【02】新たな視線
調査初日。
まずは手術の妥当性、そして病院内で医療安全に携わる部署として──
神谷は篠田葵と共に、医療安全管理室へと向かった。
「係長、こうして呼び方が変わるだけで、仕事が倍に増えた気がするんですけど……気のせいですか?」
「気のせいだ。安心しろ」
「ですよねー。でも、そう言いながら何であんなに机の上が資料で溢れかえってるんですか?」
神谷は苦笑を浮かべたが、その目は張り詰めていた。
篠田は、その視線の奥にある何かに気づき、言葉を飲み込んだ。
(……こんな顔、見たことない)
今回の調査の出発点は、“病理結果が提出されたかどうか”という一点の確認だった。
電子カルテには反映されていない──だが、印刷ログは存在している。
つまり、紙で渡された可能性がある。
病理室のスタッフは「報告は済ませた」と主張している。
もしそれが事実なら、“なかった”のではなく、“無視された”ことになる。
「……病理の報告って、手渡しで済ませるケースって今もあるのか?」
「あるみたいですよ。とくに主治医の先生が『紙でちょうだい』って言ってくる場合は、まだ普通に」
「そうか。となると──」
神谷は思考を切り替え、管理室へと足を向けた。
◇
管理室の応接スペースは、壁際に観葉植物が並び、明るすぎないダウンライトが控えめに照らしている。
テーブルの天板はすべすべとした白木で、書類の端がきっちり揃えて置かれていた。
隣のガラスキャビネットには過去の事故報告書が無言で並び、空気には消毒液のような微かなアルコール臭が漂っている。
「お忙しいところ失礼します。情報システム課の神谷です」
そんな空間の奥、男性職員がすっと立ち上がって一礼した。
三十手前。ストライプのシャツにグレーのジャケット。
整った所作、無駄のない視線の運び。
眼鏡の奥の目は冷静で、だがその輪郭には“こちら側には入れない”とでも言いたげな境界があった。
「
羽田さんの件ですね。こちらでも初期調査は把握しています」
言葉には揺らぎがなかった。
だが、その整いすぎた口調が、神谷には仮面のように映った。
藤村はファイルを開き、紙資料を差し出す。
「電子カルテに病理所見がなく、結果の遅延によって手術が先行した──という理解です」
「ええ。ただ、印刷ログは残っている。
つまり、“結果がなかった”わけではない可能性がある」
藤村は目を伏せ、ファイルを閉じかけながら言った。
「我々は“可能性”では動けません。
事故として成立するのは、あくまで“記録された事実”だけです」
「……じゃあ、もし受け取ってたのに、カルテに記録してなかったら?」
「それは主治医の判断による領域です。
我々がそこに踏み込むと、“治療方針への介入”と見なされる恐れがあります」
言葉は丁寧だった。だが──
その実、冷たい責任回避の鋼でコーティングされていた。
「介入する気はありません。ただ──
“届いていたのに、届いていないことにされた”なら、それは事故じゃなく“隠蔽”です」
藤村の手が止まった。
その眉がわずかに寄る。ほんの、瞬きほどの間。
だが次の瞬間、その表情はすぐに冷静に戻っていた。
「……そのご意見、係長としての“公式な判断”……捉えて、よろしいですか?」
「……」
「情報システム課の人間が、感情的な推測で言葉を発するとは思いたくないので」
柔らかく放たれたその一言は、冷徹な刃だった。
神谷は視線を落とし、ファイルを静かに閉じた。
「記録がすべて、ですか」
口にした言葉が、自分の中にあった感情をひとつずつ削っていくような気がした。
「はい。事故調査の原則です。
感情ではなく、記録された事実でしか、我々は動けません」
──その正論は、神谷の胸に痛みすら与えなかった。
あまりにも無機質で、どこも血が通っていなかったからだ。
たった一行。
所見の、その一行が記録に残っていれば──
羽田結菜は、鏡を見るたびに泣かなかったかもしれない。
失われた身体に、誰かの“判断”ではなく、ただ“説明”があれば──
少なくとも、自分の身体を「傷つけられた」と思わずに済んだかもしれない。
カルテがなかったのではない。
“なかったことにされた”のだ。
──なら、掘り起こすしかない。
それはもう、ただの調査ではなかった。
記録から零れ落ちた誰かの人生を、“再び記録に取り戻す”行為なのだ。
◇
管理室を出たあと、篠田がぽつりとつぶやいた。
「……論理で守る人なんですね、藤村さん。
正しいけど、なんか、“人間”がいなかった感じで……」
神谷は答えなかった。
だがその背中には、どこか“決定的な何か”が刻まれているように見えた。
篠田は、その背を見つめたまま立ち止まる。
神谷の歩幅に、一瞬だけ遅れた自分の足音。
その音が、やけに遠く感じられた。
──私は、彼の足音に、まだ追いついていない。
それだけのことが、どうしてこんなに息苦しいのか。
言葉は浮かばなかった。
でも、きっと──そういう記憶の積み重ねが、“記録”なんだと、ふと思った。
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