第3話 見抜かれぬ嘘
その夜、バーの扉が開いたのは、閉店間際の静けさが支配する頃だった。
細身のスーツ姿に、乱れたネクタイ。
目の下にはくっきりとした隈。
シオンが座るいつもの奥の席に、ひとりの男が迷い込んできた。
「ここ、空いてますか……?」
「どうぞ」
シオンは静かにグラスを傾け、隣の椅子を指さした。
名はユウキ。
IT企業でマーケティングを担当しているというが、明らかに心はそこになかった。
「仕事で“魅せる”ことが求められてるんです。演出、ストーリー、印象操作……でも最近、自分が何者なのか、よくわからなくなる」
ユウキはグラスを握ったまま、うつむいた。
「ウソをついてるみたいで、苦しくて」
シオンはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「君は……“マジック”を信じるか?」
「え……?」
「奇跡の話じゃない。人を魅せ、騙し、心を動かすという意味での、“演じる技術”としてのマジックだ」
ユウキは戸惑いながらも、頷いた。
「では、少しだけ、話をしようか。
マジックの世界には“サーストンの三原則”というものがある」
シオンは指を一本立てた。
「一、マジシャンは事前に観客に仕掛けを見せてはならない」
「当然ですよね。仕掛けが見えたら、種も仕掛けもない」
「そう。だが裏を返せば、常に嘘をついていなければならないということでもある」
ユウキの目がわずかに揺れた。
シオンは、二本目の指を立てた。
「二、同じマジックを二度繰り返してはならない」
「……ああ、それも聞いたことがある。“一度目の驚き”が壊れるから」
「人は驚くと、“理解しよう”と構える。二度目を見せるということは、種を見破られる覚悟を持つということ。
つまり、マジシャンはずっと前に進み続けるしかない。過去に戻ることは許されない」
シオンは、グラスの氷をゆっくりとかき混ぜた。
そして三本目の指。
「三、マジックの秘密を、決して他人に教えてはならない」
「それは……守らないと、“魔法”じゃなくなってしまう」
「その通り。そしてこれこそが、マジシャンにとって最も苦しい掟だ」
ユウキは眉を寄せた。
「……苦しい?」
シオンは、かすかに微笑んだ。
「誰かが絶望していても、助けることはできない。
“本当はこうなんだ”と教えれば、慰めになったかもしれない。でもそれをやったら、“魔法”は終わる。
だから、マジシャンは誰かの痛みに寄り添っても、真実を言えない」
沈黙が流れた。
「……君は今、“自分がウソをついている”と思っている。
だが、それは“相手の心を動かすための演出”なんじゃないか?」
ユウキの目が、少しだけ開いた。
「君がやっていることは、“種明かしをしない”こと。
見えないところで努力しているのに、それを表に出さない。
それは、マジックと同じだ。
“嘘をついてるんじゃない。物語を届けてるだけだ”」
ユウキは、手の中のグラスを見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……それでも苦しいですね。わかっていても、苦しい」
シオンは、グラスを掲げて静かに言った。
「だから、マジシャンは孤独なんだよ。
けれど――孤独でも、見てくれる人がいる限り、魔法は終わらない」
ユウキはそっとグラスを持ち上げた。
「……乾杯、ですか?」
「いや。これは“共犯”の合図だよ」
軽くグラスが鳴った。
その音は、確かに“嘘”ではなかった。
🔍 補足
サーストンの三原則(Three Rules of Magic by Howard Thurston)
マジックの前に仕掛けを見せてはならない
同じマジックを繰り返してはならない
マジックの秘密を明かしてはならない
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