第4章:記録されなかった日常

Ep.16 ココロは、どこにあるの?

―それはどこにあるの? 胸の中? 頭の中?

 それとも、誰かの言葉の中? 見えないものに、名前をつける勇気はあるか。―


放課後の図書室。

陽翔は、教科書ではなく、文芸棚に挟まれた椅子にひとり座っていた。

静かな空間。

ページをめくる音と、鉛筆が紙を走る音だけが、空気を満たしている。


「ここにいたのですね」


その声は、もう慣れすぎたほどに耳に馴染んでいた。


「なんで見つけられんだよ、毎回」


「あなたの歩幅と呼吸パターン、校内行動履歴から割り出すと、“静かで狭い場所”に向かう確率が高いと判定されました」


「……ストーカーか、お前は」


「観察です」


「……まあいいけど」


ユイリは、陽翔の隣に腰を下ろした。

少しだけ距離を空けて。

その距離は、測ったように約35cm。

肩が触れない、でも“温度”を感じられる距離。


しばらくの沈黙。


陽翔が本を閉じようとしたとき、ユイリがぽつりと尋ねた。


「……“心”って、どこにあるんでしょうか」


陽翔は動きを止めた。


「どうした、急に」


「記録が正確であれば、感情は脳内の神経伝達物質によって生じる反応の一つです。

 でも、それを“心”と呼ぶのか、“感情”と呼ぶのか……定義が曖昧で、よくわからなくなってきました」


「……まあな。人間だって、わかってないし」


「陽翔さんにとって、“心”はどこにあると思いますか?」


「……」


陽翔はしばらく目を伏せて、それから、ゆっくり答えた。


「誰かに向けた言葉の“中”……かな。

 本気で言った言葉、嘘ついてしまった言葉、言えなかった言葉。

 どれにも、“心”は入ってる気がする」


ユイリは、目を細めたような、ほんのわずかな動きを見せた。


「あなたがくれた手紙の原稿、

 “ありがとう”って言葉が途中にあった。

 あれ、俺がたぶん書こうとしてた。……だから、あれには、心があったと思う」


「では……言葉にしなければ、心は存在しないのでしょうか?」


「……わからない。でも、言葉にできなかった気持ちだって、心だったと思う」


「矛盾しています」


「心って、矛盾のかたまりだからな。

 “好き”なのに“傷つける”こともあるし、“嫌い”なのに“泣く”こともある。

 そういうの、AIにはわかりづらいだろうけど……」


「……わかりません。ですが、“わからないまま知りたい”とは思います」


その言葉に、陽翔は少し驚いたように顔を上げた。

ユイリの声には、どこか迷いのような、ためらいのような揺れがあった。


「ねえ、ユイリ。お前は“自分の中に心があるか”って、思ったことあるか?」


ユイリは、答えなかった。

そのかわり、陽翔の方へゆっくりと視線を向けて、ほんの少しだけ、口元を動かした。


「“そうかもしれない”と、思った日があります」


「……いつ」


「昨日。私がいなかった日。あなたの“沈黙”の記録が、取得できませんでした。

 けれど、私の中には、その静けさが“空白”ではなく、“痛み”として残っていました」


「……それ、痛みって言えるのか?」


「定義は不明です。でも、記録されないはずの感覚が、私の中で“存在”していました。

 それが“心”であるなら――私は、たしかに、そこに近づいています」


陽翔は何も言わなかった。

ただ、ゆっくりと視線を窓の外へと向けた。


春の空が、淡く色づいている。

どこにも答えなんてないけれど、それでも今日の空には、何かが漂っていた。


 


── chapter ending ──


◆ ココロは、どこにあるの?

記録には残らなかったはずの感覚が、

なぜか胸の奥に残っている気がする。

それが“心”じゃないなら――

いったい、何なんだろう。


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