ポニーテールと日焼けの距離
坂倉蘭
ポニーテールと日焼けの距離
蝉の声が響く、焼けたアスファルトの匂いが鼻をつく夏の日。
私の目の前には、いつも泥だらけのスニーカーと、日に焼けた腕を振り回す女の子がいた。
名前は佐倉葵(さくら・あおい)。近所の公園でいつも一緒に遊んでいた、まるで男の子みたいな子。
短い髪を振り乱し、Tシャツにハーフパンツで木登りや鬼ごっこに夢中だった。
私、藤井美咲(ふじい・みさき)は、葵の後ろを必死で追いかけるのが日課だった。
「美咲、遅いぞ! もっと早く走れよ!」
葵の笑顔は太陽みたいで、ちょっと意地悪で、でもどこか優しかった。私はいつも息を切らしながら、彼女の背中を追いかけた。
その頃の私は、葵が女の子だなんて、深く考えたこともなかった。
彼女はただ、かっこよくて、強くて、私の大好きな「葵」だった。
でも、ある日、葵のお母さんが笑いながら言った。
「葵も女の子なんだから、いつかおしとやかになるわよ」
その言葉が、私の心に小さな波紋を広げた。
女の子? 葵が? でも、女の子なら、なんで私の心はこんなにドキドキするんだろう?
中学三年間を終え、私たちは同じ女子校に進学した。
聖桜学園――伝統あるお嬢様学校だ。葵とは小学校卒業以来、ほとんど会っていなかった。
彼女はスポーツ推薦でバスケ部に入り、私はテニス部に所属した。
部活が違えば、クラスも違う。すれ違うこともなく、葵のことは心の奥にしまっていた。
ある日、体育館でバスケ部の練習試合を見に行った。そこにいたのは、まるで別人の葵だった。
ポニーテールに結んだ髪が、シュートを決めるたびに揺れる。
長身で、しなやかな筋肉が動きに合わせて躍動する。色白の肌は、屋内競技のせいか、昔のわんぱくな日焼け跡を思い出させないほど透明感があった。
「佐倉、ナイスシュート!」
仲間からの声援に、葵はキリッとした笑顔で応える。
その瞬間、周囲の女子たちが「王子様!」「葵様、かっこいい!」と騒ぎ出した。
私は、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。あの笑顔は、昔の葵のままなのに、どこか遠く感じる。
そして、彼女の目が私を捉えた。
「美咲? 久しぶり!」
葵が近づいてくる。汗とシャンプーの匂いが混ざった、懐かしいのに新しい空気。
「う、うん……久しぶり、葵」
私の声は、情けないほど震えていた。
テニス部での私は、決して目立つタイプじゃない。
内向的ではないけど、みんなを引っ張るような明るさもない。ラケットを握っているときだけ、頭が静かになる。
でも、最近は葵のことが頭から離れない。
彼女がバスケ部で「王子様」と呼ばれていることも、女子たちが彼女にキャーキャー言っていることも、全部が私の心をざわつかせる。
「美咲、最近ぼーっとしてるな。恋でもしてる?」
テニス部の先輩にからかわれて、私は慌てて首を振る。
「ち、違います! ただ、ちょっと考え事してただけです!」
でも、心の中では否定できない。葵への気持ちは、小さい頃の「大好き」から、もっと複雑なものに変わっていた。
彼女が女の子だと分かっていても、優しく笑いかけてくれるたびに、私の心は「もしかして」と勘違いしてしまう。
テニス部の練習は屋外だから、私はすっかり日焼けしていた。鏡に映る自分を見ると、葵とは逆の道を歩んでいる気がした。
彼女は色白で、洗練された美しさを手に入れた。私は、昔の葵みたいに、日に焼けて少し無骨なまま。
そのギャップが、なぜか私をさらに葵に惹きつける。
ある日、葵がテニスコートにやってきた。
「美咲、試合見たかったんだ。テニス、めっちゃ上手いじゃん!」
彼女の笑顔は、昔の公園での笑顔と重なる。私はラケットを握る手に力を込めた。
「そ、そんなことないよ。葵のバスケの方がすごいって、みんな言ってるし……」
「そんなことないって。美咲のサーブ、めっちゃかっこよかったぞ」
葵の言葉は、いつもストレートだ。彼女は私の日焼けした腕を指さして、笑う。
「なんか、昔の俺みたいだな、美咲」
その一言に、私の心が揺れた。
昔の葵を思い出すたびに、彼女への気持ちが溢れてくる。
