午前一時の三面鏡

ぐらたんのすけ

午前一時の三面鏡

 私は自分の瞳を見た事がない。屁理屈のように聞こえるかもしれないが、鏡に映った私の瞳は、自分のモノでないような気がしてならないのだ。


 洗面台にある、三面鏡を見ていた。左右中央の鏡がいっせいに私を見つめている。やつれた頬、見窄らしい隈。ボサボサの髪に汚れたそばかす。鏡に映る私の顔面は醜悪としか言いようがない。


 ただ、私の顔面の中で、瞳だけは潤みを持ってきらめいていた。涙の膜が薄く眼球を包み込み、軽く充血した白目が熱を持つ姿が美しく見えた。ぐちゃぐちゃの土壌に、水晶玉が二つ、陽の光を乱反射して輝いているようで。それはまるで、壊れた人形の瞳だけを新品に入れ替えたような違和感。私はボロボロになった人形なのかもしれない。はたまた、まだ瞳に色を入れられていない作りかけの人形か。


 冷水で顔を洗う。指先がキンと冷えて痺れる。段々と感覚がなくなっていく。やがて、自分の指先と冷水の境目が分からなくなっていく。その得体の知れない、漠然とした不快感が恐ろしくなって思わず口を押さえた。触れた頬の体温を指先が奪っていく。私は空っぽだ。スカスカで、無機質で、金属のように冷たく卵のように脆い。


 ふといい匂いがして顔を上げた。私を励ますように、開けた窓から桜の香りを纏った風が流れてくる。春先の暖かい空気が冷え切った私を包む。甘い風に思わず笑みが溢れて、風が吹き込んでくるドアまで近づくと、どこか遠くから子供の甲高い声も聞こえてくる。それと、小鳥の囀り。


 優しい空気に包まれていると体の芯から温められる。人間らしさを取り戻せる気がした。だから私は今すぐに外へ出なければならない。そう思った。牢獄のようなこの部屋から抜け出して、陽を浴びて、澄んだ空気を肺の奥底まで届けなければならないのだ。このままだといつかきっと、化石のように全身が固まってもう戻れなくなる。もっと、もっと温めて欲しい。体を、心を、私にもっと深く強く熱を。春。春はいい季節だ。外に出るなら、春にしようと前から決めていた。その日は今日じゃないのか。もう部屋に引き篭もって随分と経つ。何ヶ月、何年だろう。いや、今はそんなことどうでもいいのだ。そう、今こそ。


 意識せず窓から体を乗り出す。新鮮な空気が全身にぶつかる。青い空が見える。言葉にできない爽快感が足先から痺れのように全身を走る。刹那、全身を痛みが襲う。カッと照り付ける太陽光が、全身をぐちゃぐちゃに刺す。痛い。痛い、と思った瞬間にはもう、私はその場にしゃがみ込んでいた。光が肌を刺すようで、呼吸が浅くなる。外に出たいと願ったはずの私の身体は、あまりにも外の世界に不向きだった。張りつめたような空気の中で、ただ俯いて、冷たい地面を指先で掴む。指先が白く染まる。布団まで何とか這い、隠れるように潜る。このまま二度と目が覚めず無意識の中で死んでしまえたらどれだけ楽だろうか。そんな甘い考えがシャボンのように浮かぶ。


 どれくらいの時間が経ったかは分からない。汗はとうに乾いて、産毛が肌に張り付いて気持ちが悪かった。

 外には外灯の火がぽつりぽつりと、静寂の中揺れていた。


 私は重たい体を引きずるように起こし玄関へと向かうと、冷たいドアノブに手をかけた。


 靴底がアスファルトを擦る音だけが、夜の空気に微かに響く。まるで世界に私しかいないような静けさだった。どこかで猫の鳴く声がして、ふと立ち止まる。けれど、その音もすぐに遠ざかり、また無音が戻ってくる。


 公園は思ったよりもすぐ近くにあった。昼間は子供たちの声が絶えないこの場所も、夜になると別人のように沈黙し、誰にも使われない遊具たちが月明かりに照らされていた。


 私は門をくぐり、ゆっくりと中に入っていく。滑り台、鉄棒、砂場、夜空の瞬き。すべてが息を潜めてこちらを見ているようだった。

 そのとき、風が吹いた。ざわ、と公園の木々が揺れ、ブランコの鎖がきぃと軋む音を立てた。


 誰かがいる。

 直感だった。明らかに、何者かの存在が、公園の奥にあるブランコで揺れている。誰かが座っているのだ。


 足音を立てぬよう、私はその方向へ向かった。夜露に濡れた芝生が靴に絡まり、冷たさが足首を伝う。近づくほどに、ブランコの揺れは確かなものとなり、やがてその輪郭が見えてくる。


