第2話 沈黙の令嬢

 午前十時。薄曇りの空の下、侯爵家の正門が重々しく開かれた。


 扉の外には、一台の質素な馬車が停まっている。飾り気のない黒い車体。王都の貴族なら誰もが見下すような、旅籠に使われるような粗末な造りだった。


「…これで最後の荷物です」


 老僕のひとりが、トランクを一つだけ積み上げる。色褪せた革製のそれは、リリアナが唯一持ち出した私物だった。


 深紅の髪が風にそよぎ、氷のように透きとおる瞳が一瞬だけ屋敷を振り返った。


 誰も、見送らない。


 かつては名門侯爵家の誇りと称えられたその背に、今は誰も声をかけようとしなかった。挨拶も、謝罪も、感傷すらない。


「お嬢様……」


 ただひとり、古くから仕えていた侍女が声をかけかけて、言葉を飲み込んだ。


 リリアナはわずかに笑みを浮かべる。


「心配はいらないわ。私は、終わってなどいないから」


 その声に涙を落としたのは、彼女ではなく、侍女のほうだった。


 馬車が動き出す。かつて彼女の名を賛美していた門が、無言でその背を閉ざした。


 木々のざわめきと、馬の蹄が遠ざかる音だけが、薄ら寒い春の空気に溶けていった。


 


 馬車の窓から風が吹き込む。リリアナはフードを少し引き上げて、首元を覆った。


 あの日、夜会のど真ん中で夫に突きつけられた離婚の言葉。

 氷のように冷たい視線と、哀れみの笑み。そして、実家からも「お前はもう、侯爵家の名にふさわしくない」と告げられた。


 持参金も爵位も捨てて、形式上勘当された女。噂好きの貴族たちは、今ごろ酒の肴にでもしているだろう。


 それでも、涙ひとつ流さなかった。 


 誇りだけは、手放さなかったから。


 彼女の誇りは、社交界での地位でも、美貌でも、名声でもない。


 人としての矜持だった。


 風に吹かれながら、リリアナは深呼吸した。


 小さな領地、冷たい空気、知らぬ土地。だが、すべてを失ったわけではない。


「私は、終わってなどいないわ」


 誰に言うでもなく、ひとり、静かにそう呟いた。





「こんなところに住んでいたとは。まったく、あなたらしい選択ですね」


 皮肉ではない。ユリアンの声には、ほんの少しの敬意がにじんでいた。


 リリアナは冷えた紅茶に視線を落とす。

 数年前、貴族の夜会で一言二言交わしただけの男。だが、彼の観察力と口の利き方だけは妙に記憶に残っていた。


 ヴェルナー商会の若き当主。貴族ではないが、社交界にも出入りすることを許された数少ない商人のひとり。

 理知的で控えめな物腰と、鋭利な洞察をあわせ持つ男。話す言葉には無駄がなく、何より、誰かを値踏みするような視線を決して向けない。


 ユリアン・ヴェルナー。

 ダークネイビーの髪はさらりと流れ、光の角度で艶やかに揺れる。タレ目気味の深緑の瞳は、どこか柔らかく、人の心を見透かすような深さを持っていた。

 貴族たちの夜会でも、彼が現れれば誰もが振り返った。仕立ての良い衣服に包まれた長身の体。笑えば人を惹きつけ、黙っていても視線を集める。まさに美丈夫の代名詞。

 そのうえ恋の噂が絶えないとくれば、興味を向けぬ貴婦人の方が少なかった。


 彼のような男が、なぜ今、わざわざこの山奥まで?


