もと女神は冒険者はじめます!

さわやかシムラ

◇◇ 第一章 ◇◇

第1話 神は水に還り、少女となった

 灼熱の大地――本来は土と石の洞窟であるはずの空間は、いまや赤熱した岩盤と火柱に支配されていた。熱と瘴気がうねり、視界すらも揺らぐほどだった。


 その中心で、イグネア・フレアローズは歯を食いしばる。


「っ、後方っ、火口に近づきすぎないで! 熱で崩れますわ!」


 レイピアでサラマンダーの突撃をさばきつつ、仲間への指示を飛ばした。

 焦げた前髪が額に張り付き、噴き出す汗が頬を伝い、地面へと流れ落ちた。

 彼女の装束はすでに煤け、熱風で裾が焼け焦げていた。


 相手はサラマンダーの大群。その背後に控えるのは、炎の主――イフリート。


 唸るような炎熱の波が壁を這い、爆ぜた床石が飛び散った。


 空中を舞う小さな白竜のノクが、身体を震わせて、微かに吠えた。

 その身体から展開される光の膜が、仲間たちを熱気と火炎からかろうじて守っている。

「もう限界だよぉ! 熱気を防ぐだけで精一杯なんだから、誰か前見ててよ!」


 仲間たちは疲弊していた。魔物の物量、環境の苛烈さ、そしてイフリートの存在。

 それでもイグネアたちは退かなかった。


「……ティエナ。どこに行ったんですの……」


 イグネアが小さく呟いた、そのときだった。


 対岸。

 灼けた溶岩地帯を挟んで向かい側に、ひとりの少女が地面に転がり込むように現れた。


「いたた……なにここ……!? 熱っつ!?」


 青いマント、淡い水色の髪。

 その姿を見つけた瞬間、誰かが叫んだ。


「ティエナ!? ティエナだ!!」


 ティエナは体勢を立て直し、目前の光景に目を見張った。

 燃え盛る魔物の群れ。その向こうに、仲間たちが押されている。


「……あれ全部、敵? へぇ。随分とわたしとの相性がよさそうな魔物たちね」


 ティエナは、唇の端をわずかに上げて笑った。緊迫した戦場の空気をものともせず、どこか楽しげな、余裕のある顔だった。


 ティエナはそっと一歩前へ出て、手を掲げ、息を吸い込んだ。


「水よ──」

「理を鎮め、流れを束ね、命を守るとなれ──」

「いまこそはしりて、すべてを清めよ」


 彼女の周囲に、水の紋がいくつも展開されてゆく。

 空気がひんやりと震える。

 とうてい常人には召喚できない圧倒的な水量が、ティエナの頭上に渦巻いてゆく。


 その光景を見て頬を引きつらせたイグネアが、力の限り叫んだ。

「ちょ、ちょっとお待ちなさい、ティエナ! その位置からでしたら、わたくしたちも巻き込まれますわ!!」


 荒ぶる水の気配にノクも反応する。

「やばい、こっちに来る! みんな、ちょっとだけ熱いの我慢して! 防壁魔法に切り替えるよ!!」


 そんな叫びの直後だった。

 ティエナの目が、静かに細められる。

 その唇が、小さく動いた。


「《天涙奔流》!」


 詠唱とともに、天井から解き放たれたのは神性を帯びた奔流ほんりゅうだ。

 轟音と共に、世界のすべてを白く塗りつぶすような大瀑布だいばくふが落ちてくる。

 空間が震え、水が咆哮する。


 ノクの結界がぎりぎりで展開され、仲間たちを包み込む。

「た、耐えて……お願いだから耐えてぇっ……!」

 彼の小さな身体がぶるぶると震える。


 光の膜が水流に押し潰されそうになりながらも、ノクは必死に魔力を注ぎ続ける。

 火の壁を一掃しながら押し寄せる激流の中、防壁の内側だけが奇跡のように守られていた。


 炎はかき消され、サラマンダーの群れは洗い流されていく。

 イフリートすら、蒸気の渦に呑まれていく。


 その直後――


 静けさが訪れた。

 誰かが息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。


 ノクの防護魔法がすっと揺らぎ、淡く光を残して消えた。

 ノクが息をついた瞬間――


 ドォン、と地響き。


 壁に打ちつけられた水流が反転――そして頭上で、水塊が形を崩す。


 そして――だぱあああああん!!


 行き場を失った水流が、頭上から容赦なく降り注いだ。


「わっぷ!?」「ぅあっつ!?」「うおおおおお!?」


 パーティ全員が見事にびしょ濡れになった。


 しばらくの間、誰も動かなかった。


「……まったく、加減というものを知りなさいまし……」


 イグネアが前髪を垂らしたまま、絞るような声を出した。


 ノクは尻尾をぶるぶると振って、水を飛ばした。

「……これ、ぼくのせいじゃないよね……?」


 そして、対岸の岩場。

 ティエナはそっと手を下ろし、水の消えた空間を眺めていた。


「……やっぱり、水ってすごいなぁ」


 その声音には、どこか懐かしさを含んだ響きがあった。


 ――これは、かつて『神』だった少女が人として歩み始めた冒険の、ほんの一雫。

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