 ──ブランコに座っていたのは、一人の老女だった。


 薄いグレーのカーディガン。白髪混じりの髪を後ろでまとめ、真っ直ぐ前を見つめている。まるで最初からそこにいたかのような、風景に溶け込んだ佇まい。

 私が足を止めると、老女はゆっくりとこちらを振り向いた。皺だらけの顔に、優しげな笑みが浮かぶ。


「こんな夜更けに、ひとりで散歩かい?」


 その声には、どこか懐かしい響きがあった。けれど私は首を横に振り、少し微笑みながら言った。


「……ちょっと、自分探しに」

 

 放浪している理由なんてなくて、つい口をついた冗談。

私は確かにここにいるし、探す必要などさらさらないのだ。

 でも本当にもう一人の自分が存在するのであれば、是非とも目の前に現れてほしかった。ドッペルゲンガーとでもいうのだろうか。

 

 ドッペルゲンガーとすれ違うと死ぬ。その都市伝説を初めて聞いたのは、いつだっただろう。小学生のころ、友達の誰かが話していたのを、なぜかはっきりと覚えている。今、私はその話にすがりたくなっている。それほどまでに、私は壊れかけている。自分で終わりを決める勇気もなく、ただ何かに導かれて、偶然を装って、終わらせたくなっている。


「そうかい。わたしも……眠れなくてね。歳を取ると、夜中に目が覚めてばかりでね」


 老女はそう言って、再び前を向いた。ブランコの揺れはいつの間にか止まり、夜風だけがさらさらと白髪をなびかせている。


 私はなぜか、その隣に座りたいと思った。老女の肩越しに見える夜の空があまりに穏やかで、少しだけ、心が緩んでしまったのかもしれない。


 ぎい、と音を立てて、私は隣のブランコに腰掛ける。座面の冷たさがスカート越しに伝わってきて、背筋がほんの少し伸びた。


 沈黙。風が枝を揺らす音がして、何となくただ、口から言葉が漏れた。


「ドッペルゲンガーって、本当にいると思いますか? 」


 不意に口をついたその問いに、老女はすぐには答えなかった。空を見上げたまま、静かに目を細める。


「さあ、どうだろうね。わたしは見たことがあるような……ないような……。でもね、時々、自分の中にもう一人の自分がいるような気はするよ」

「自分の……中に?」

「そう。たとえば……今日の自分と、明日の自分とじゃ、まるで違う人間みたいに感じる日がある。心がね、すっかり入れ替わってしまったみたいに」


 老女の声は、妙に説得力があった。まるで私が抱いている感覚を、そのまま言語化したような。私は黙って足を前に出し、ほんの少しだけブランコを揺らしてみる。草の香りと夜気が混じり合った空気が、頬を撫でていく。


「じゃあ、そのときのあなたは……明日の自分と今日の自分は、どちらが本物なのでしょうか」


 聞いたあと、自分でぞっとした。まるで、問いかけた相手に答えを期待しているような、甘えのある言葉だった。

 老女は、微笑んでいた。


「両方だよ。どちらも本当。でも、どちらも全部じゃない。たぶんね、本当の“わたし”って、いつも少しずつ、移り変わってるのさ。季節みたいにね」


 その言葉に、何か胸の奥で硬い氷のようなものが、少しだけ緩んだ気がした。私は小さく頷いて、空を見上げる。月が雲の切れ間から顔を覗かせていた。


「……季節、か」

「春の次は、夏が来る。夏が来たって、春がなくなるわけじゃない。ただ、次に進んでいくだけさ」


 そのとき、老女がふとこちらを見た。

 目が合った瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。彼女の瞳に映るきらめきに、息が詰まった。


「あなた、名前は?」


 老女が問いかけた。でも私は、答えなかった。答えられなかった。

 言葉が喉でつかえて、飲み込まれていく。

 代わりに老女が静かに立ち上がった。ゆっくり、私の肩に手を添える。


「今夜は、ここまでにしようか。また、会おうさ。大丈夫、会えるよ。どうせ同じ場所をぐるぐる回っているんだもの。約束さ」


 その手は、意外なほどに温かく、そして脆かった。

 私は目を伏せ、何も言えないまま、ただその背中を見送った。


 老女の背が闇に溶けて見えなくなったあとも、私はしばらくブランコに座っていた。肩に残るぬくもりが、かすかな痕跡のように胸を締めつける。


 公園の時計は、午前一時を少し過ぎていた。

 まだ、会える気がした。誰かに。


 私は立ち上がると、今度は公園の奥へと足を向けた。子供用の遊具が密集する一角。あの場所が妙に気になった。引き寄せられるように足が動く。何かがそこで待っている。そんな予感がした。

