日陰のこどもたち
花岡 紫苑
shade
ふと気がつくと、私は見知らぬ部屋の居間に佇んでいた。
大人数での会話の輪の中で、耳でだけ会話を聞きながらぼうっとしていたような、そんな中途の感覚であった。
目の前には、年季の入った木の椅子に腰掛けて、こちらに向かって笑いかけながら話している老婆が座っていた。グレーの短い髪を綺麗にセットし、黒地に細かい何かの柄が入ったお洒落な着物を着て、少々派手なほどのメイクをした、力強くもどこか品のある感じの老婆であった。老婆が座る椅子のすぐ前には、同じく年季の入った木の長テーブルがあり、それを囲むように、老婆のほかにもざっと10人ほどの老若男女が座っていた。会話をする者たちもいれば、着物の老婆の肩越しにこちらを見て、親しげに笑いかけてくる者もいた。
全員、知らない人々であった。猛スピードで記憶を遡ってみたが、親戚にも、学校や職場にも、これまで関わったどのコミュニティの中にも、思い当たる顔がない。しかしなぜか、彼女らの近くに佇んでいる時間は、不思議とほっとする心地がした。外は晴れているのか、窓から差し込む穏やかな陽光が、和やかにテーブルを包んでいる。
老婆の声は聞こえなかった。
再びふと気がつくと、私は坂道を歩いて下っていた。よく晴れている。風が心地いい。どこかで見たことがあるような、知らないような坂道を、ゆったりと穏やかに歩いていた。道には緑が溢れ、色とりどりの花が咲き、小鳥が小さく鳴きながら飛んでいった。高い木々の向こうには薄緑色のフェンスが立ち並び、時々そこにぶつかる野球のボールで、この向こうには学校があるのだと分かる。とても穏やかな時間だった。私の前には母が、後ろには父がいて、私たちは3人並んで歩いていた。横の車道をときどき自動車が走っていく。そこにいる誰もが穏やかな顔をしていた。
私はふと右を見た。5月の青々と生い茂る緑の日陰の中に、男の子がいた。小学1、2年生くらいだろうか。白地にカラフルなボーダーの入ったポロシャツに、黄土色の短パンを履いていた。虫でも捕っているのだろうか。奇妙なことに、その子の顔は影がかかったように、真っ黒で何も見えなかった。日陰とはいえ、木漏れ日で体や服の色、柄まではっきり見えるのだから、単なる光の加減ではないのだろう。その子はこちらなど気にせず、黙々と茂みの中で何かを見ていた。何かを探しているのか、どこを見ているのか、頭の角度以外ではまるで何もわからない。私はそれを特段驚きもせずに見やっていた。
よく見てみれば、顔の見えないこどもはほかにもたくさんいた。全員小学生くらいの背丈で、男の子も女の子もいた。みんな、不思議なことに日陰にいた。木々の間にしゃがみ込む子も、道端にぼうっと佇んでいる子も、木に登り枝に腰掛けている子も、全員が顔の見えないこどもたちであった。私はそれらを眺めて、「ああ、見なければ気がつかないだけで、この子達はどこにでもいるのだわ」、なんて考えていた。
そうしているうちに、光が当たるギリギリの淵くらいの、これまた日陰の部分に、私たちが歩く道には背を向けて、紫と白の花を散りばめた、私には名前のわからない小さな木を食い入るように見つめる女の子のそばを通り過ぎた。女の子は淡い黄色のワンピースを来ていて、すれ違う瞬間、ふんわりとした裾が私の指先に軽く触れた。女の子の顔は向こうを向いていてわからなかったが、私はなんとなく、きっとこの子も顔が見えないのだろうと思った。
前を歩く母も、おそらくうしろを歩く父も、こどもたちのことは気にも留めていない様子だった。一列に並んで歩いたまま、いつも通りのなんでもないような話をして笑っている。母は、「夏になったら海に行きたいね」と言った。
坂道を下り切ると、らくだの背のように、また緩やかな上り坂になっていた。少しずつ、太陽が暑くなってきた。坂の先を見上げると、アスファルトからゆらゆらと蜃気楼が立ち上っていた。私はふう、と息をついた。その時、坂の向こうから、小さいワゴンのような車が走ってきた。車は私たちのすぐ横の車道を通過していった。その車もひどく奇妙で、ボロボロに錆びついている上に窓ガラスの類は一切なく、本来ガラスがあるべき場所からは数えきれないほどさまざまな種類の花とその蔓が溢れ出していた。すれ違う瞬間、私は運転席を見ようとしたが、強い強い日差しに目が眩んで何も見ることができなかった。
車は音もなく走り去ってしまった。振り返ればもう一度見ることはできたのだろうが、私は別に振り返らなくてもいいや、と思ってしまった。正午になったのだろうか、太陽の光は強く眩しく、目を細めないと前が見えない。私は父と母の会話を頼りにただ歩いた。このまま真ん中にいれば大丈夫だろう、と思っていた。母が前、父がうしろ、真ん中が私。そうやって3人で歩いていればきっと大丈夫だと思った。
ゆっくりと、ゆっくりと、私は坂道を上っていった。
日陰のこどもたち 花岡 紫苑 @cicadaism
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