Section9-1:父との対決

 朝もやがようやく晴れ上がった廃屋の窓辺で、イリスは静かに立ちつくしていた。彼女の白銀の髪が朝日に照らされて、一瞬だけ金色に輝く。


「ヴァルト…」


 唇から零れる名前は、もはや彼女の嘆きでも祈りでもなく、決意のささやきだった。ヴァルトが連れ去られてから三日。イリスたちは辺境の村はずれにある廃屋に身を潜めていた。


「お嬢様、紅茶をお持ちしました」


 ユナが小さなカップを手に入ってきた。茶葉とは言えない雑草を煎じたような味だったが、今のイリスには何よりの慰めだった。


「ありがとう、ユナ」


 イリスが振り向くと、ユナは一瞬たじろいだ。それもそのはず。かつての「人形姫」と呼ばれた冷たい面持ちは消え、今の彼女の紫の瞳には烈火のような決意が宿っていた。


「計画の準備はできましたか?」


 ユナの問いに、イリスは小さくうなずいた。シルヴィアとセドリックが昨晩、凄まじい議論の末に練り上げた計画——ヴァルト奪還と、そして父との最後の対決のための計画だ。


「お嬢様、もしかして怖くないんですか?」


 ユナの素直な問いに、イリスは微かに微笑んだ。


「怖いわよ。でも、それ以上に——」


 彼女は窓の外を見つめた。


「あの人がいない世界なんて、もう考えられないの」


 その時、扉が開き、セドリックとシルヴィアが入ってきた。二人の表情は真剣そのものだ。


「情報通りだった」セドリックが告げる。「今夜、ノクターン侯爵はラヴェンデル男爵の屋敷で異能者引き渡しの儀式を行う。そこにヴァルトも連れてこられる」


「父上は、私が自ら出頭すると踏んでいるのね」


 イリスの声は冷静だった。確かに、彼女はそうするつもりだった——ただし、彼らの計画通りに。


「準備はいいですか、お嬢様」シルヴィアが懸念を含んだ目で見つめてくる。


 イリスは凛然と顎を上げた。


「ええ、もう迷いはないわ。今夜、全てを終わらせる」


 ◆◆◆


 薄闇に包まれたラヴェンデル男爵邸の裏手。イリスは黒い外套に身を包み、静かに壁に沿って動いた。もともと父の政治的同盟者だったラヴェンデル男爵は、王宮への取り入り役でもあった。


「お嬢様、あちらに見えるのが東の塔です」シルヴィアが小声で告げた。「情報によれば、ヴァルトさんはそこに」


「私は父上のところへ向かうわ」


「危険です!」シルヴィアが懸命に止めようとする。


 イリスは彼女の手を優しく握った。


「シルヴィア、あなたは私の母の願いを叶えてくれた。でも、これは私が自分の手で終わらせなければならないの」


 シルヴィアの目に涙が浮かんだ。


「お母様は…あなたがいつか自分の心で動けるようになる日を、ずっと信じていました」


「知っているわ」イリスは静かに答えた。「だから今、母の願い通りに動くのよ」


 二人はそこで別れた。シルヴィアとユナは東の塔へ向かい、セドリックは別動隊として裏門を確保する。そしてイリスは——本館の中央広間へ。


 夜の闇に紛れて建物に忍び込むのは、かつての箱入り令嬢には考えられない行動だった。けれど今のイリスには、不思議と体が勝手に動いているかのよう。まるで長い間眠っていた本能が、今になって目覚めたかのように。


「ここね…」


 顕れた大広間の扉の前で、イリスは深く息を吸い込んだ。扉の向こうからは、父の声が聞こえる。


「……そして、我が家の異能は王宮の繁栄のために捧げられるべきものだ」


 イリスの手が微かに震えた。けれど、もう逡巡する時間はない。彼女は扉を思い切り押し開いた。


 大広間に響く甲高い音に、全員の視線が一斉に彼女に向けられた。中央に立つのは彼女の父、エドガー=ノクターン侯爵。そして彼の隣には黒衣の男たち、恐らく王宮の魔法技術院の者たちだろう。


