第七夜 呼び声

はじめに、若い読者諸兄の為に用語の解説をすることをご容赦頂きたい。

ラジカセとは:ラジオカセットレコーダーの略でラジオの受信、磁気テープを用いた録音機能を持つカセットテープの再生、及び内蔵マイクによる録音が全て1台でできるガジェットである。

現代においてはご存知の通り、これらの機能はスマートフォンがあれば事足りる為すっかり日の目を見なくなっており、ヒップホップの厳ついブラザーが文化のアイコンとして肩に抱える以外では、ほぼ絶滅している。

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いびきだとか、寝言だとかというものは、発生元の人物本人の想像を遥かに超える被害を与えてしまう事が、ままある。


被害を受ける側は眠りを妨げられるのはもちろん、当人はぐっすりと眠っているのだから周りの迷惑になど気づきはしないのが、また腹立たしい。

ましてこれが毎晩ともなれば、どうにかして当人に被害の程を知らしめたくなろうと言うもの。


これは、阿部さんという40代男性から聞かせて頂いた、寝言にまつわるお話である。

阿部さんの叔母にあたる梢江さんの体験談だそうで、今から30年以上も前に起こった出来事だ。


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梢江さんには10年以上、悩み続けていた事があった。

夫の寝言がうるさいのだ。

正確に言えば、寝言だけでなくいびきに歯ぎしりと、騒音のフルコースである。

結婚したばかりの頃は、極稀に寝言を喋る程度だった。

ところが5年ほども経つと夫は徐々に太りだし、それにつれていびきをかくようになった。

恐らくは、体型や睡眠の質など、様々な要因が絡み合っているのだろう、いびきに次いで歯ぎしりをするようになる。

寝言のヴォリュームが段々と大きくなり、長時間しゃべるようになる。

遂には夫が寝てから起きるまでの間、常に何らかの音が喧しく鳴っている、そんな状況になってしまった。


悪い事に夫のこの症状、長い期間かけて少しずつ悪化して行ったため、梢江さんもまた少しずつ騒音に慣らされてしまっていた。

最近少しうるさくなったけど、まだ眠れるから我慢しよう、また少しうるさくなったけど、まだ我慢できるからもう少し様子を見よう、などとやっているうちに、気付けばまともに熟睡できないほどうるさくなってしまった。


ある日梢江さんは意を決し、酷いいびきをかいていることを夫本人へ伝えた。

どこか病気かもしれないから、一度医者に見てもらえと必死に夫を説得するが、彼は鼻で笑うばかりで意に介さない。

そればかりか、「俺は子供の頃からいびきを指摘されたことなんかない。君の方がちょっと神経質過ぎるんじゃないの」などと言い返してくる始末。

どれ程梢江さんが力説すれど、これっぽっちも聞く耳を持たなかった。


この態度に、遂に梢江さんがキレてしまった。

彼女はその日、近所の雑貨屋で買える中で一番長い、240分だか、300分だかのカセットテープを数本買ってきた。

録音した音源を聞かせて、如何に夫が騒々しいかを本人に聞かせてやろう、と考えたのだ。

30年以上も前のことであるから、当然現代のように時刻指定で簡単録音、とは行かない。

夫が寝入るのを待ち、頃合いを見計らってそっとラジカセの録音ボタンを押す。

上手く録音できることを期待しつつ、その日は自分も布団に潜り込んだ。


翌日ラジカセを確認すると、表裏両面の録音が済んでラジカセは止まっていた。

最初の方を再生すると、数分と待たずに夫のいびきが聞こえてきた。

どうやら首尾よく録音できているようだった。


その晩、晩酌を始めようとする夫の眼前にラジカセを置き「証拠、聞かせてあげるから」とだけ言って、再生ボタンを押す。

夫は一瞬、何のことか分からないと困惑した表情を見せたが、直ぐに雷鳴の如きいびきが聞こえ出し、顔をしかめた。

「これ、俺のいびきか?」と夫が尋ね、梢江さんは黙って頷く。


いびきの音はしばらく大音量で鳴り響き、時折ピタッと止んだかと思えば、豚の鳴き声が断続的に挟まり、かと思えばまた地響きのように鳴り続ける。

合間に度々いびきが止むと、シンと静寂が訪れ、梢江さんのものと思われる寝息が微かに聞こえる。


「これ、まだ序の口だからね」と梢江さんが言うと、夫は苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んだ。

5分程いびきが続いた後、唐突に長い静寂が訪れた。

静まり返った中に、クルミを2つ掌の中で擦り合わせ様な音が響く。

これを皮切りに、様々な歯ぎしりの音が鳴り出した。

高い音、低い音、カリカリと細かく続く音、大きな飴を噛み砕く様なゴリッという音...

「あんたこれ、どうやって演奏してんのよ」と梢江さんが問えば、「寝てんだから知るかよ、俺に聞くな」と夫が返す。

想像していたよりも遥かに騒々しかったのだろう、夫も徐々に申し訳無さそうな表情になる。

此処ぞとばかり、梢江さんは畳み掛ける。

「この後いよいよサビだから、よくよく聞いときなさいよ」


程なくして、歯ぎしりの音がまた、唐突に鳴り止む。

短い静寂の後、ウゥ、ん〜と唸り声が数度入り、寝言が始まる。

『嫌だ...嫌だってのに...』

... ...

『嫌だってば...俺は...嫌だ...ねぇよ』

... ...

『イヤだって言ってんだろ...ねぇよ』

... ...

