第19話 務

私はある日、出先で体調不良を起こし、周囲の人間の目を一身に受けながら救急車へと収容された。

「昨日はいつ寝ましたか」

「昨日?そもそも、寝ていませんでした」

「そうですか」

救急車の中で、隊員に問われた質問に答えつつ、サイレンの音を聞く。

「思い当たる原因などはありますか」

「ありません。急に駅のホームで嘔吐して倒れたことは記憶していますが」

「大変でしたね」

「まぁ、あなた方には及ばないと思いますがね」

そうして、眩しい車内の天井を狂ったように見つめて、何時間か経過したような気がした。実際は数十分だったようだが。

「もうすぐ病院に着きますよ」

……寝たい。


「こんにちは」

看護師が話しかけてきた。申し訳ないが、寝かせてくれまいか。

「すみません、今ものすごく、その、眠いんです」

「あぁ、そうですか。処置などあるので、その間寝ていただいて結構ですよ」

そうして、担架からベットへ移され、毛布をかけられて、点滴やら採血をされた。

気づいたら、寝ていた。


——看護師に起こされて、寝ぼけ眼の私に、医者はこう告げた。

「あなたの病状は結構深刻です。入院して、少し療養なさってください」

衝撃的だった、まさか自分が栄養失調だとは。

笑えるな、思い返せば全然飯を食ってもいなかったし、水も飲んでいなかった。

一人暮らしゆえ、それを咎める存在もいなかった。

そうして説明を受けた後、入院棟に案内され、手首にタグを巻かれた。

そのあとは、何かをする暇もなく、又寝た。


入院から数十日経過した。耳鳴りはひどく、隈はどう足掻いても青い儘だったが、いささか健康的にはなった。なにより特筆すべきこととして、和服の感触が恋しかった。点滴は相変わらず痛んだ。


それから数日くらい経過し、退院が決定した。だが、通院は義務付けられることとなった。何故だ。私の状態はそんなに悪かったのか。搬送された当時着用していた和服に袖を通し、一刻も早く帰りたかったが、どうも少し時間がかかりそうだ。


……ついに退院の日を迎えた。

諸費用の精算を済ませ、受付の人間に会釈をし、ガラス張りの天井から青空を見上げた。そのあとは、併設の売店で飯を食い、病院の出口へと向かい、家へ帰るためにタクシーを呼んだ。清々しい気分だった。


家の前につき、鍵を取り出してドアを開け、外套を脱ぎ捨ててベットへと横たわる。

そうしてしばらくして、さまざまな考えが浮かんだ。

務めるとはなんと罪深い言葉だろう。それだけで美談にも悪談にもなる。

それでいて、当たり前のことには「務める」なんて言葉は使われないのだ。

可笑しいとは思わないだろうか。当たり前が人類全員にとっての当たり前でないことは当然のことだ。当たり前のことを死ぬ気で実行してもなんの言葉すら得られない人もいるのに、なぜ「務める」という言葉で、そのようなことを讃えようとしないのだろう?

——病院から退院し、家に帰り、考えていることがこれか。

余計な考えを目を閉じて振り払い、勇気を出して喫茶店へと向かうこととした。

そうして、電車が走る風景を眺め、歩き、喫茶店のドアをゆっくりと開ける。

「先日はご迷惑をおかけしました」

少しの沈黙。

「……元気になれたかい?まぁ、何はともあれ、テーブルかカウンターにでも座ってくれないかい」

そう言われるが儘、カウンターに腰を下ろせば。

「大丈夫だったかい?」と声が飛んでくる。

「えぇ、まぁ。医者曰く大丈夫だったらしいですよ」

「ふむ。回復できたのなら、いいことじゃないか。何故君はそんなに、厭世的な顔をしているんだい」

「嫌だからですよ。単純にね。家で寝っ転がっていたかったのに、あなたが電話をかけてきたせいで否応無く引き摺り出される羽目になった」

芋虫を噛み潰したような顔をした自分が、ステンレスのよく磨かれたコップに反射した。

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