第5話 疑念
書類に目を通していると、控えめなノックの音が響いた。
「何だ」
入ってきたのは若い女官だった。目を伏せ、緊張した様子で一礼する。
「お話がございます。個人的なことで、少しだけ……」
セドリックはため息をつき、手にしていた羽ペンを置いた。暇ではない。だが妙に真剣な表情が気にかかり、うなずいて続きを促す。
「ご夫人のことです。実は……最近、何人もの男性宛に手紙を出されていると」
「は?」
「確証はありません。ただ、見かけた者が何人か……。それと……」
言い淀む女官を睨みつけた。
「それと、何だ」
「使用人に手を上げられたとか。恐ろしくて誰も言い出せずに……私もどうすれば良いのか……」
セドリックはしばらく無言のまま机の上を見つめた。女官が差し出した封筒が、重くそこに横たわっている。差出人の名は書かれていない。だが、あの文字は見覚えがあった。
「可愛いエリスに嫉妬か。くだらん」
怒鳴りもせず、ただそれだけを呟いた。女官はそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
封筒の中身を読みながら、ふと以前の夜会の光景がよぎる。エリスが控えめな視線を送っていた、あの若い男の顔。まさか。そんなはずはない。俺が選んだのだ。俺が、リリアナより上の女を。
その夜、セドリックはいつもより深くワインをあおった。
翌週、財務報告書を広げたまま、セドリックは眉をひそめていた。
また赤字だった。投資先が思うように伸びず、支出は膨らむ一方。リリアナがいた頃にはあり得なかった数字が、いまでは日常のように並んでいる。
「なぜだ……」
舌打ちしたそのとき、扉を叩く音がした。
「報告です。ヴェルナー商会より、契約の打ち切り通知が……」
使用人の声が耳に入らなかった。ヴェルナー商会。あれほど公爵家に尽くしてきた商会が、なぜ今になって――。
数日後、書簡を通じてヴェルナー商会の動きを探る中で、セドリックは奇妙な話を耳にした。
「仮面のサロン……?」
答えたのは、社交界でも耳の早い青年だった。
「誰が主催しているのかは不明ですが、まるで別世界のような空間だと。洗練されすぎていて、不気味なほどです。主催者は仮面の令嬢と呼ばれています」
その名に、妙な胸騒ぎが走った。すぐに顔が浮かぶわけではない。それでも、何かに脅かされている感覚が消えない。
自分は間違っていない。リリアナは過去だ。終わった女だ。なのに、なぜ心がざわつく。
「まさか、あいつが……いや、ない。そんなことは」
言葉に出した瞬間、どこかで崩れる音がしたような気がした。
公爵家の屋敷は、少しずつ静けさを失っていた。
「ちょっと、そこ。聞こえてるの? まったく、役立たずね」
エリスの怒声が階下から響く。使用人の数は目に見えて減っていた。文句を言いながら辞めていく者もいれば、黙って姿を消す者もいた。
セドリックは声をかけられず、夜になると酒をあおった。
書斎の隅で、ふと昔の記憶が浮かぶ。リリアナと並んで帳簿を見ていたときのこと。理屈っぽく、無駄を嫌い、冷たい女だった。だが、あの指摘は常に的確で、どんな局面でも公爵家の「誇り」を貫いていた。
誇り。そうだ。俺は、それを嫌って捨てたはずだった。
なのに、今になって思い出すのは、あの氷の瞳と背筋の伸びた姿。
グラスの中でワインが揺れた。
「選んだのは俺だった……俺のはずだった」
誰にも聞かれぬように、呟いた。
だが、空虚な響きだけが室内に残った。
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