夫が何とも言えぬ顔で、梢江さんを見る。

「これも、俺、だよな?」

「あたり前でしょ!誰が他に喋るってのよ!全く、イヤだイヤだって、毎晩こんなもん聞かされて、嫌はこっちの台詞だってのよ」

梢江さんが捲し立てると、夫は思いもよらぬ事を言い出した。

「なぁ、もうイタズラはやめてくれよ...俺の他にもう一人喋ってる奴は誰なんだよ...」

夫の言葉に、今度は梢江さんの方が言葉を失った。


「いい加減な事言って誤魔化そうったって無駄だよ!」と、言ってはみたものの、夫の表情は真剣で、むしろ怯えているようにも見える。

夫は次第に青ざめだし、微かに震える手で、ラジカセの音量ツマミを大の方へ動かした。

寝言が一際大きく響く。

その寝言の合間に、二人は耳を澄ます。


おいで


『嫌だ...』...おいで...

『嫌だってば...』おいで...

『イヤだ...行かねぇってんだろ』...


夫の寝言の間に、確かに、別の声が聞こえる。

低い小さな、しかし地の底から響くような暗い声が、おいで、と何度も呼びかける。

夫の寝言は、何処かへと誘う声に必死で抗っているようにも聞こえた。

暫く寝言が続いた後、再び唐突に静寂が訪れた。

夫の寝言が止まると、誰ともしれぬその声もまた、止まる。

静寂の中に、二人が唾を飲み込む音が鳴った。

暫しの沈黙ののち、爆音のいびきが流れ出したので、梢江さんは慌てて停止ボタンを押した。


ラジカセの再生が止まると、室内は静寂に包まれた。

「本当にイタズラじゃないのか?」夫が静かに問う。

梢江さんは、無言で頷く。

「じゃあ、誰かが夜中俺達が寝てる間に部屋に入ってきて、ラジカセの横でボソボソ喋ってたと、そういう事か?」と、今度は語気を強めて夫が問う。

梢江さんは答えられず、呆然とラジカセを眺めていた。

昨晩何が起こっていたのか、梢江さんにも分かるはずがない。

夫は恐怖よりも苛立ちが勝ったのか、あるいは怒りを奮い立たせる事で恐怖を押し殺そうとしたのか、奥歯を噛み締めながらラジカセの巻き戻しボタンを押すと「勘違いかもしれないから、もう一遍聞くぞ」と、自らに言い聞かせるように、言葉を絞り出した。


何度も繰り返し聞いても、やはり寝言の間には、誰とも知れぬ男の声が聞こえた。

いや、何度も、という言い方には語弊があるかもしれない。

というのも、四度目か、五度目に巻き戻した際、カセットテープが絡まって切れてしまったのだそうだ。

30代以上の諸兄であればご存知かと思われるが、カセットテープは対応時間が長い物も短い物も、外側の容器は同じサイズ、形状である。

長時間になればなる程、中の磁気テープは長く、また薄くなっていく為、場合によっては簡単に絡まって、あるいは切れてしまい、再生できなくなる事がある。


昨晩の出来事の一部始終を録音したカセットテープは、失われてしまった。

夫は磁気テープがもつれたカセットテープをしばし呆然と眺めていたが、やはり納得がいかなかったのか「今晩もう一度、録音してくれるか?」とだけ言って、すっかり気の抜けてしまったビールを飲み干した。


その晩、梢江さんは新しいカセットテープを開封し、ラジカセにセットした。

夫はあの後、いつものように瓶ビールを2本開け、早々に布団へ潜り込んでいた。

梢江さんは前夜と同じようにラジカセの録音ボタンを押し、カセットテープが回り始めるのを確認してから自分の布団に横になった。

夫はまだ静かに寝息をたてており、珍しく静かな環境だった為か、梢江さんも直ぐに寝入ってしまった。


そうして翌朝、夫は目を覚ますことがなかった。


恐らくは睡眠中の突然死だったのだろうが、まだインターネットが現在ほど一般的でなかった当時、突然死のメカニズムなど誰でも知っている筈もなく、あの声の主が夫を連れて行ったのではないかと、話を聞いた親類縁者の間で葬儀の前後にちょっとした騒ぎになったそうだ。

とは言え、最初に録音したテープは切れてしまって再生できず、二日目のテープは男の声どころかいびきも寝言も入っておらず、梢江さんのものと思しき静かな寝息が入っているだけだった。

実際に聞いた梢江さんの証言以外、謎の声を示すものは何もなく、すぐに親類の間でも話題に上がらなくなったのだそうだ。

テープが切れてしまったカセットは、念の為近所のお寺に持ち込んで供養してもらったそうで、この出来事を紐解く手掛かりは既に、何一つとして現存していない。


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阿部さんはこの話を、中学生の頃に梢江さんから直接聞かせてもらったのだという。

梢江さんの夫、阿部さんから見ると義理の叔父にあたる人物の三回忌の際に聞いたそうで、「あんな余計な事しなければ、あの人ももう少し長生きできたのかしらねぇ」と、梢江さんは少し寂しそうに語られていたのだそうだ。

その梢江さんも2年程前に亡くなられており、阿部さんは梢江さんの法要の席で、梢江さんからこの話を聞かせてもらった時の事を不意に思い出して、私に語って下さったのだという。


この出来事、叔父さんの寿命が尽きかけてお迎えが来た所を偶々録音してしまったのか、はたまた彼岸へ連れ去ろうとする呼び声に抗えなくなった為に亡くなってしまったのか。

男の声を認識しなければまだまだ抗えたのか、あるいはこの日が定められた終焉の時であったのか...

証人も物証も失われた今となってはどれ程考えても答えが出ることはないのだろう。

阿部さんが法要の際にふと思い出した事によって、かろうじてこの出来事のあらましのみが私と阿部さんの記憶に残る事となった。

より多くの人の目に触れる事で何らかの答えが示される可能性に淡い期待を寄せて、ここに書き記すのみである。


-了-


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