海辺のラフマニノフ

チドリ正明

午後三時

 僕はこの十年で、少なくとも三つの大切なものを失った。そのうちの一つが、灯子だった。

 そして彼女の弾くラフマニノフが、いちばん最初に消えた。


 それは特別に劇的だったわけでもない。

 ある日ふと目覚めたら、何かが世界から音もなく剥がれ落ちていた、そんな感じだった。

 テレビをつけても、歯を磨いても、アイスコーヒーを飲んでも、彼女のピアノはもう二度と僕の耳に届かなかった。


 灯子はラフマニノフの『前奏曲 嬰ハ短調』ばかりを練習していた。それも、必ず午後三時。まるで何かの儀式みたいに、その時間になると古いアップライトピアノの前に腰を下ろし、例の重たい旋律を指先でなぞる。


 彼女の弾く音は、いつもどこか悲しそうで、気怠く、少しだけ怒っていた。


 僕たちはその年の夏、湘南の海辺の町で二ヶ月間だけ暮らした。理由があってそこにいたわけじゃない。ただ東京のアパートが暑すぎたし、彼女が「海の匂いがする場所でピアノが弾きたい」と言ったから、そうしただけだった。

 借りたのは一軒家の離れみたいな小さな平屋で、玄関を開けるとほこりっぽい畳の匂いがした。

 居間にはクーラーもなく、扇風機が一台と、猫が一匹いた(猫は近所の家の飼い猫だったが、勝手に出入りしていた)。


 その頃の灯子は少しだけ青く、少しだけ冷たく、そして手の届かない場所にいるような女だった。

 僕はその距離感が気に入っていたし、彼女もまた、僕の不器用さを面白がっていた。夜になると僕たちはビールを飲みながら、くだらない映画を観て、時々、何かを交わし合った。


 だけどその夏は、僕の記憶の中でいつも斜めに傾いている。

 正午の太陽が強すぎたせいか、それともラフマニノフの旋律が、あまりにも真っすぐ過ぎたせいか。


 灯子がいなくなったのは、八月の終わりの、風の強い日だった。






 朝起きると、部屋の中がやけに静かだった。

 風が障子を揺らす音と、どこか遠くでセミが鳴く声だけが、空間の隅に染み込んでいた。


 僕はいつものように台所でインスタントコーヒーを淹れたが、どこか感覚がずれていた。

 空気が軽すぎるのだ。ひとつ、そこにあるはずの何かがなかった。


 灯子の姿は、なかった。

 彼女のピアノ椅子にも、布団にも、化粧台にも。その痕跡すら、どこか拭われたように静かだった。


 食卓の上に一枚の便箋が置かれていた。青い縁取りがされた懐かしい紙だった。


「明日、いなくなります。どうか探さないでください。

 ラフマニノフは、私の中でちゃんと終わりました。」


 たったそれだけが、灯子の“最後の演奏”だった。


 僕は椅子に座り、コーヒーが冷めるまでその便箋を眺めていた。読み返したりはしなかった。

 頭のどこかでは、「いつかまた戻ってくるかもしれない」と考えていたし、実際、その日からしばらくは毎日午後三時になるとピアノの部屋を覗いた。


 でも、当然ながら、彼女は二度とそこに現れなかった。


 それからひと月ほどして、僕は東京に戻った。九月に入って、暑さが少し和らいだ頃だった。

 僕たちが住んでいた家は、そのまま何事もなかったように海の風に吹かれていた。猫だけが、時々、玄関先に座ってこちらを見ていた。


 あれから十年が経つ。


 僕はいくつかの職を転々とし、いくつかの関係を終えた。けれど、灯子のような人には二度と会わなかったし、彼女の弾くラフマニノフの旋律は、いまだに僕の中で終わっていない。


 その音を、確かめに行くことにした。理由はよくわからない。ただ、ふとそう思った。それだけだった。



 