「父上」


 イリスの声は、かつてないほど凛としていた。


 父の顔が一瞬にして青ざめ、次の瞬間憤怒に染まった。


「イリス!何をしている!」


「父上こそ」イリスは一歩も引かずに言い返した。「何をなさっているのです?」


 広間に不穏な静けさが満ちる。イリスはゆっくりと歩を進めた。白銀の髪が月明かりを受けて幽かに光る。


「それが噂の令嬢か」黒衣の一人が嘲るように言った。「思ったより美しいな」


「黙れ」エドガーが怒号にも似た声を上げた。「イリス、すぐに引き下がれ!これは大人の話だ」


「大人の話?」


 イリスの唇が皮肉めいた笑みを湛えた。


「自分の娘を実験台として売り渡そうとしているのが、大人の話ですか?」


 言葉の刃は確実に父の尊厳を傷つけたようだった。エドガーの表情が一層険しくなる。


「お前には分からん。これは家の名誉のため、王国のためだ」


「名誉?」


 イリスは嗤った。それは彼女自身でさえ驚くほど冷徹な笑いだった。


「父上は『名誉』という言葉の意味を、本当に理解しているのですか?」


「生意気な!」


 エドガーが拳を握りしめる。イリスは彼の怒りに怯むことなく、さらに歩を進めた。


「あなたは私を人形として育てました。感情を持つことを禁じ、自分の意志を持つことを許さなかった」


 イリスの声は次第に強さを増していく。


「でも、もうその檻は壊れたのです」


「何を…」


「父上、私はもう人形ではありません」


 イリスは広間の中央まで来ると、凛然と佇んだ。


「私は自分の力で生きると決めました。誰にも支配されず、誰のためでもなく、自分自身のために」


 エドガーの顔が歪んだ。


「馬鹿な娘め!お前に何が分かる!」


「私に分からないのは」イリスは静かに、しかし毅然と返した。「なぜ父上が、母上の願いを踏みにじるのかということだけです」


 その言葉に、エドガーの表情が一瞬凍りついた。


「何…を言った?」


「母上の日記を読みました」イリスは告げた。「母は私の異能を封じ込めたのではなく、守ろうとしていた。私が自分で使えるようになるまで」


 広間に緊迫した沈黙が満ちる。黒衣の者たちさえも、この親子の対立に息を潜めているようだった。


「イリス」


 父の声が低くなった。


「お前は何も知らないのだ。あの力は危険すぎる。お前の母は…あの力のせいで…」


「嘘です!」


 イリスの叫びが広間に木霊した。


「母上は私の力を恐れていなかった。母は…私が愛する力を信じていた」


 その時、イリスの指先から僅かに紫の光が漏れ始めた。この異能の兆候に、黒衣の者たちが一斉に身構える。


「その力を見せてみろ」彼らの中の一人が強い口調で命じた。「我々が制御してやる」


「いいえ」


 イリスは静かに両手を胸元で組んだ。


「この力は私のもの。誰にも渡さない」


「イリス」


 父の声には今や焦りが混じっていた。


「分からんのか。あの力は呪いだ。お前の母を殺したのはあの力なのだ!」


 イリスの心に一瞬の動揺が走った。けれど、すぐに払いのけた。


「それこそが父上の最大の誤解です」彼女は言い切った。「母上は私に残したメッセージの中で、こう言っています——『この力は呪いではなく、祝福なのだと信じなさい』と」


 エドガーの顔から血の気が引いた。その表情には、もはや威厳の欠片もなく、ただショックと困惑、そして恐怖だけが浮かんでいた。


「そういうことだったのね、父上」


 イリスは哀しげな笑みを浮かべた。


「あなたは母上の力を恐れ、そして母上自身をも恐れていた。そして今、私をも恐れている」


「黙れ!」エドガーが叫んだ。「お前は何も…」


「母上は自らの意志で力を使い、自分を犠牲にしたのでしょう?」イリスはさらに追い詰めた。「そして父上は、その真実から目を背け続けた」


 エドガーの顔が青白くなった。彼の唇が震える。


「お前に何が…」


「十分だ」黒衣の指揮官が割って入った。「ノクターン侯。娘を説得できないなら、我々が連れていく」


 彼が手を上げると、数人の黒衣の者が素早くイリスの方へ動き出した。


「触れないで!」


 イリスの声が響き渡ると同時に、彼女の体から紫の光が一斉に迸った。それは怒りの炎ではなく、凛然とした意志の光だった。光は彼女を取り巻く薄膜となり、近づく者を寄せ付けない。


「この力は…」黒衣の者の一人が驚愕の声を上げた。「防御の異能だと?」


「違います」


 イリスは静かに答えた。


「これは『感情を形にする力』。今の私の中にあるのは、自分の心を守りたいという強い意志です」


 彼女はゆっくりと父に向き直った。


「父上、もう終わりにしましょう。私は父上を憎んではいません。ただ…もう従いません」


 エドガーの目に迷いの色が浮かんだ。長年培った威厳と父権が、目の前で崩れていくのを感じているかのように。


「イリス…お前は本当に…」


「私はもう人形ではありません」イリスは静かに、しかし揺るぎない意志で告げた。「私は生きているの。喜びも悲しみも、全てを感じながら」


 その時、広間の扉が大きな音を立てて開かれた。


「イリス様!」


 見覚えのある声に、イリスの心臓が高鳴った。入ってきたのは、シルヴィアとユナ、そしてヴァルトだった。彼の服は汚れ、顔には擦り傷があったが、琥珀色の瞳は力強く輝いていた。