 

 ばっと強風が吹き、桜の枝を揺らした。吹雪のように花びらが視界を覆い、それらがみなどこかへ去って行った時、砂場の端に、誰かがしゃがんでいるのが見えた。

 小さな背中。薄いピンク色のパーカーに、膝を抱えるようにして座り込んでいる。肩が小さく震えていた。

 私は、言葉を失った。強烈な既視感に見舞われて、思わず気分が悪くなる。消したかったはずのあの時の記憶が、沸々と脳の裏から湧き上がって止まない。


 でも、いや、そんなはずはない。けれど、なぜだろう。背中の丸め方、肩の細さ、短く切られた髪の跳ね具合。右手首に見える切り傷も、残酷に一致している。


 「……貴方は、何をしてるの?」


 できるだけ穏やかな声で、私は問いかけた。

 少女はすぐにこちらを見た。涙で濡れた頬は少し赤く腫れている。泥のついたスニーカー。目の下に小さな絆創膏。見覚えのある顔。知らないふりをしたかったが、どこまでも知っている。


 「ママが怒ったの」


 ぽつりと少女は言った。


 「……私のせいで、泣いて、怒って。それでパパがたたいたの。ママも、私も、もっと泣いちゃって、止まらなくて……」


 涙がまたひとすじ、少女の頬をつたった。どうしてか、私はその顔に手を伸ばしていた。そっと頬に触れる。温かい。やわらかい。でもその芯はキンと冷え切って凍り付いてしまっている、あの時の熱。


 「あなたのせいじゃないよ」


 思わず口からこぼれた言葉は、思ったよりずっと優しかった。


 「ママは大人だけど、泣くこともある。パパも……大声で怒鳴って暴れたりする。でも、それってあなたのせいじゃない」


 少女は黙って私を見上げた。吸い込まれそうな、涙に濡れた瞳。

 私は彼女の隣に座り、肩を寄せた。


 「今は苦しいかもしれないけど、逃げたいと思っても、それでも生きてるあなたは……偉いよ」


 少女はしばらくの沈黙のあと、小さく頷いた。けれど、目元の不安は消えていない。

 私はそれ以上言葉を選べなかった。ただ、そばにいた。それだけしかできなかった。

 やがて、少女がぽつりとつぶやいた。


 「ねえ、おねえさん。大人になると、楽になれるの? 」


 私はその問いに、すぐに答えることができなかった。

 楽には、ならない。けれど、全部が苦しいわけでもない。嬉しい瞬間も、あった。たしかに、あったはずだ。けれど、それを今の私が伝えるのは、あまりにも残酷すぎた。

 吐き出す言葉は苦しくて、でも、伝えなきゃいけないから。


 「楽になんて、なれない……でも、わたし……今も頑張ってるよ……頑張りたいと、思ってるよ……」


 言い切る前に嗚咽が制御出来なくて、ぽろぽろと涙が溢れて、こんな自分を見せちゃいけないのに。

 ぐるぐると情緒が巡って、体が固まって動けなくて、そんなとき頬に柔らかく温かいものが当たった。

 少女は私の頬に手を触れさせながら、少しだけ笑った。その笑顔に、私は思わず息を呑んだ。

 

 こんなにも小さな顔が、こんなにも重いものを背負って、それでも誰かを慰めようとするなんて。自分がかつてそんな子どもだったことが、信じられなかった。信じたくなかった。私はもっと弱くて、小さくて、儚くて。ぐちゃぐちゃで何も出来ない奴だったと思い込んでいたかった。それを認めてしまえば、もう避けられない。でも、今にも滲んで溶けてしまいそうなその輪郭線を辿れば、確かに私に繋がっていた。