 電車を降りると、潮の匂いがした。

 あの日と同じ、いや、正確には少しだけ違う――わずかに薄まって、どこか懐かしさのにじんだ匂いだった。


 駅の構内には、冷房の効いた待合室と、売店の跡地だけが変わらず残っていた。

 誰もいないベンチに腰を下ろし、僕は鞄から一本の水を取り出して一口飲んだ。


 八月の終わりにしては風が涼しかった。


 歩いて十五分ほどで、あの平屋に辿りついた。瓦屋根の端が少し欠けていたが、家そのものはまだあった。

 玄関の前に立つと、雑草がひざ下まで伸びていて、誰かが住んでいる気配はなかった。

 門の前には猫が座っていた。白地に黒いぶちのある猫。片目が少し垂れていて、どこかとぼけた顔をしていた。


 十年前、灯子が「ボス」と呼んでいた猫だった。確か、たくさんいる野良猫の中で一番の荒くれ者だったと思う。いや、同じ猫とは言い切れない。だけど、僕にはそう思えた。


 試しに、「よお」と声をかけてみると、猫はしばらくこちらを見つめ、まるで納得したように身を翻して、隣の道へ消えていった。


 僕は笑ってしまった。誰にも聞こえないような、小さな笑いだった。


 そのまま家を離れ、昔よく通ったバーに向かった。灯子が“夜のピアノ”と呼んでいた場所だ。

 たいてい、平屋での演奏の後に寄って、ジントニックとナッツを頼むのが定番だった。彼女はラムベースの甘いカクテルを好んだ。僕はそれをからかって「子どもっぽい味だ」と言ったが、灯子は「でも飲んでみたいんでしょ」と返して笑った。


