第10話 暗雲が立ちこめる
暗雲が立ちこめる-1
幸せすぎて怖い。
イヴは1人でシーカヤックに乗り、川を下り、海に漕ぎ出す。海といっても狭い水路だ。波は静かで、風がなければ1人でも難しくない。
1人で海に出たのは少し冷静に考えたくなったからだ。クライブにあんなに警告されていたのに、本当に抱かれた後は、別れがたくなっていた。それが彼と同じ気持ちというのはありがたいが、人生に関わる問題だ。マギーが言っていたように、バーンとこっちに来て自分の人生を変える選択肢はまだ選べない。今まで自分が積み重ねてきたものもまた自分の人生だから。
正面に見えるのは青い空と、どんよりした、けれど、どこか青い海。
左右には険しい山々とその頂に残る雪。
イヴはこの国の夏しか知らない。冬の厳しさを知らずに人生の選択ができるのか……と思う。それでもパドルを海面に挿し、推進力を得て、海を歩くのは気持ちがいい。自由になった気がする。
自由になったと感じると同時に鎖につなぎ止められた感覚がある。それは愛の鎖だ。クライブと夜を共にすると強さを増す鎖だ。ベッドの上から離れがたくなる。
最初、クライブは優しく愛撫を続けてくれ、イヴがこなれたところで彼自身を受け入れた。最初は少し痛かったものの、今まで感じたことのない快感は彼女の理性を蕩けさせるに十分だった。世の中の人はもっと早くに知っている快感だと思うと、ちょっともったいない気がした。しかし初恋の人と言ってもいいクライブと初めての体験ができたことは僥倖だと思う。
2時間ほどパドルを動かし、がんばって川を遡ってクライブの家の裏手まで戻る。シーカヤックのコクピットに腕をいれて肩で持ち上げるとイヴでも持ち上げられる。ケブラー製のシーカヤックは軽いのだ。
クライブはどこにいるのだろうかと思いつつ納屋に戻ると、製作中のバイダルカの前にいた。美しい木製の骨組みを前に折りたたみ椅子に座り、コーヒーを飲んでいた。
「やあ、おかえり」
「ただいま」
イヴはクライブを背中から抱きしめ、背伸びして軽く頬にキスをする。そしてクライブもキスを返してくれる。自分の人生の中にこんな幸せが訪れていいのか、やはり怖くなった。
「製作は順調?」
「まあ趣味だから。3艇目だけど、まだ考えることがある。奥が深い」
それはきっとイヴが聞いても分からないことだろうと思う。
「海はどうだった?」
「いろいろ考えるにはちょうどいい穏やかさだったわ」
「そう……」
クライブも自分が何を考えているのかくらい分かるに違いなかった。
「ボスからはまだストーカーが捕まっていないと連絡があったの」
「じゃあもう少しはここにいるわけだ」
「ええ……」
イヴはクライブと別れがたく思っている自分に正直になりたいと思う。しかしその先どうやって生活していけばいいのか、想像ができない。想像できないことは怖いことだ。
ランチにジョージの店に行く。すっかりジョージの店にも行き慣れた。あまり考えずにランチを頼む。自分で料理を作るのも楽しいが、プロが作ったものを食べるのもまた楽しいものだ。
少し早い時間に行ったので店内は空いていた。それでも2人はカウンターに席をとり、ランチを頼む。
「そろそろ休暇が終わりなんじゃないの?」
ジョージがカウンターの中から話しかけてきた。
「延長になりそうです」
「それはとてもよかった」
「大金持ちならそれでもいいのですが……」
「なあに。カネなんてなんとかなるものさ」
ジョージは笑う。そういう人を多く見てきたのかもしれない。
いつものランチを食べた後、お勘定を済ませるときにジョージがクライブに言った。
「そうだ。またあいつが来ていたんだ」
「あいつ?」
「オレの勘にピンときた奴」
ジョージが前に言っていた不審者だということはイヴにも理解できた。
「……ありがとう」
険しい顔でクライブは応え、店を後にする。なんとなくだが、知っているクライブではなく、弁護士のサイラスの顔のようにイヴには思われた。
家の前まで戻ると道路に面した側の窓ガラスが1枚割られていた。防寒対策で頑丈な2重ガラスが使われているので割れたのは外の1枚目だけで、テラスにゴルフボールほどの大きさの石が落ちていた。
「クライブ……」
「……わかりやすい」
クライブは小さな声でいうと、スマホを取り出して何やら見始めた。イヴは彼のスマホをのぞき込み、玄関前の映像だとわかり、庇の下に目を向けると小さな防犯カメラがあることに気付いた。
「こんなの付けていたんですか」
「オモチャだけどね。1週間分しか記録されないし、冬の間は外気温に耐えられない代物さ」
スマホの中に、1台のピックアップトラックとその運転席から男がパチンコのようなものを構えている映像がはっきり映し出されていた。男は帽子を被り、サングラスをかけていたので人相は分からない。
イヴは震えた。自分の意思ではどうにもならないくらいの震えだった。これは恐怖からくる震えだった。
クライブはスマホをしまうとイヴの肩を優しく抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だから」
「うん……うん」
そう応えても震えは止まらなかった。
単なる悪戯とは到底思えない。ストーカーが自分を追いかけてこんなところまできたのだろうか。それとも本人ではなく、ストーカーに依頼されてやったのだろうか。全く分からないだけに恐ろしかった。
クライブは保安官に連絡を取り、被害届を提出した。あまり犯罪のないクリークタウンで起きた悪戯だ。ピックアップトラックだけは特定できそうだということで照会をかけてくれることになった。
イヴはクライブに肩を抱かれ、母屋に入った。そしてテーブルの席に座らされ、ミルクティーを出され、一口飲んで初めて少し落ち着いた。
「……ごめんなさい」
「君が謝ることは何一つない」
クライブは強い語調で言った。
「でも、拳銃は肌身離さずにいた方がいい」
イヴは俯き、コクコクと頷いた。
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