 確かにここに私はいる。

 その存在を、ようやく認めざるを得なくなった。

 向き合うべき存在を、認識しなければならなかった。これ以上瞼を腫らさないよう、袖で涙を拭いた。


「辛くて、苦しくて、死にたくて、消えたくなっても……。貴方は……きっと大丈夫。あなたが大丈夫でいてくれたら、私も大丈夫でいられる。約束する、だから……」


 掠れた声で、私は言った。少女はまた頷いて、小さな声で「うん」とだけ返した。

 ふと、夜風がそよいで、砂場の砂をわずかに巻き上げた。ふたりの間に舞うそれは、さながら記憶のかけらのようだった。


「そろそろ、行かなきゃ」


 少女がそう言って立ち上がる。どこへ、とは言わなかったけれど、彼女の目は真っ直ぐに遠くを見ていた。未来という名の、見えない地平の彼方をじっと見つめていた。

 私は黙って見送った。背中を向けて歩き出した少女は、一度だけ振り返り、小さく手を振った。その仕草を、私は生涯忘れない気がした。


 誰かが、私の心に「大丈夫」と言ったのは、何回目なのだろうか。

 でも今確かに、過去の私へ未来の私が――今の私自身が、言ったのだ。


 私は膝を抱えて、しばらくその場に座り込んだ。頭の中がぐるぐると回っていた。

 あの声、あの眼差し、あの触れ方。

 すべてが、私の中にあったもの。忘れていた記憶の底に、ずっと沈んでいた自分自身。


 未来、過去。そして、次は。


 私は立ち上がった。もう一人、会わなければならない“誰か”がいる。

 その誰かこそが、最も避けてきた存在だった。


 私は、再び歩き出した。


 街灯の灯りがまるで幕が下りた舞台の余白のように、足元を照らしている。さっきまで確かにいた少女の影も、今はもうどこにもいない。ただ湿った風だけが、公園の出口へと背中を押すように吹いていた。


 重い足取りで、私はアパートの玄関をくぐった。部屋の扉を開けると、どこかで聞いたような生活音が、確かにそこにあった。冷蔵庫の唸り、時計の秒針、蛍光灯の淡い点滅音。それらが、まるで他人の暮らしのように無機質に響いている。


 三面鏡は、相も変わらず醜悪だった。

 

「ねえ」


 声をかけたのは、鏡の中の私だった。口の動きと、声の出どころが一致していないように感じる。私の顔をして、私の目をして、けれど微妙に違うその表情に、冷や汗がにじんだ。


「死んじゃおうよ。今すぐさ、ねぇ」


 その声は鋭く、容赦がなかった。鏡の中の私はゆっくりとこちらに手を差し伸べていた。

 その手を取れば、私は。私は、鏡の中の彼女とすれ違って、永久の鏡像として、彼女のそばを切れず離れず付きまとい生きていくのだろうか。それとも、死んでしまうのだろうか。楽に、導かれるように、救われるように死ねるのだろうか。でも、私はその伸びた手のひらを否定することは出来なかった。今の自分には、その選択が完全に不正解だと断言することは出来ない。


 でも、私は。


「何をいまさらって、笑われるかもしれないけど……。約束を守らないといけなくなったから」


 正直な言葉だった。

 それを聞いた鏡の中の「私」は、まるで他人の秘密を知ったかのように、静かに、でも明確に頷いた。


「甘いよね。でも、きっと、まだ終わりたくないんだよ。怖いけど、終わらせたくない気持ちも、どこかにあるんだ」


 私は黙って頷いた。


 自分の、小さく、愚かで傲慢な希望。やっと正面から見つめた気がした。


 鏡の中の彼女は、まだ手を差し出していた。

 でも、私はもうその手に触れようとは思わなかった。そこに答えがあるとは、思えなかったからだ。


 「ありがとう」


 私はもうすれ違わない、自分を殺さない。まっすぐに自分を見つめて優しく抱擁するだけの勇気を、振り絞る準備が出来たのかもしれない。

 

 鏡の中の私は相変わらずボロボロな見た目だったが、表情の曖昧な歪みも、冷たさも、消えていた。

 そこに見える瞳は確かに熱を孕んでいた。色を入れられた竜のように、確かにそこに生きていた。

 満ちている。満ちていく、熱が、世界に耐えうる私の中身が補填されていく。

 余韻が、ゆっくりと静けさに溶けていく。

 冷たい風が、部屋に流れ込む。眠っていた空気が揺れて、埃の粒が微かに舞う。

 桜の花びらが一枚ふわりと部屋に舞い込んで、床に触れた。


 午前一時の三面鏡の中で、ようやく彼女は笑っていた。

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