 店はまだあった。「フィガロ」という名前の古びた木製の看板が、風に揺れていた。

 中に入ると、カウンターの中には中年の男性が立っていた。少し白髪が増えて皺が深くなっていたが、あの頃のマスターと同じだった。

 僕のことを覚えている様子はなかったが、別に構わなかった。


「ラフマニノフ、流れてますね」と僕は言った。


 店内にはあの曲がかかっていた。『前奏曲 嬰ハ短調』。ただし、灯子の演奏ではなく、プロのピアニストによるレコードの音だった。

 彼女の演奏よりも、もう少し、重く、正確で……でも心のどこかを削るような音ではなかった。


 マスターがグラスを磨きながら頷いた。


「たまにこれを弾きに来る子がいるんですよ。なかなかの腕でね。あなたのお知り合い?」


 僕は首を振った。


「わかりません。でも、彼女も午後三時に、あの曲ばかり弾いてました」


「午後三時に?」


「ええ。決まってその時間に」


 僕がそう言うと、マスターが少しだけ眉を動かした。


「その子も、そうですよ。不思議ですね」


 僕は自然と笑みをこぼしていた。





 バー「フィガロ」は、以前とほとんど変わっていなかった。

 木の床はところどころきしみ、カウンターの奥の棚には色あせたウイスキーのボトルが並んでいた。

 違ったのは、角にスマートスピーカーが置かれていたことだ。マスターはそれに向かって話しかけ、音楽を切り替えていた。

 だが、ラフマニノフだけは、アナログのレコードプレーヤーから流れていた。針が盤面に触れると、わずかなノイズとともにあの旋律が始まる。

 奇妙なこだわりだと思った。


「この曲だけはね、配信じゃ駄目なんですよ」


 マスターはそう言いながら、僕のグラスにジントニックを注いだ。


「どうしてですか?」


「理由はありません。ただ、そういう気がするだけです」


 答えになっていなかったが、僕は頷いた。

 そういうことはある。


 ラフマニノフの『前奏曲』は、昔と同じように、午後三時の空気に沁みていった。今はもう夕暮れが近い。

 カウンターの端に座っていた女性が、グラスを空けて立ち上がる。細身で、やや背が高く、肩までの黒髪を一つに結んでいる。年齢は僕より少し若いくらいか。

 どこか灯子に似た気配があった。いや、似ていたのは、仕草でも姿でもなく、“音の輪郭”だった。


 彼女は、僕の視線に気づいたように軽く会釈して、扉の外に消えていった。


「今の子ですか?」


 マスターに尋ねると、彼はグラスを拭きながら、静かに頷いた。


「ええ。でも、名前は知らないんです。週に一度くらい来て、閉店前にピアノを触るだけ。誰かを待っているのかもしれませんね」


 僕は時計を見た。針は、午後六時を少し回っていた。

 十年前、灯子はいつも午後三時に弾いていた。彼女は時計を見ずに、時間ぴったりにピアノに向かった。

 まるで、自分の中に“午後三時の鐘”を持っているみたいだった。


 ふと気になった僕は、かつて、灯子にこう聞いたことがある。


「なんでいつも午後三時なの?」


 彼女はすこし笑って、言った。


「午後三時って、いちばん寂しい時間じゃない? おやつも終わって、夕方にはまだ早い。蝉はうるさいし、日差しは斜め。誰もいないような気がしてくる時間……」


 僕はそのときうまく答えられなかった。だけど今なら、彼女の言葉の意味が少しわかる気がした。






 翌日の午後。

 僕はもう一度「フィガロ」を訪ねた。時計の針はまもなく三時を指すところだった。

 今日は、あの女性がまた現れる気がしていた。


 午後三時――灯子の時間。


 バーの扉を開けると、カウンターには誰もいなかった。マスターが店の奥でグラスを並べていた。今日はラフマニノフはかかっていなかった。

 代わりに、少し古いボサノヴァが、真昼の光に溶け込むように流れていた。


「また来てくれるかなって思ってましたよ」


 マスターが、ふと声をかけてきた。


「ここに来る人は何かを忘れたいか、思い出したいか、どっちかですからね」


 僕は軽く笑ってから、「ラフマニノフは?」と聞いた。


「今日の三時、約束があるらしいですよ。もしかしたら弾いてくれるかもしれません」


 僕は奥のテーブル席に腰を下ろし、氷の溶けかけたジントニックを口に含んだ。懐かしい味がした。窓から差し込む午後の光は、少し色あせて見えた。


 それから、午後三時を数分過ぎた頃、扉が開いた。

 昨日と同じ女性が、音もなく入ってくる。今日は紺のワンピースを着ていた。季節に合わない長袖だったが、彼女には似合っていた。

 彼女はカウンターには座らず、奥のアップライトピアノの前に立つと、少しだけためらってから、蓋を開けた。


 ひと呼吸置いて、ラフマニノフの前奏曲が始まった。

 最初の音が、空間の温度を少しだけ変えた。


 その音には、灯子のような“棘”はなかった。正確で、丁寧で、でもどこかやさしすぎた。

 まるで、記憶をなぞっているような音だった。


 演奏が終わると、彼女はこちらをちらりと見た。

 僕が黙って頷くと、彼女はゆっくりと歩いてきて、向かいの席に腰を下ろした。


「……灯子さんの、知り合いですか?」


 彼女はそう尋ねた。


「名前、知ってるんですね」


「ええ。昔、この店で弾いていたって聞いて。マスターが話してくれました」


「僕は、彼女と昔ここに来ていました。もう、十年以上前のことです」


「やっぱり……なんとなく、そんな気がしました」


 しばし沈黙が流れる。グラスの中で、氷が小さく音を立てた。


「私、あの人の弾いてた曲を、ずっと練習してるんです。理由はよくわからないんですけど……」


 彼女はそう言って、小さく笑った。


「そうなんですか」


「はい。一度だけ、あの人に会ったことがあるんです。まだ私が高校生だった頃。海沿いの小さなホールで。短いリハーサルだけでしたけど……その音に、何かを持っていかれたような気がして」


 僕は言葉を返せなかった。

 それが灯子らしいな、と思った。


 彼女はどこにもいないのに、いまだに誰かの午後三時に、静かに現れる。


「……ねえ、彼女は、幸せだったと思いますか?」


 女性はそう尋ねた。

 その問いには、少しの迷いと、少しの憧れが滲んでいた。まるで、自分が見た夢の続きを確かめるような声音だった。


「それは、僕にもわかりません」


 僕はグラスの中で回る氷を見つめながら言った。


「でも彼女は、自分の悲しみを誰にも預けようとしなかった。まるで、それが一番正しいことだと信じているみたいに」


「強い人だったんですね」


「ある意味では。けど、弱さを見せられる場所がなかっただけかもしれない」


 彼女はうん、と小さく頷いた。

 店の外では、風に乗って砂の匂いがしていた。夕方の海辺は、どこか誰かの記憶に似ている。確かにそこにあるのに、手を伸ばせば消えてしまいそうな、輪郭の甘い風景。


 僕はかつて、灯子に「どうして同じ曲ばかり弾くのか」と訊いたことがある。

 彼女はそれに、こんなふうに答えた。


「一度だけ完璧に弾けたら、それで終わりにできると思うの。でも、いつもあと少しで足りなくなるのよ。だから、何度でもやり直すの。午後三時にね。そうしないと、今日っていう日が始まった感じがしないから」


