第2話 数字の亡霊

夜の駅前、古びたバーの奥の席で、シオンは一人の来客を迎えていた。


淡い明かりの下で向かい合ったのは、経理課に勤める若い女性・ミユキ。

彼女の表情には、疲労と焦りがにじんでいた。


「数字が……狂うんです」


ミユキは、ウイスキーグラスを避けて、コーヒーカップを両手で包みながらポツリと漏らした。


「伝票と現金が、どうしても合わない。計算も何度も見直した。でも、何かが抜けてるような感覚がして……」


シオンは静かに頷いた。


「数字は正直だ。だが、それを扱う人間の手が、ほんの少しでも狂えば、全てがズレる。……少し、遊んでみようか」


そう言って、シオンは懐から小さなメモ帳とペンを取り出した。


「ちょっとした“数字の儀式”だ。まず、3以上の好きな整数を思い浮かべてみて」


「……はい」


ミユキは考えこみ、静かに頷いた。


「その数字の右に“0”をつけて、新しい数字を作ってみて。たとえば、4なら40。つまり10倍だ」


「なるほど……」


「その数から、最初に思い浮かべた数を引いてごらん」


ミユキは計算し、うなずく。


「……できました」


「よし。その数を“9で割って”みて」


「え……?」


「9で割るんだ。驚くよ」


ミユキは半信半疑でスマホの電卓を開き、計算を始めた。そして、結果を見た瞬間――


「……うそ……!」


彼女は目を見開いてシオンを見つめた。


「出てきた数……私が最初に思い浮かべた数字と、まったく同じ……!」


シオンは静かに頷いた。


「そう。どんな数字を選んでも、10倍してから元の数を引けば、それは常に“その数の9倍”になる。

つまり、最後に9で割れば、必ず“最初に思い浮かべた数”が返ってくる」


「……すごい。でもこれって……ただの計算ですよね? それだけで、こんなに驚くなんて……」


「人の心は、答えが“戻ってくる”ことに不意を突かれるんだよ」


シオンは、コーヒーをひと口すすると、静かに話を続けた。


「実はね、昔、銀行でこういう計算が実際に使われていた。“差額を9で割れ”っていう方法さ」


「え……?」


「たとえば、伝票の合計が180,000円。でも現金は18,000円しかなかったとする。

その差額は162,000円だね。これを“9で割る”と――?」


ミユキは電卓を取り出して計算した。


「……18,000」


「そう。つまり、どこかで“18,000”という数字が、10倍になるべきところで1桁抜け落ちていた。

“0を1つつけ忘れた”という単純な入力ミス。だけど、差額を9で割れば、そのミスが見事に炙り出される」


シオンは、空中に円を描くように指を動かした。


「この式はこうだ。

(伝票の合計 − 現金の合計) ÷ 9 = 入力ミスで抜けた元の金額

つまり、消えた数字の“痕跡”は、9を通して表に出てくる」


ミユキは、言葉を失っていた。


「……それって……数字が、間違いを“覚えている”みたい……」


「その通り。たとえ人間がどんなにごまかしても、数字は絶対に忘れない。

――まるで、“数字の亡霊”みたいにね」


そう言って、シオンは立ち上がった。


「また困ったら来なさい。君の後ろで、数字が泣いていないか、見てあげるよ」


その言葉を残し、彼は夜の闇に消えていった。


ミユキは、冷めたコーヒーのカップに手を伸ばしながら、スマホの画面を見つめていた。


そこにはさっき彼女が打ち込んだ“9で割った答え”――

最初に思い浮かべた数字が、静かに残っていた。


けれど今の彼女には、それがただの数字には思えなかった。


まるで、何かを見ている“数字の亡霊”がそこにいたかのように。

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