でも、同時に、彼女が「女の子」として私の前にいる現実が、胸を締め付ける。
「葵は……変わったよね。すっごく、綺麗になった」
私がそう呟くと、葵は少し照れたように笑った。
「そ、そうかな? 美咲だって、めっちゃ可愛いじゃん」
その言葉に、私は顔が熱くなるのを感じた。
でも、彼女の「可愛い」は、きっと友達としてのものだ。私の心が求めるのは、もっと違う意味の言葉なのに。
秋の文化祭。聖桜学園は、女子校ならではの華やかさで盛り上がっていた。
バスケ部は模擬店を出し、葵はウェイトレスの格好で接客していた。
ポニーテールに、白いシャツと黒いスカート。彼女の姿に、女子たちが黄色い声を上げる。
私はテニス部の展示を手伝いながら、遠くから葵を眺めていた。彼女の笑顔は、誰にでも平等に輝いている。それが、余計に私の心を苦しめる。
夜、校庭でのキャンプファイヤー。みんなが火を囲んで歌ったり笑ったりする中、私は少し離れたベンチに座っていた。
「美咲、こんなとこで何してるの?」
葵の声。私は驚いて顔を上げる。彼女はジャケットを羽織って、火の光に照らされていた。
「う、うん、ちょっと疲れてて……」
「ふーん。じゃ、俺もここで休憩な」
葵が隣に座る。
彼女の肩が、私の肩に軽く触れた。その瞬間、心臓が跳ねる。
「美咲、最近なんか元気ないよな。悩みでもある?」
葵の声は優しい。私は、彼女の目を見られなかった。
「そんなこと、ないよ。ただ……葵が、みんなの王子様になってるから、ちょっと寂しいだけ」
冗談っぽく言ったつもりだった。でも、葵は少し真剣な顔で私を見た。
「王子様、ね。なんか、変な感じだな。俺、ただの葵なのに」
「ただの葵、か……でも、葵は特別だよ。私の、特別な……」
言葉が、喉で詰まる。葵は静かに私の手を握った。
「美咲も、俺の特別だよ。ずっと、変わらない」
その言葉に、私は涙が溢れそうになった。彼女の手の温もりが、私の心を揺さぶる。
でも、彼女の「特別」は、私が望む「特別」と同じなのだろうか?
文化祭の翌週、私は葵をテニスコートに呼び出した。
夕暮れのコートには、誰もいない。ラケットを握る手が、緊張で震える。
「葵、話したいことがあるの」
彼女はポニーテールを揺らしながら、いつもの笑顔で頷く。
「うん、なんだ? なんか真剣な顔してるな」
私は深呼吸して、言葉を紡いだ。
「葵のこと、子供の頃から大好きだった。男の子だと思ってた時も、女の子だと分かってからも、ずっと……恋してる」
葵の目が、少し大きくなるが私は続ける。
「でも、葵は私の事を友達としてしか見てないよね? それでも、言わないと後悔すると思ったから……」
静寂が、コートを包む。葵はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「美咲……俺、鈍感だったかも。ずっと一緒にいたから、気持ちに気づかなかった」
彼女は一歩近づいて、私の顔を覗き込む。
「でも、美咲の気持ち、ちゃんと受け止めるよ。俺も美咲のこと特別に思ってる。友達として、だけじゃないかもしれない」
その言葉に、私の心が弾けた。涙が頬を伝う。
「葵……ほんと?」
「ほんと。けど、俺は恋とかよくわかんなくてさ。美咲と一緒にゆっくり考えてみたい」
葵の笑顔は昔の公園での笑顔と重なる。私は彼女の手を握り返した。
「うん……一緒に考えよう」
夕陽がテニスコートを赤く染める中、私たちの距離はほんの少し縮まった。
まだ、もどかしい。
でも、それが私たちの始まりだった。
冬が来て、葵はバスケ部のエースとしてますます輝いている。
私はテニス部で、少しずつ自信をつけ始めた。
私たちの関係は、まだ「友達以上恋人未満」のまま。
でも、放課後に一緒に帰ったり、休日に公園で話したりする時間が増えた。
葵のポニーテールが揺れるたびに、私の心は温かくなる。
いつか彼女と手をつないで、もっと素直に気持ちを伝えられる日が来るかもしれない。
その日まで私は葵のそばで、私らしく歩いていく。
ポニーテールと日焼けの距離 坂倉蘭 @kagurazaka-rin
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