 あの頃の僕は、それを「潔癖で奇妙な癖」くらいにしか思っていなかった。

 だけど、今ならわかる。

 灯子は音楽の中に自分を閉じ込めていた。世界に触れるのが怖くて、でも音の中なら自分の形を保てると信じていたのだ。


「……あなたの演奏は、彼女と違って、救われてるように聴こえました」


 僕がそう言うと、女性はすこし驚いたように目を見開き、それから照れたように笑った。


「私、自分のために弾いてますから。彼女は、誰のために弾いてたんでしょうね……?」


「……わからない。でも、あなたが今ここにいるってことは、たぶん、その答えかもしれませんね」


 ふと、午後三時の鐘のような沈黙が、僕らのあいだを流れた。


 誰も泣かず、誰も笑わず、ただ、失われたものが“ちゃんと失われた”という事実だけが、静かに場を満たしていた。





 ふと昔を思い出す。

 灯子は、どこかアンバランスな人だった。


 感情の波が急にやってきて、誰にも気づかれないようにすぐ去っていく。

 喜怒哀楽のどれも、表面にはうまく出せなかった。だけど、その代わりに、ピアノにはすべてが詰まっていた。


 彼女の演奏を聴けば、その日、彼女が何を思い、何を抱えていたかがなんとなくわかった。

 ラフマニノフの旋律は、彼女にとっての翻訳装置だったんだと思う。言葉にならない“何か”を、音の輪郭で世界に触れさせるための、唯一の手段。


 ある日、灯子は僕に言った。


「小さい頃、発表会で弾いた曲が間違えてばっかりで、観客がひそひそ笑ってたの。あのとき、家族は誰も助けてくれなかった。私、あの音の中に、置き去りにされたままなんだと思う……」


 彼女の声は静かだった。あまりに静かで、そのまま空気に溶けてしまいそうだった。


 僕には、何も言えなかった。いや、本当は言葉くらい出せたのかもしれない。でも、当時の僕は、それを言葉にしてしまうことで、彼女の痛みを“安っぽいもの”にしてしまいそうで、怖かった。


 だから、黙って彼女の髪を撫でることしかできなかった。





 あの夏、灯子がいなくなる前夜。

 僕たちはいつもより少しだけ早く晩ご飯を終え、扇風機の風に当たりながら缶ビールを飲んでいた。


 彼女は珍しく、テレビもつけずに黙っていた。

 窓の外からは、潮騒と虫の音が重なって聞こえた。部屋の中は、夜の始まりの匂いがした。


「ねえ」


 星空を眺めながら、灯子がぽつりと口を開いた。


「例えばだけど、私がどこか遠くへ行っちゃったら忘れられる?」


 不意を突かれて、僕は一瞬言葉に詰まった。

 でも、それは本当に例えばだったのだと思って、冗談交じりに返した。


「無理だろうな。君の音、耳に残ってるから」


「ふうん」


 灯子は、表情を変えずに缶ビールを傾けた。

 その目元に、ほんの少しだけ影があったのを、今でもはっきり覚えている。


「じゃあさ、もしも私が、もう音を出さなくなったら? 何も残さずにどこかで静かに暮らしてたら?」


「……それでも、たぶん忘れられないよ」


「なんで?」


「君が、午後三時を僕にくっつけたからさ。午後三時になるたびに君のことを思い出すと思う」


 そのとき灯子は、ほんの一瞬だけ笑った。

 それはとても小さな、どこか子供のような微笑みだった。


「それなら、安心していなくなれる」


 その言葉が、冗談じゃないと気づいたのは、翌朝になってからだった。







 バー「フィガロ」からの帰り道。

 僕は海沿いの坂道を歩いた。


 風が少し強くなっていて、乾いた砂が靴の隙間に入り込んだ。

 遠くで波が崩れる音がする。


 あの頃と同じだ。だけどもう、僕の隣には灯子はいなかった。


 ポケットに手を入れると、くしゃくしゃになった便箋が指先に触れた。

 十年前、彼女が残したもの。何度も読み返したその紙を、僕は夕暮れの海辺で静かに広げた。


「明日、いなくなります。どうか探さないでください。

 ラフマニノフは、私の中でちゃんと終わりました」


 僕はその言葉を、ようやく正面から受け止められる気がしていた。


 彼女にとって、“音楽を終わらせること”は、“生き直すこと”だったのかもしれない。

 そして僕は、今日ようやくその演奏を“聴き終えること”ができた。


 空には薄く茜色がにじみ、海の向こうへと広がっていた。

 潮風の中で、僕は小さく目を閉じて、かすかに聞こえる旋律を思い出す。


 ラフマニノフの『前奏曲 嬰ハ短調』。

 その音は、確かに灯子のものだった。だけど、もうどこにも属していない。


 僕は深く息を吸い、便箋をそっと折りたたんで、胸ポケットにしまった。

 そして、かすかな声で、誰にも聞こえないように言った。


「もう、いいよ。ちゃんと聴いたから。……灯子、午後三時を、ありがとう」


 そのとき、風の中で誰かが笑ったような気がした。


 僕はそのまま歩き出した。

 音のない午後三時を背負って、少しだけ軽くなった足取りで。


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海辺のラフマニノフ チドリ正明 @cheweapon

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