第8章「ティアドロップ・ライダー」

――まっすぐな瞳を、あえて隠すという選択


 


朝の坂道、バイクのエンジン音が遠くから響いてくる。

静かな住宅街の空気を裂くような乾いた音は、ある意味では“学校よりも早く始まる警報”だった。


その音を聞けば、誰もが思い出す。

バイク通学で有名な男子――**滝川 陸(たきがわ りく)**の存在を。


乱れた前髪、口数の少なさ、長身。

そして、彼がいつもかけているティアドロップ型のサングラス。

メタルフレームに大きな涙型のレンズ。アメリカンな、ちょっとワルっぽい雰囲気。


教師にはよく注意されている。

「校則違反だ」と言われても、彼は何も言い返さない。

ただ、淡々とバイクを止め、ヘルメットを外し、教室の隅に座るだけだった。


でも僕――**透(とおる)**は、彼のことを違う目で見ていた。

光映堂には、彼がときどき、無言でレンズの交換に来るのだ。

無口だけれど、フレームやレンズに傷があるときだけ、きちんと持ってくる。

そのメガネの扱いは、不器用な優しさのかたまりだった。


ティアドロップは“隠すための形”じゃない。

本当は、まっすぐに見ている人ほど、あえてレンズの奥にいることを選ぶ。


 


「滝川くんって、ほんとに怖い人なのかな?」


ある日、そう口にしたのは、同じクラスの**百瀬 凛音(ももせ りおん)**だった。

茶道部所属。声が静かで、言葉を選ぶのが上手な子。

なのに、どこか“危うい人に惹かれる”ような視線を持っていた。


「サングラスの下って、どんな目なんだろうね」

彼女はそんなふうに呟いた。


その日、教室で滝川のレンズが割れた。

誰かがぶつかって落とした拍子に、薄いひびが入った。


「透くん、……彼のこと、ちょっと助けてあげて」

凛音はそう言って、教室の窓辺で手紙を書きながら、遠くを見つめていた。


 


その夕方、滝川が光映堂にやってきた。


「……割れた」

無駄のない言葉だけを置き、手渡されたのはティアドロップ型のサングラス。

フレームは細いシルバー。レンズは薄くグレーがかった色。


僕は修理をしながら尋ねた。


「この形、選んだ理由ってあるの?」


彼は少しだけ口元をゆるめて、低く答えた。


「昔、父さんが使ってた。……形、好きだった」


「でも、校則ではアウトだよね」


「わかってる。……けど、これは、“守ってる”んだ」


 


ティアドロップ型は、もともとパイロット用のサングラスとして生まれた。

涙のような形は、視界を遮らずに光を遮る設計。

つまり――「ちゃんと見るために、あえて隠す」道具だ。


「……怖がられる方が、都合がいいときもある」

彼はポツリと言った。


「ちゃんと見るのって、思ったより難しい。

 ……見られるのも、もっと難しい」


 


修理を終えたメガネを受け取った彼は、その足で凛音に会いに行った。

放課後の茶室。畳と抹茶の香りが漂う空間に、彼は不器用に立っていた。


「……これ、お前に」


差し出されたのは、割れたレンズが入った古いサングラスの片方。

小さな紙に添えてあった一言はこうだった。


「割れてよかった。見られた方が、少しだけ楽になった」


凛音はそれを受け取り、ほんの少しだけ笑って言った。


「じゃあ、今度はこっちから、ちゃんと見るね」


 


それから数日後、滝川は新しいメガネをかけていた。

ティアドロップ型ではあるけれど、レンズはクリア。

色を透かしたまま、ちゃんと目が見える――そんな“見せる選択”だった。


僕は、そのメガネの調整をしながら尋ねた。


「変えたんだね。クリアに」


「……まあ、“見られても平気”って誰かが言ったから」


彼の声は少しだけ柔らかくなっていた。

ティアドロップの形のままで、まっすぐな目を選んだ彼のことを、

僕はちょっとだけ、誇らしく思った。


 


ティアドロップ型。

それは、見ないための形じゃない。ちゃんと見るために、自分の目を守る形。


本当の優しさは、目立たない。

けれどその人が選んだレンズ越しには、まっすぐな心が、静かに光っていた。


 


(→第9章「クラウンパントと古いカメラ」へ続く)

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