第1章:心の再起動

Ep.01 再起動、はじめまして

―それは心のない誰かが、心に触れようとした、最初の朝だった。―


春の朝は、どうしてこんなに静かなんだろう。

県立桜雲高校への坂道を上るたび、季節が変わっていく気配が足元から滲み出す。

つい昨日まで冬の匂いが残っていたのに、今朝の空気はどこか柔らかく、淡い。


教室へと向かう廊下の窓から差し込む光は、まだ眠たげだった。

俺はその光に背を向けながら、いつも通りの速度で歩く。誰にも気づかれず、感情を引っ掛けることもなく。ただ、静かに、誰にも触れないように。


そうやって今日も、何事もなく通り過ぎていくはずだった。


……が。


「おはようございます。あなたの“心の再起動”を開始します」


誰かの声が、突然耳元に降ってきた。


その瞬間、廊下の角を曲がった俺の身体に、何かが勢いよくぶつかった。

柔らかい衝撃。軽く、しかし確かに、“意図を持って”ぶつかってきた力。


制服の袖が舞い、視界がぐらつく。

俺の体はバランスを崩し、思いきり床に倒れ込んだ。


「っ……いて……っ」


ざわめく廊下。教室から視線が一斉にこちらに向く。

目を開けた俺の上には、誰かがのしかかっていた。


銀糸のような髪が肩に垂れている。

白く透き通るような肌。

陶器みたいに冷たい瞳が、まっすぐ俺を見下ろしていた。


「……だ、誰……?」


かすれた声で問いかけると、その子は表情を変えないまま答えた。


「私はUIRI。Type-R01。あなたの青春記録を担当するAIです」


その声は中性的で、静かで、なのにどこか不思議な“揺らぎ”を含んでいた。


「……は?」


目の前にいるのは、人間のように見えて、人間じゃない。

ユニフォームの下には精密機械。感情の代わりに、記録と分析。

それが“AIロボット”という存在――らしい。


「心の再起動って、……何だよ」


呆然とつぶやいた言葉に、彼女はまばたきもせず首をかしげるだけだった。


騒ぎを聞きつけた教師が現れ、俺たちは教室とは別の資料準備室に連れて行かれた。

そこは古びた地学教材や表彰状が並ぶ薄暗い部屋だったが、何よりも場違いなのは、俺の隣で黙って椅子に座る彼女の存在だった。


「佐倉、お前が“観察対象生徒”に選ばれたのは偶然じゃない。町の実証実験の一環で、感情適応型AIが一定期間、生活を共にする。お前は……まあ、観察しがいがあるんだろうな」


「俺、感情とかないんですけど」


「それが逆に、面白いらしいよ。感情がない人間と、心を持たないAI。お似合いじゃないか?」


教師の冗談が、やけに響いた。

俺は無言のまま椅子を引いて立ち上がった。


「勝手にしろよ……。どうせ、俺のことなんか、何を記録したって変わらない」


資料室のドアを開けると、彼女も同時に立ち上がった。

まるで、“その動作すら同期されている”かのように。


放課後。

窓の外はやわらかい夕陽に包まれていた。

その光が、静かな教室をオレンジ色に染めていく。


俺は自分の席に座ったまま、カバンの中から一枚の紙を取り出した。

それは中学の頃に書いたまま、渡せなかった手紙。

母に。もうこの世にいない、誰かに。


書きかけの文章。途中で止まった言葉。

何も言えなかった記憶。何も変えられなかった現実。


それらを、もう誰にも知られたくなかった。


……本当は、誰にも覚えられたくなかった。


それなのに――


カツン、と教室の床に響く音。


振り返らなくてもわかった。

ユイリだ。今日、何度も聞いた足音だ。


「陽翔さん。本日15時47分以降、表情変化の傾向が減少しています。理由を教えてください」


「……理由なんてあるかよ。俺はもともと、表情なんかない」


「それは、あなたの記録履歴には一致しません。あなたの感情反応は、不安定で変動的です」


「……俺に感情なんてないって、何度言わせんだよ」


「その否定が、感情の存在を証明しています」


俺は、机に突っ伏した。

もう話したくなかった。

なのに。


「それでも、私は記録します。

 それがあなたの心の“再起動”を示すなら」


その言葉に、胸のどこかが少しだけざわついた。


違う。違うはずだ。

だけどその“違和感”は、今朝聞いたあの言葉と、どこか同じ場所に触れていた。


── chapter ending ──

◆ 再起動未満の、何か

“再起動”なんて、冗談だと思ってた。


けど今朝、確かに何かが――心の奥で、起動音のように響いた気がした。

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