「あなたこそ、どうしてここに?」


「偶然、というには少し不自然でしょうか。……あなたの消息を追っていた人間は、案外少なくないのですよ」


 彼は笑ってごまかすが、真意はその奥にあるようだった。冗談にしては、視線がまっすぐすぎた。


「私に何の用?」


「ただ話がしたかった。いや……できれば、協力をお願いしたいことがある」


「協力?」


「少し、時間をもらえますか」


 こうして始まった、何日かの滞在。ユリアンは庭の整備を手伝い、壊れかけた扉の修理にも付き合った。夜になると、暖炉の前で静かに本を読み、時折、リリアナに話しかける。


「この館、思っていたよりも手をかければ住みやすくなりそうです」


「あなたが住むつもりなら、どうぞご自由に」


「冗談です。でも……悪くない隠れ家ですよ」


 食事の席では、決して踏み込みすぎず、それでも興味を隠さなかった。

 あくまで対等であろうとするその姿勢が、リリアナの警戒心をほんの少しずつ溶かしていった。


 そして数日後。薄曇りの朝、ユリアンは庭に椅子を出し、紅茶を淹れて待っていた。


「今朝は、少し肌寒いですね」


 リリアナは毛織のショールを羽織ったまま椅子に腰を下ろす。差し出された湯気立つカップを受け取り、しばし沈黙のまま口をつけた。


「聞きます。何が目的ですか、ユリアン・ヴェルナー」


「単刀直入ですね」


「貴族にとって、時間は常に限られた資源ですから」


 ユリアンは笑った。だが、目は真剣だった。


「新しいサロンを開くつもりです。表向きは文化の交流の場として、裏では……少し違った役目を持たせようと考えています」


 紅茶の香りが、冷たい風の中に溶けていく。


「あなたが? それとも、誰かの依頼?」


「始まりは、私個人の興味でした。でも今は……少し、義務のようにも感じています」


「サロンを開くのに、私が必要と?」


「ええ。かつて社交界で名を馳せたあなたが、ただの『離婚された婦人』として終わるとは思っていない」


 リリアナは視線を伏せた。傷口に触れるような言葉なのに、不思議と痛みはなかった。


「あなたの知性、品位、そして冷静な判断力。どれも、ただの飾りではなかったはずです」


「……それは褒めすぎね」


「いいえ。見ていました。人は、あなたを恐れながらも従った。言葉一つで空気を変えられる、数少ない本物の貴婦人だった」


「過去形ね」


「今も、そう思っています」


 リリアナはふっと小さく息を吐いた。風が赤髪をさらっていく。


「その裏の役目とやら、聞かせてちょうだい」


 ユリアンはすぐには答えなかった。指先でカップの縁をなぞりながら、慎重に言葉を選ぶように口を開く。


「貴族たちの派閥は、今や腐りきっています。利益と虚飾の応酬。そこに情報が流れ、揺れれば……何が起こるか分からない」


「それを、利用するつもり?」


「いえ、見極めるつもりです。あなたとなら、できる気がする。誇り高く、冷静で、何より……復讐のためではなく、自分の足で立つ覚悟がある人と」


 リリアナは目を細めた。遠くで風が葉を鳴らす。


「私を使うのなら、手加減はしないこと」


「当然です。あなたの誇りを、誇りのまま終わらせる気はありません」


 その言葉に、久しく感じていなかった熱が胸の奥で静かに灯った。


 あの日、「終わってなどいない」と呟いた自分に、ようやく応える誰かが現れた気がした。





「壁は全部塗り直し、庭には温室も設けましょう。貴族たちの好奇心をくすぐるのに必要ですから」


「ご自由に。ただし、無駄な装飾は不要です」


 ユリアンと建築監督が交わす言葉を背に、リリアナは書斎の古びた棚を一つずつ開いていた。埃をかぶった革張りの帳簿、パーティの名簿、贈り物に添えられた手書きのカード。すべては、再び彼女の武器になる。


「お手紙を出す相手は、少人数に絞ります」


「少人数ですか?」


「多すぎても不審がられます。まずは、信頼を得られる相手から」


 筆を走らせながら、リリアナの瞳は冷たくも冴えわたる光を宿していく。過去の記憶が、まるで舞台裏からスポットライトの当たる場所へと歩を進めていくようだった。


「……ずいぶん、楽しそうですね」


「あなたの期待を裏切らないようにしているだけよ」


 その答えに、ユリアンはふっと目元を緩めた。深緑の瞳が、あたたかく彼女の背中を見守っている。


 夕暮れの光が差し込む部屋で、リリアナは鏡の前に立ち、長く伸ばしていた髪を高く結い直した。かつての自分に別れを告げるように。そして、これからの自分を映すように。

 戦う覚悟を、静かにその手に宿して。





「これはまた……ずいぶん華やかですね」


「文化交流ですから。見かけも、大切です」


 仮面をつけた招待客たちが、次々と館へ足を踏み入れていく。燭台の炎がゆらめき、ドレスの裾と笑い声が交錯する。

 仮面舞踏会という形式は、人々の好奇心を煽るには十分だった。そして、主催者の正体を隠すには、申し分ない。


 誰が誰か分からないその空間に、ひときわ静かな視線を集めながら、ひとりの女性が姿を現す。

 黒と深紅の仮面に、氷のように透きとおる瞳。歩くたびに、背筋の伸びた姿勢と、無駄のない動きが人々の記憶を揺さぶる。


 誰もが、胸の内でその名を囁いた。


 ――リリアナ・グレイヴ。


「……あの女が、戻ってきたのか?」


「ただの偶然よ。似ているだけ」


「でもあの仕草、あの視線……間違いない」


 仮面の下で、リリアナは微笑んだ。

 それは決して感情を見せない、計算された微笑み。仮面のように、冷たく、優雅で、美しい、仮面の微笑みだ。


 サロンの片隅、グラスを手にしたユリアンが、ゆるやかに彼女を見上げていた。


「やはり。あなたには、この舞台がいちばん似合う」


 同じ頃、遠く離れた邸宅の一室では、赤ワインのグラスが床に砕けていた。


「また、あのサロンの噂か……つまらん」


 セドリックが低く唸るように吐き捨てる。その横で、エリスがわずかに肩をすくめる。

 誰よりも自信に満ちていた男の瞳に、初めての焦りが滲んでいた。


 そして、館の階段の上から会場を見渡すリリアナ。


 煌びやかな仮面の波の中で、彼女の胸の奥にだけ、静かに、確かに、熱が宿っていた。


「静かに。そして、確実に。私は戻るわ」

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