『短索』
『雪』
『短索』
自動ドアが開き、雨の後特有の湿気を含んだ冷たい風が肌を撫でる。温もりを求めるように、彼の自由な右腕を抱いて腕を組む。彼は一瞬だけこちらを見ると僅かに肩を竦めただけで、すぐに左手のスマホに視線を戻した。
「……この辺、飲み屋しか無いね」
「そりゃそうでしょ、ここら辺一帯ホテル街だもん」
彼の呟くような一言に対し、彼の指に自らの指を絡ませながら、あっけらかんと言い放つ。車一台分ほどの狭い路地を見回せば、電飾で彩られた看板があちらこちらで自己主張を繰り広げている。つい先程まで悪天候だったという事もあり、今は人通りがほとんど無いけれど、一時間も経たない内に賑わい出すだろう。そうなれば、顔見知りに出会す可能性もあり、それは私が望むべき状況では無かった。
「大通りに出て向こう側はショッピングモールとか飲食店街になってるから行くならそっちだね。今から家に帰ってご飯作る気力が先生にあれば、それはそれで私は構わないけど?」
「……はぁ、気力から何まで搾り取って来た癖によく言うよ。今から帰るだけでも億劫だってのにさ」
彼は大げさに溜め息を付き、そう言った。確かに雨宿りという大義名分を使ってホテルに連れ込んだのは私かもしれないが、ちょっとばかり煽ったくらいで乗っかってくる方も同罪ではないだろうか、とも思う。
「ふふふ、冗談だよ。食べたいものもあるし、外食にしよう」
それに彼程では無いにせよ、私自身も疲労が全く無いと言えば嘘になる。彼の腕を抱いたまま、私達は大通りに向けて静かに歩き出した。
飲食店街の外れにある年季の入った町中華屋は立地の割りによく人が入っているように思われる。店内に響く喧騒と熱気が心地良い。
カウンター席に案内された私達はメニューを開き、私は迷う事無くビールを頼む。彼は少しだけ思案した後黒烏龍茶を選び、適当に二人で摘まめるものをいくつか頼んだ。
威勢の良い掛け声と共に店員さんが離れて行ったのを確認してから、カウンターの椅子を少しだけ彼の側に寄せる。
「ねぇ、『私』ってなんだろうね」
ポツリと言葉を零して、視線だけを彼の方へと向けてみる。疲れた表情のままではあったが、彼は油とヤニで滲んだであろう黄ばんだ天井を見詰める視線は鋭い。暫しの沈黙の後、彼は投げやり気味にさあね、と呟いた。
少しムッとして彼に詰め寄ろうとしたが、空気を読まずに飲み物と料理が運ばれてくる。グラス越しにも感じられるキンキンに冷えたビールと、羽根つきの湯気立つ焼き餃子。そして、胡瓜の和え物が彩りを添える。
それらを前にした途端、先程までの怒りはあっという間何処かへと吹き飛んでしまった。軽く乾杯を済ませて、それぞれ飲み物に口を付ける。
喉を通り抜ける炭酸の刺激と、きめ細かい泡の滑らかさ。流し込んだ後に緩やかに鼻先へと抜けてゆく豊潤な麦の香り。絶妙なバランスで成り立つ三位一体の味わいに思わず舌を巻く。
バーでクラシック音楽を聴きながらしっぽりと嗜む洋酒も好きだし、こじんまりとした個室で誰にも邪魔されず、アテと辺りの喧騒を肴にちびちびとやる日本酒も好きだし、自宅で肩肘張らずに浴びるように飲む安酒も勿論好きだが、中華料理屋のビール程に完成されたものは無いだろう、と私は思う。
ジョッキの三分の一ほどを一息で流し込み、胡瓜の和え物と餃子に箸を付ける。
「言っとくけどさっきの、そこそこ真面目な話だからね」
彼から小皿を受け取り、餃子のタレを一回しした後に辣油をタレを塗り潰すような勢いでぶちまける。彼は信じられないような顔で私の小皿を二度見するが、触らぬ神に祟りなし、といった様子で彼は自らの小皿にタレを一回しした。
私はタレに浸した小ぶりな餃子を口にする。パリパリの羽ともちもちの皮が織り成す食感を楽しむのも束の間、旨みがぎっしりと詰まった肉種を一息に噛み切れば、溢れ出る肉汁が一瞬にして口内に充満する。突然熱湯流し込まれたかのような衝撃に、慌ててビールを流し込む事で、どうにか口内の温度を中和させる。
餃子に限らず、温かい料理は熱い内に食べてしまいたいが、そうなるとどうしても火傷の危険が伴う。この辺りは料理を食す上での永遠の課題だなと常々感じている。もう一口だけ冷えたビールを含み、ようやく一息付いた。
ふと視線を感じ、彼の方へと顔を向ける。そこには勝ち誇る様にして、こちらを見下ろす腹立たしい彼の笑顔があった。飛び掛かって滅茶苦茶にしてやりたい衝動を押し殺し、いつか仕返ししてやると胸の内にほの暗い想いを携える。
「……とは言われてもね、アナタの定義も分からないのに答えようが無いな。それともアナタはアナタだって誰でも言えるようなありきたりな答えが欲しいの?」