「ヴァルト…」


 イリスの目に熱いものが溢れた。彼は無事だった。


「捕虜を逃がしたのは誰だ!」黒衣の指揮官が怒号を上げる。


 セドリックが彼らの後ろから姿を現した。彼の服には戦いの痕跡があった。


「失礼、少々寄り道をしてしまってね」彼はにっこりと笑った。「彼は誰かの捕虜ではない。イリスの守護者だ」


 ヴァルトはゆっくりとイリスに近づいた。二人の間には、言葉にならない繋がりが満ちていた。


「お嬢様」彼の声は少し嗄れていたが、温かく力強かった。「無事で…よかった」


「私こそ」イリスは微笑んだ。「心配したのよ」


「もう十分だ!」


 エドガーが突然絶叫した。彼の顔は怒りで真紅に染まっていた。


「お前たちは皆、国家反逆罪だ!特に獣風情が令嬢に手を出すとは!」


「父上!」イリスは凛然と声を上げた。「ヴァルトは私の選んだ人です。誰にも、その選択を貶める権利はありません」


「愚かな!」エドガーは咆哮した。「お前は家の恥だ!母親と同じく、異能の力にとりつかれた…」


「それで」イリスは冷静に、しかし凍りつくような声で遮った。「父上は母を愛していなかったのですね」


 その言葉は、まるで鞭のようにエドガーを打ちのめした。彼は言葉を失ったように口を開閉させた。


「私は…」


「愛していたなら」イリスは続けた。「母の願いを踏みにじるようなことはしなかったはず」


 広間に沈黙が落ちた。黒衣の者たちも、この親子の対決に息を呑んでいた。


「イリス」


 エドガーの声が、初めて弱々しく震えた。


「お前は本当に…あの力を制御できるのか?」


「ええ」イリスは確固として答えた。「母の遺志を継いで、私はこの力と共に生きる道を選びました」


 それから彼女は、ゆっくりと父に背を向けた。


「さようなら、父上。私はもう、あなたの人形ではありません」


「待て!」エドガーが必死に叫んだ。「行くな!お前は…お前はノクターン家の…」


「ノクターン家の何ですか?」イリスは振り返り、静かに問うた。「道具ですか?駒ですか?」


 エドガーは言葉に詰まった。


「イリス、お前は…」


 彼の顔に、初めて迷いの色が浮かんだ。長年の頑なさが、少しずつ崩れていくのが見えた。


「お前は…私の娘だ」


 その言葉に、イリスの胸が痛んだ。しかし、もう戻る道はなかった。


「それでは父上、あなたの娘は自分の道を行くと決めました」


 イリスはヴァルトの方へと歩き始めた。彼の琥珀色の瞳には、誇らしさと安堵の色が浮かんでいた。


「我々はどうする?」黒衣の指揮官が尋ねた。


「お前たちも帰れ」


 意外にも、その言葉を発したのはエドガーだった。


「だが、王宮の命令が…」


「王宮など知らん!」エドガーが怒鳴った。「これは家の問題だ。今夜のことは全て忘れろ」


 黒衣の者たちは困惑した様子だったが、それ以上は何も言わなかった。代わりに彼らは、静かに退場し始めた。


 イリスはヴァルトの隣に立った。彼の温かな存在が、今の彼女の力の源だった。


「行きましょう」イリスは囁いた。


 しかし、広間を出ようとしたその時、彼女は足を止め、振り返った。


「父上」


 エドガーが顔を上げた。彼の瞳には、初めて見る感情の色が宿っていた——悲しみ。


「いつか、理解してもらえる日が来ることを願っています」


 その言葉を残し、イリスは広間を後にした。ヴァルト、セドリック、シルヴィア、ユナと共に、彼女は新たな一歩を踏み出した。


 夜明けの光が東の空を染め始めていた。自由への第一歩を踏み出した朝、イリスの心は不思議なほど軽かった。


「これからどうする?」セドリックが尋ねた。


 イリスはヴァルトを見、それから夜明けの空を見上げた。


「自分の心に従って、生きていくわ」


 彼女の紫色の瞳が朝日に照らされて輝いた。

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