莨
柴公
莨
苦節三十幾年、俺は遂に、自殺に成功した。
それはまるで開放されたような感覚を覚え、また同時に恐怖もあった。魂と胸が、現代社会と化学物質に汚染されていく。そんな恐怖をもう味わわずに済むという風に考えて、一息つけるというものだ。一方で、死の恐怖はその安堵を暗く濁ったタールのように、容易く覆っていく。「死」は恐ろしい。それを迎えた瞬間、自分という存在はこの世にいなくなってしまう。記憶と亡骸だけの存在になり、いずれ朽ちて消えていく。
それもいいか、と灰を落とすように区切りをつけて、ポケットの車のキーを確認する。それはずっしりと重く、そしてひどく冷たかった。
医者から余命宣告を受けて、診察室で声を上げてガッツポーズをした。あんまり喜ぶもんだから、医者と看護師にこっぴどく叱られた。でも俺はそんなこと気にせず、大量の痛み止めと咳止めをもらってウキウキで車に乗り込んだ。
オーディオから流れるラジオのコマーシャルが、がん検診を進めていた。嬉しいかな、もう遅い。口角の上昇が止まらないまま、俺は海へとアクセルを踏み込んだ。
海沿いの道路は、潮風が年中吹いている。これがいいのだ。助手席の窓を開け、車内に新たな空気を招き入れる。夏に差しかからんとする六月末の湿った風はタバコによく合う。口に人間用の排気筒を咥えると、二十年連れ添った愛車は元気そうにエンジンをふかせた。
医者は「肺がんです」と言った。本望だった。それを望んで、高いたばこ税を払っていたとも言えるだろう。続けて、「どうしてこんなになるまで放っておいたんです」と言って、レントゲン写真を見せてきた。俺の肺は真っ白に映っていて、おそらく染み付いたヤニがもう取り返しのつかないところまで行ってしまっているとの事だ。余命は約半年。終身保険の先払いが出てくる、ギリギリのラインだ。
俺はワクワクを隠せなかった。まとまった金が振り込まれる瞬間をこの目で見たいほどだった。さして不満のある様なところでもなかったが、毎朝毎朝会社に起こされることも無くなるのだ。潮風の中煙に包まれて、これから半年でどう生きようかと、目は爛々としていた。
しかし、二日も経てば現実は嫌でも襲ってくる。死への恐怖はとめどなく溢れ、喉を引っ掻きながら一日中枕を濡らした。しかし泣けど喚けど慰めてくれる両親は既に他界しており、結婚もしていないから伴侶もいない。
俺は孤独だった。
孤独は精神と肉体を余計に蝕み、さらに時の進みを遅くした。痛み止めの常用からくる吐き気が、ありもしない頭痛を思わせた。カーテンの隙間から見える太陽だけが、燦々と哀れな肉塊を照らしていた。咳をしても一人、とはよく言ったものだ。半ば廃墟と化した我が家に、咳だけが虚しく響いていた。
ついていたテレビが旅特集をやっていたのは、それから三日は経った頃だった。俺は脱水症状を起こして病院に送り返されていた。二度と来るまいと誓ったのに、この様だ。情けない。
隣の病床で寝ていた爺さんがつけたテレビから、それは流れていた。サイコロを振り、出た目の数だけバス停を進む、よくあるやつだ。舞台に選ばれていたのは、地元の温泉街だった。
思えば母が死んでから、もう十幾年と帰っていなかった。十八で上京してから、バスが一日五本しかないような田舎にかける余裕はほとんどなかった。
どうせ死ぬなら、最後にこういうところに行きたかったなぁ
隣のじいさんが呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。不幸中の幸いか、俺は明日にでも退院出来るそうだ。握られた車のキーは、まだひんやりとしている。
自殺しようとして、死にきれなかった人は皆口を揃えてこう言う。
やるんじゃなかった
貧弱なやつだと考えていたが、いざ自分の番となると、そうも言ってられないということに気づいた。と考えてみても、確実に死ぬだろう俺と、死ぬか怪しい方法を取った彼彼女らでは、また話の違う恐怖になるのだが。
死ぬのが怖くなった、別にそういう訳じゃない。漠然と近づいてくる死に対して、何も出来ない時間が恐ろしい。そう気づいた頃には、俺は車に乗りこんでいた。
高速道路を全力で飛ばして、七時間の長旅だ。死にかけの身体は自分とは別の意志を持ったようにベッドに居させようとするが、そんなものは関係ない。医者から貰った痛み止めと咳止めをバッグに突っ込んで、冷えたキーに僅かに残った熱量を頼りに、俺は西へ進路を取った。
流れていく景色が、まるで未来への加速を感じさせるようだった。東京はまだ暑く、木々は鬱蒼と茂っていたのに、静岡大陸を越えれば空気は少し優しくなり、紀伊半島に差し掛かったあたりで山奥には紅葉が見受けられた。同時に、刻々と身体に刻んだ限界が、徐々に顕れてきていることも感じた。この落ち葉が落ちる頃までに、生きていられるだろうか。
途中何度か休憩を挟んだからか、温泉街に着いたのは翌日の昼頃になってしまった。宿に着いた頃、時間が惜しい訳では無いのに、無性に焦っている自分がいた。
