都の姫の安岐入り
第6話 旅立ち
その後、出発が十日後と決まり、祥子は慌ただしく旅の準備をすることになった。
喬任からの貢ぎ物は、祥子が出発する前日まで毎日続いた。安岐行きに難色を示していた両親も、次第にその熱意に負ける形で祥子の結婚を喜ぶようになった。
祥子本人はと言うと、最初の怒りは時間の経過とともに和らいだ。貢ぎ物に安岐のことをあれこれしたためた喬任の手紙がついていたのも大きい。安岐に対する期待が膨らむ一方で、しかし、喬任の気持ちはどこにも書かれておらず、やっぱりそこは期待しない方がいいのだと祥子は思った。
出発の朝、夜も開けないうちから祥子は身支度を終え、応接の間で両親とともに喬任の迎えを待つ。子どもの恭子は、まだ就寝中だ。
祥子が着ているのは、
あの日、祥子の婚姻とは別に、恭子を宮内へ行儀見習いに出す話が是長から基人にあった。このようなこと自体が異例であるが、六ノ宮家の窮状を考えた時、そうも言っていられない。早めに宮内へ上がらせて将来につなげようとする是長の配慮である。
喬任が持ってきた調度品も小物も織物も、恭子のために使われる。宮内へ上がる際の準備を結果的に貢ぎ物でまかなった形だ。つまりは全て、是長と喬任の思惑どおりというわけである。
基人がそわそわと外を気にしながら心配そうに祥子に話しかける。
「祥子、安岐に着いたら手紙をよこすよう。困ったことがあったら喬任殿に相談しないさい。それでも駄目なら、いつでも帰ってくるといい。もらった貢ぎ物をどうするのだとか、恭子のこととか、そういう難しいことは考えなくていいから」
「そうよ」
二人には、本当のこと──この結婚が形だけであり、自分はお飾りの妻として安岐に行くこと──を明かしていない。心配をさせたくないので、あくまでも喬任が祥子に身分違いの恋をしたということで話を通している。
こうして喜んでくれてはいるものの、それでも親としての心配は尽きないらしい。娘が地方へ赴くとあってはなおさらだ。
祥子は笑って答えた。
「大丈夫、国守殿はとても優しい方だもの。それに、安岐の国をこの目で見ることができるのよ」
ちょうどその時、部屋の外がざわついて、家人に連れられて喬任が現れた。喬任も今日ばかりは
喬任はつぼ装束姿の祥子を認めると、嬉しそうに顔をほころばせた。
「姫、旅の装いもお美しいです」
歯の浮くような褒め言葉をさらりと言う。さすが女にもてる男は違うわねと、祥子は心の中で毒づきつつ、居住まいを正して頭を下げた。
「どうぞよろしくお願いします、喬任さま。今日から私のことは姫ではなく祥子とお呼びください」
「いや、姫を呼び捨てになど──。それに私に『さま』はいりません」
「そういうわけにはまいりません。今日から私の夫はあなたさまにございます。私を姫呼ばわりすること自体おかしいですし、そもそも、その畏まった口調も改めくださいませ」
宮家の姫君と言えど、夫婦となれば夫を立てるのが筋である。ここを怠ると、「気位の高い嫌味な妻」などと悪評が立ちかねない。
譲らない態度で祥子が喬任を見返すと、喬任が困った顔で考え込む。ややあって、喬任が「んんっ」と咳払いをしつつ口を開いた。
「その……、口調をあらためろというのは分かった。ただ、呼び方は……お互いに『殿』で呼び合うというのはどうだろう?」
「え? でも夫妻がそんな風に呼び合うなんて聞いたこと……」
「私は姫と、いや、俺は祥子殿と対等に話がしたいのだ。夫婦の型など気にすることはない」
「……」
予想もしていなかった提案。にわかに返事ができず、助言を求めて祥子は両親を見る。基人と晃子が、満足そうな笑みを浮かべた。
「いいんじゃないか。型にこだわらないというのは、宮家の姫であって地方へ赴く祥子らしい。久瀬殿、祥子を頼む」
「はい、必ず大切にいたします」
喬任が神妙な顔で基人に頭を下げる。
その様子を横目で見ながら晃子が祥子の袖を引っ張って耳打した。
「祥子、いい人に巡り会えたわね。財や地位なんてものは二の次よ。財が必要なら働いて稼げばいいし、地位が必要なら成り上がればいいだけだもの。大切なのは気持ちよ」
「……ありがとう」
さすが世捨て人を夫に選んだ女性だけあって言うことが違う。ただし、祥子と喬任の場合は、その気持ちに問題があるのだが。
それを笑って誤魔化して、祥子は気持ちをあらたにする。この数日間で喬任に対するわだかまりは吹っ切った。不安はまだ見ぬ安岐の国への期待に変えた。
妻として愛されなくても、喬任は自分のことを大切にしてくれるだろうし、対等な関係で隣に立つことはできる。
「父上、母上、長い間お世話になりました。安岐の国を見てきます」
さあ、新しい人生の一歩だ。
祥子は満面の笑みで二人に別れを告げた。
安岐へは馬と船で行く。まず
旅行をしたことのない祥子にとっては想像さえできない行程である。
「喬任殿、私は海を見たことがないけれど、以前読んだ書物では大地が全て水で覆われているとか、水が
「ははは、書物らしい知識だな。覆われているなんてものじゃない。見たら驚くぞ」
祥子は馬に一人で乗ることができないので喬任と二人乗りだ。後ろから喬任に抱きかかえられる形で街道を進む。
殿方とこんな風に体を密着させるのは初めてで落ち着かない。それで、なんとなく体を離していたら、喬任に「走りにくい」と言われ懐の中に抱き寄せられてしまった。
途中、休みを挟みながら進むこと一日、わりと大きな村を通り林を抜けると、見たことのない光景が祥子の目に飛び込んできた。
「……」
一面に広がる膨大な水の原。それが繰り返し大きなうねりとなって砂浜へ打ち寄せては引いていく。
言葉をなくす祥子の頭上で喬任がおかしそうに笑った。
「どうだ、海はでかいだろう?」
「ええ、書物で読むのと実際に見るのとでは大違い……」
例えば、実際に行ったことがなくても、書物を読めばその土地のことを知ることができる。祥子はそう思っていた。都の外れの小さな屋敷の中で、全ての知識が手に入り、なんの不都合もないのだと。
大変な思い上がり。それは、知らない者の理屈だ。
「喬任殿、」
「なんだ?」
「私、喬任殿に出会わなければ、何も知らずに海のことを語っていたと思います」
世の中はこんなに大きく広い。
さりげなくお腹に回された喬任の腕。馬から落ちないよう祥子の体をしっかり支えてくれている。
そこに両手を重ねぎゅっと握る。ざざんっと打ち寄せる波の音に重なるように祥子の胸も波打った。
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