第一話 過保護な許嫁とリボンとお菓子⑤

「それじゃあ、またね」

「またあした」

「ごきげんよう」


 挨拶ばかりは礼儀正しく、しかし胡乱な目つきで校門のほうを見ている同級生たちを振り切り、朔夜は小走りに百瀬のもとへ駆け寄った。校門から少し離れたところにぼんやり突っ立って、中空を眺めていた百瀬は、朔夜をみとめたとたん、心を取り戻したかのようにふわりと笑う。


「おかえり、朔夜」

「ただいま。ねえ百瀬、いつもながら大学は大丈夫なの」

「平気だよ」


 百瀬がどのように大学生活を過ごしているのか、朔夜にはわからない。彼には昔から人が寄りつかず、友人が少ない。けれど、朔夜がそれを心配しても、当の本人は平然としているのだ。


「毎日毎日、来てくれなくても平気なのに」

「だめ。朔夜は野放しにすると、心配が尽きない」

「あのね、小さい子どもじゃないのよ、もう」


 百瀬は視線だけで、安心できないと言って寄越した。

 女学校では、生徒たちの自立をうながし、自主性を重んじる。校風にしたがい、生徒たちは車での通学を控え、徒歩と電車を使い、自力で登下校するよう指導されている。

 いもうとたちでさえひとりで帰っていくのに、と、校内では優等生をやっているだけに、内心ではかなり気恥ずかしい朔夜であった。

 しかも百瀬のほうは、目立っておきながら周囲の視線を気にも留めない。それどころか、気づいてさえいないようにぼんやりしているから、なおさら朔夜がふたりぶん恥ずかしい気がしてしまう。


「鞄、持つよ」


 百瀬は朔夜の手からひょいと鞄を取り上げ、おや、という顔をした。


「軽いね? 教科書は?」

「そんなものは学校に置いているに決まっているでしょう」

「……朝は、何を入れていたの」


 朔夜は思い切り顔を逸らして、答える気はないと示した。


「まったく……。女学校で中身を取り出したなら、おかしなものじゃないよね」

「詮索しないの。女の子にはいろいろあるって、言ったでしょう」

「……男の『いろいろある』よりまともなのだろうけれど……」


 百瀬がぼそりとつぶやく。朔夜は、学校で交わしたシェイクスピアの会話のくだりを思い出し、またもや顔が熱くなるのを感じた。

 それを見咎めた百瀬が目をみはる。


「え、朔夜……?」

「違うのよ、これは……」


 朔夜は真実を話すのとシェイクスピアの話を持ち出すのと、どちらがマシかを天秤にかけ、観念することにした。


「ただの小説本よ。このあいだ美代ちゃんがうちに遊びに来たときにいっぱい貸してくれたの。それとお礼のお菓子。それだけ」

「ああ、恋愛小説」

「どうして知っているのよ!」

「朔夜だって、部屋の本棚に普通に並べているじゃないか……」


 理不尽だと言いたげに、百瀬が肩を落とす。百瀬が朔夜の部屋に出入りするのは、もはや今さらである。朔夜の両親は、百瀬との仲については完全に放任主義で、口を出してこない。


「ところで、お菓子を焼いたの?」

「そうよ。ちゃんと百瀬のぶんもあるわよ」


 にこ、と、百瀬がうれしそうに破顔する。人並外れて美しいかんばせが、お菓子で無邪気に笑うところは、朔夜の胸を甘くくすぐってやまない。


 朔夜の特技は、料理とお菓子作りとお裁縫、特に刺繍。どれも百瀬のために上達したものだ。

 料理やお菓子は百瀬においしいものを食べてほしいからで、刺繍はハンカチや手ぬぐいやシャツの裾、彼の身の回りのいろんなものに縫い取って、お守りとして渡している。


 すべては、百瀬がいつも幸せであるように。


「今回は何を作ったの?」

「青じそのクッキー。甘塩っぱくて、我ながらおいしかったわ」

「楽しみだな。朔夜の作ってくれるものは、なんでもおいしい」

「うそ。だってあなた、私が種から作ったえんどう豆は食べないじゃない」

「『作る』の意味がちがう」


 笑みから一転、渋い顔の百瀬が言う。

 いい歳をして、百瀬にはいくつか苦手な食べ物があった。彼は、それらを決して口にしない。ふだん、のほほんとしている百瀬の、絶対にゆずらない頑固さが、そんなところには現れる。


「八百屋で投げ売りされてた、にんじんのケーキは食べるくせに」

「投げ売りされていたのはにんじんで、ケーキを作ったのは朔夜だからね」


 要するに、味の好き嫌いなのである。彼の好きな味になるよう手をかけてやれば、素材が苦手なものでも、百瀬は喜んでくれた。決して言わないけれど、朔夜は、百瀬のそういう無邪気なところを可愛く思ってしまっている。

 なにより、そのほうが人間らしい。


「アスパラガスはクッキーにできるそうよ」

「えー。まあ、朔夜が作るなら、きっとおいしくなるのだろうけれど」

「茹でてシチューに入れたっておいしいわよ」


 百瀬は黙って、うなずかなかった。


「ねえ、きょう、お夕飯食べていくでしょう」

「今さらだけど、毎晩、いいのかなあ」

「お母さまはお料理が好きですもの。たくさん食べる百瀬 がいてくれたら、よろこぶだけよ」


 百瀬が鞄を持ってくれるおかげで空っぽの手を、彼の袖にひっかける。百瀬がちらりとそこを見下ろし、そっと、朔夜の指先を握り返してきた。


『僕たちは、ずっと一緒にいるんだよ、朔夜』


 幼い百瀬の、今よりも高く澄んで、けれど今と同じ歌うような声音が、耳の奥によみがえる。

 その『約束』を忘れたことはない――忘れてはいけない。


「お夕飯のあと、また宿題を見てくれる?」

「いいけど、自分でできるでしょう、朔夜は」

「ついでに女学校でのあなたの噂話を聞かせてあげる」

「……それってうれしいのかなあ」


 他愛ない会話、のどかな夕べの帰り道。女の子たちに大人気の恋愛小説みたいにハラハラどきどきしないけれど、華やかな恋もように憧れているわけじゃない。


(私たちは、普通の幸せがほしいの)


 百瀬の手を引き寄せて、彼をうかがう。百瀬は何を言うでもなく、朔夜を見下ろして優しく頬をゆるめた。

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