部屋に荷物を預け、どうせと持ってきたタバコを胸ポケットに入れ、俺は元実家へと歩くことにした。途中、杖を買っておけばよかったと後悔しながら、川沿いに続く家々を横目に山肌を上がった。
実家は両親がどちらもいなくなった後に、業者に売り払った。だから今、どのように使われているのか、そもそも使われていないのか、何も分からない。不安ではある。そこがどのように扱われていても、なにか絶望に近い気持ちになる気がしてならない。それでも、ここまで来たんだと、血色の悪い足を前に進ませると、それは温かい空気を以て俺に現実を教えてくれた。
瓦葺の木造二階建て、屋敷というには小さく、ただの家と言うには大きいくらいの、田舎によくある日本家屋。取り壊されることなく、今なおそこに建っていた。
最後に見た時と変わりがあるとすれば、そこから楽しそうな子供の声が聞こえることだ。
表札が新しくなっていることに気づき、言葉通りの門前払いを食らったような気になって、言葉を失った。逃げるように家に背を向けると、振り返った先にボールを持った子供がいた。一体新しくここに住んだやつは何人家族なんだ。
「お兄さんは、だぁれ?」
純新無垢な瞳、穢れを知らない肺、シワの無い肌。俺には無いものを沢山持ったその子供は、不安そうにこちらを見ていた。
「おばーちゃーん!家の前に変な人がいるよー!」
肺は白くても腹は真っ黒かもしれない。
結論から言うと、この家に家族はいなかった。この家は、町民や児童がいつでも使える、公民館のような形に姿を変えていた。たくさんの子供たちは、皆学校を終えてここで遊んでいたのだ。
管理人をやっていた高齢の女性に、元家主であることを伝えた。最初は信じてくれなかったが、屋根裏へ続く階段の位置と、勝手口の鍵の個数を答えると納得してくれた。
子供達に聞くと、みな「第二の家族」というふうな捉え方をしているらしい。みたところ、三歳程度の幼児から、十五歳程度のティーンまで、幅広い年齢層をもっているようだった。
自分が住んでいた部屋は、客間として普段は使われないようになっていた。柱の傷や天井の梁の軋む音を感じながら、俺は一息つくことにした。管理人さんが持ってきたほうじ茶を飲みながら、俺は癖で胸ポケットを漁っていた。
今生限りと思い、来るまでに吸いきっていたことを忘れていた。思えばこちらにくるまで、何度も繰り返した動作だった。
「おじさん、タバコ吸うの」
見られていたのだろうか、中学生くらいの女子が話しかけてきた。
「タバコは、嫌いか」
「…嫌い、臭いし体に悪いし」
当然の感想だ。何が良くて吸ってるのかなんて、誰も分かっていない。
「なにより、母さんを殺した」
がんの痛みとは別の痛みがして、ポケットの空を切った手でそのまま胸を抑えた。
「情けないよなぁ、おじさん」
詰まった声で、呟いた。
「あんた、タバコって字をかけるか?」
少女は、スラスラと空に指を添わせた。火偏に西のような文字の下に土で煙。草冠に早いと書いて草。二つ合わせて「煙草」。物知りの子だ。
「一文字で書けるのは知ってるか?」
少女は首を横に振った。当たり前だ。
俺は胸を抑えたまま、左手で空に書いた。
「草冠に、良い。これだけだ。これだけで、莨。タバコは良い草なんだそうだ。皮肉だよな」
なにが言いたいのかは、よく分からなかった。少女も不思議そうな顔をしていた。困らせてしまったと思いながら、おじさんは昔のくせでねと言って、その場はしまいにした。
なぜ死にたかったのかは、よく覚えていない。親がタバコを吸っていたのも、元カノが家にタバコを置いて出ていったのも、喫煙所のあの独特の雰囲気も、何一つ気に入らなかったのに。どうしてタバコで死のうと思ったのか。
「ヤニの趣味は気に入らない、気付かぬうちに体を蝕まれ、ふとした時にはもう取り返しがつかない。あんなのは緩やかな自殺だ。人としての敗北宣言だ」
そんなことを、言われたような気もする。俺も、あの少女のような考えだったはずだ。
旅館に戻って、来た時には無かった灰皿がエントランスに置かれているのを見て、なんだか胸がざわついたのを感じた。走って近くの酒屋まで行き、タバコを購入した。十ミリのニコチンが、真っ黒の肺に充満していく。一酸化炭素が血中酸素濃度を下げ、徐々に頭がぼんやりとしていく。体温が下がり、体と空気の境目がはっきりとする頃、日はとっぷりと暮れ、胸ポケットには虚ろな箱が収まっていた。
この箱が無くなるまでは、生きていよう。莨は、「ゆるやかな」自殺なのだから。余命は残り四ヶ月と少し。莨の残りは十九本。あと十九回、出会いの可能性がある。この旅館にはいなかった愛煙家達と、死ぬかもしれないこれからを語らうのもいい。
とりあえず今日は、痛む肺を無視して、この一本を味わおう。
莨 柴公 @sibakou_269
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