き返ったという言葉は、なんとも滑稽なような笑いづらいような不思議な言葉だが。
しかし、せっかく切り替えようとしてもらっておいてなんだが……気になることが一つだけある。
「一つ聞かせてくれ」
俺が切り出すと、メイジーはまた真剣そうな眼差しに戻り、俺をじっと見据えた。聞いても良いということだろう。
「俺とエルピスは、どういう関係だったんだ?」
問うと、彼女は一瞬リゼの方をちらりと見て、それから天井を見上げ、ほうと息を吐いた。視線を追って目に入ったリゼは、ボトルを大事そうに両手で持って、目を閉じて口元だけをわずかに緩ませていた。
「親友の一人よ」
親友ときたか……。想像もしなかったな。
「そうか……なら、早く思い出したいな」
「焦らないほうが良いわ。焦らなくても、時が来ればいずれ戻るから」
「そういうものか」
「ええ、そういう魔法を施してあるのよ」
なるほど、目覚めさせたのもメイジーなら、記憶に蓋をしたのもメイジーということか。彼女のことは、信頼できる。封じられた記憶が心の奥底から訴えかけてくるだけでなく、目が覚めてから改めて出会い、こうして行動を共にしている今の記憶だけでもそう判断できた。
ならば、理由があるのだろう。
その理由については、今は聞くべきではなさそうだ。メイジーが、困ったように眉根を下げて目を逸らしている。
これ以上、彼女を困らせたくはない。
「ありがとう、メイジー」
「お礼なんて……言われるようなことはなにもないわよ」
「お礼は素直に受け取っとくもんだよ? メイジーさん」
「はあ……そうね、そうだったわ」
リゼの言葉に一度はため息を吐きながら、メイジーはすぐに「ふっ」と笑った。リゼも「えへへ」と、笑っている。
また、リゼに救われたな。
それから俺達は、ドラが起きるまで、他愛もない話をした。不思議なものだ。記憶が封じられていても、以前もこうして三人で会話したことがあるというのが実感としてわかるのだから。
ラボに行けば、もっと色々なことがわかるのだろうか。
期待と不安を胸に抱きながら、目覚めて元気よく鳴いているドラに跨った。
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