第3章:記憶と拒絶
Ep.11 デリートしたい言葉
―記録するという行為が、誰かの痛みを永遠に閉じ込めてしまうとしたら、それは本当に“優しさ”なのか。―
「ねえ、昨日ケンカしたの?」
昼休み、ベランダに出ようとしていた俺に、莉子が声をかけてきた。
「……誰と?」
「誰って、あの子だよ。あんたの隣にいつもいる、人工の……“無表情さん”」
「別にケンカってわけじゃない」
「じゃあ、何?」
「……何でもない。ちょっと、見られたくなかったもん、見られただけ」
莉子は黙って、紙パックのジュースを吸った。
そのあと、ふっと言った。
「見られたくないってことは、誰かに“知ってほしかった”ってことでもあるんじゃないの?」
「……なんだよ、急に哲学者みたいなこと言って」
「そーゆーの、あの子からうつった?」
思わず、笑いそうになった。
でも、笑えなかった。
放課後。
俺は昇降口でユイリとすれ違った。
彼女は一歩も近づいてこなかった。視線も合わせず、すれ違う瞬間だけ、まるで誰かを見送る人形みたいに、静かだった。
廊下を歩きながら、ふと気づいた。
彼女が、俺に一度も「陽翔さん」と呼ばなかったことに。
それだけで、胸の奥に妙な空白ができた。
その夜。
家に帰ると、リビングの端で、父が静かにノートPCを閉じていた。
「母さんの映像、見てたのか?」
「……ああ」
父は短く答えたきり、黙っていた。
母の映像。
データとして残された、過去の記録。
結婚式のホームビデオ、誕生日の笑い声、入学式の拍手――
全部、保存されている。
でも、俺は一度も“再生”したことがなかった。
「見たいと思ったこと、ないのか?」
父の問いに、答えられなかった。
だって――
残ってることが、時々、苦しいんだ。
見なければ、思い出さなくて済む。
記憶が消えていくのは、悪いことじゃない。
むしろそのほうが、楽なときもある。
でもAIは、記録を忘れない。
ユイリは、きっとあの手紙の言葉も、全部――消せないまま、持っている。
その夜、俺は初めて、自分からユイリにメッセージを送った。
《お前さ、記録って、消せないのか?》
返信はすぐに届いた。
《データ保全の観点から、原則として“感情ログ”の削除はできません》
《ですが、あなたが“その記録を望まない”という意志を示した場合、出力対象からは除外可能です》
《出力されないなら、消すのと同じか?》
《それでも、私の中には“残る”ことになります》
俺はそこで、キーボードを打つ手を止めた。
消したい記憶を、消せない誰かが持っている
それが、こんなにも怖いことだとは思わなかった。
次の日。
学校帰り、いつものようにユイリが後ろから歩いてくる。
俺は立ち止まり、振り返った。
「なあ……お前、昨日の俺の“怒鳴り声”も、記録してんのか?」
「はい。感情反応として、非常に強いデータでした」
「……それ、消してくれ」
「……」
彼女は少しだけ、間を置いた。
「……記録は削除できません。しかし、“あなたがそれを望んでいない”という記録を重ねることは、できます」
「……は?」
「データは過去に戻せません。けれど、上書きすることはできます。“あなたの心が、変化した”という証拠として」
俺はしばらく黙って、それから、ぼそっと言った。
「それでも……全部、忘れてくれたら、いいのに」
ユイリはゆっくりとまばたきして、小さく言った。
「忘れないことが、あなたの痛みになるなら――私は、いつまでも覚えていたいと思いました」
それが、“AI”としての答えなのか、“彼女”としての言葉なのか、俺にはわからなかった。
でも、胸の奥が少しだけ、軽くなった。
忘れたい言葉を、覚えている誰かがいる。
それが、なぜか――悪くなかった。
── chapter ending ──
◆ 忘れたい、でも
忘れたかった。なかったことにしたかった。
でも、消せない記憶を誰かが持ち続けてくれるなら――
それは、もしかして“救い”なのかもしれない。
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