初めてシーカヤックに乗る-5
結局、読書をすると彼に言ったものの一行も読むことなく寝落ちしてしまった。しかし睡眠を十二分にとれたお陰で身体が軽くなったイヴである。
そしていろいろ考えてしまう。まず玄関の扉が閉まっている。タオルケットもかかっている。ベッドサイドのテーブルにお菓子の袋とメモが置かれている。クライブが様子を見に来たことは疑いようがない。時計を見るともう午後1時を回っている。メモには『ゆっくり寝るように』と『野生動物が入ってくるかもしれないので扉は閉めておくように』とあった。また『お互いに不幸だからね』とも書き添えられていた。
彼に迷惑を掛けてしまっているなと思いつつ、イヴは急いで母屋に向かう。
クライブは母屋のテーブルで図面を広げ、あれこれ検討している様子だった。
「眠り姫の遅いお目覚めだ」
「100年くらい寝ていた気分ですわ!」
「それは重畳」
「とても元気です」
「睡眠負債をだいぶ返せたみたいだね」
「すぐには返済を終えられせんが、徐々に解消されるはずです」
「僕も君が元気になってくれて嬉しいよ」
そう言うとクライブは席を立ち、薪オーブンの上でぐつぐつと音を立てている鍋の中にパスタを投入する。
「10分後にはランチだ」
「……待っていてくださらなくても良かったのに」
「僕が一緒に食べたかっただけ、というのは迷惑?」
イヴは大きく首を横に振った。
「1人より2人で食べた方がずっと美味しいですもの」
「僕もそう感じるのさ」
クライブは笑顔で答えた。
彼がいうとおり10分もかからずにパスタはできあがった。オイルサーディンのパスタ。シンプルだけど味わい深い。そして家庭菜園で採れた野菜のサラダ。十二分に幸せなランチだ。
ランチが終わるとイヴはクライブに言った。
「もしよろしければ私をシーカヤックに乗せてくださいませんか?」
それはクライブが誘ってくれているのに体験しないのは失礼だと考えての申し出だった。
「本当に疲れはとれた?」
「少し疲れればまた気持ちよく眠れますから」
「眠るの好きなんだね」
「どうもそうらしいですよ」
イヴ自身、自分を意外に思う。こんなに気持ちよく眠れるのであれば、ずっとベッドの上にいたいと思うくらいだ。
「ああそうだった。忘れないうちに。お料理の本とかあります?」
「僕がここで暮らし始めたときにアウトドア料理の本を買ったのと、あとご家庭用雑誌にレシピがいっぱい載ってる」
「そういうの、そういうのです。貸してくださいません?」
「あとで持っていくよ」
「ありがとうございます」
「もし本当にシーカヤックに乗るのなら、コットンの服は乾きやすい化繊に着替えてほしいかな」
今、着ている中ではロングTシャツがコットンだ。
「わかりました」
「河口域までいって帰ってくるだけだよ。そんなに気負わないで」
クライブは穏やかな口調でそう言うと奥の部屋に消えていった。おそらく料理の本を探しに行ってくれたのだろう。イヴがコテージに戻り、着替え終わったタイミングで、山のような本と雑誌を抱えてクライブが来た。彼はテーブルの上に本と雑誌を置くと言った。
「眺めるだけでもいいと思うよ」
「眺めるだけにならないようにします」
彼が最初に買ったというアウトドア料理の本だけは目を通そうと思う。
クライブが濡れてもいいパドリング用の靴を貸してくれ、履き替えて、納屋から2人用のシーカヤックを川辺まで持っていく。川辺には水たまりが数ヵ所できていて、その水たまりにシーカヤックを浮かべた。
そしてまた納屋に戻り、ライフジャケットを装着し、ダブルパドルを手にシーカヤックのところに戻る。ライフジャケットを着るのもダブルパドルを手にするのも生まれて初めての体験だ。ダブルパドルが平行についておらず、捻られていることももちろん初めて知った。パドルを水面に挿して推進力を得て、逆側を挿すとき、無駄に手首を捻らずに済むからのようだ。ダブルパドルの使い方を教わり、イヴはゼロから勉強することの新鮮さを思い出す。この歳でも初めてのことだらけなのだ。
そしてクライブがシーカヤックを押さえ、その間にイヴは前のコクピットに滑り込むようにして座る。座席もFRPなので固い。乗り心地はいいとは言えないが、漕ぐときに安定させるためにはクッション性は邪魔なのだろう。
次にクライブがダブルパドルで地面を押さえ、そのシャフトをシーカヤックに押しつけて艇を安定させて、後ろのコクピットに座る。こういうテクニックらしい。
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