何か良くないものを感じ取ったのか、彼は咳ばらいをして皮肉混じりにそう呟いた。流石にそこは一番深い付き合いをしているだけはある、と言うべきだろうか。身体目当ての他の男共とは違う。ご機嫌取りの肯定botではなく、私が聞きたい事の本質を理解している。
「先生はさ、それが望んだ形じゃなくったって、小説家としてこの世界に物語を生み出したって実績があるじゃん」
望まずとも他の誰でもない『何か』に成った彼とは同じ思想を持ちながらも、その在り方には雲泥の差があった。
だからこれはきっと、同じ『不幸』を抱きながら、世界に爪痕を残す事が出来るであろう彼に対する私のみっともない僻みだ。
「私にはさ、何にも無いんだよ」
かつて学業に挫折し、かと言ってそれを諦めて定職に付く事は無く、何処かで死にたいなと願っているものの、自殺を図れるほどの気力や根性がある訳でも無い。
それでもこの心臓が動いているだけでお腹は空くし、お腹を満たせば別の欲も沸いて出てくる。この社会では何をするにしても、その対価としてお金が要求される。
故に、私が選んだ生き方は誰かに寄生する事だった。一時の優越感と快楽を引き換えに、私は彼らの社会的地位を借り受ける。
だがそれは問題の先延ばしに過ぎず、今という時間を無に帰しているだけ。ならば、私は一体なんの為に生きているんだろうか。
「この世界にとって私は居ても居なくても変わらないんだって、なんかそんな風に感じるだよね」
我ながら女々しいね、と乾いた笑いを浮かべて再び餃子へと箸を伸ばす。
「世界に対する存在証明……いや、存在意義が欲しいってこと? なんだか意外だね。そういう事は考えないタイプだと思っていたけれど」
「んー? まぁ、たまにはそういう事も考えたくなるんだよね」
近くを通りかかった、店員さんを呼び止めてビールと餃子のお代わり、それから唐揚げと焼飯も追加で頼む。
彼の方を一瞥すると、胡瓜の和え物を齧りながら虚空を見詰めていた。ポリポリと歯切れのいい音を響かせながら、咀嚼した物を嚥下する。
「……自分が何者かなんて、自分ではきっと分からないものだと思う。存在証明だってそうだ、そもそもの問題として自分達が間違いなく存在して居るだなんて誰がどうやって証明するんだって話でしょ?」
黒烏龍茶で唇を濡らし、彼は自らに言い聞かせるように言う。
「別にアナタが誰かである必要は無いと思うし、この世界で何が出来るのかも結局、自身が居なくなった後に漸く分かるんじゃない? それに、例え何かを生み出せたとして、それが何の意味を持つかなんて、自分で決める事は出来やしないよ」
ピシャリ、と告げられた言葉の数々に思わず表情が強張った。僅かな沈黙が辺りを支配する。言葉を紡ごうとした刹那、再び空気を読まず、注文した料理が次々とカウンターに並べられた。
「……まあ、なんだろうね。理由や意義なんて自分が納得出来るならそれで良いんじゃないの?」
「先生はそういう事は考えたりしないの? 何の為に生きてるのかー、とかさ」
「考えない訳じゃないよ、でも結局それが正解かなんて誰にも分かりはしない。だったら好きに解釈した方が良いんじゃないって思うだけで」
彼は追加された餃子に箸を伸ばす。私はすかさずに彼の方に自らの辣油入りの餃子タレ、もとい餃子タレ入りの辣油と化したものを差し出した。信じられないものでも見るように、タレを見詰めていたが、渋々といった様子で餃子に絡ませて口に運ぶ。案の定、盛大に噎せた後に、私がそうしたように黒烏龍茶で餃子を流し込んだ。
先程の件の意趣返しに今度は私が勝ち誇った笑みを浮かべ、彼の方へと視線を向ける。彼は恨みがましい顔で睨むが、何処吹く風で受け流した。すぐに埒が明かないと判断したのか、咳払いを一つして彼は言葉を紡ぐ。
「……それに色んな考えの人がいるのに、答えが一つってのも味気無いしね」
ジョッキの半分近い黒烏龍茶を消費して漸く落ち着いたらしく、付け加えるように彼はぼそりと呟いた。
「言わんとしてる事はわかるけど、今の先生に説得力無いね」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、私は焼飯に蓮華を差し込む。ドーム状に盛り付けられた焼飯はパラパラと崩れ、そのまま口へと運ぶ。
ほっといてよ、と少し声を荒げる彼にも焼飯を掬って与える。しぶしぶと言った様子で彼は焼飯を口に含んだ。
相変わらず、私には『私』というものが何なのか、分かりそうになかった。けれど、今はまだそれで良いんじゃないかと少しだけ思えるのであった。
『短索』 『雪』 @snow_03
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