第20話 スローライフ
「拝啓、突然メールで申し訳ありません。
その後、4チャンネル用のレコード針は何か情報ございませんか?。」
会社のパソコンで注文オーダーを確認していると、何カ月ぶりだろうか、どうやって私のアドレスを探したのか?、いきなりシティ在住の何度かお会いしたオーディオマニアからのメールに驚いた。確か大手音響メーカーにお勤めの紳士だ。
私の姿がシティから消えてしまい、途方に暮れたのだろうが、それ以上にレコード針への執着は強かった証拠だろう。シティからはまだメールは出せないはずだが、彼も勤め先のエリアから私の勤め先を検索し、何度か方々問い合わせもしたのか、ようやく私のアドレスを探し出しての連絡だったのだろう。ひょっとすると彼も二元世界を行き来している「ダブルエントリー」なのかもしれない。
ひとつ自慢でもないがお話ししておきたい。
たかがレコード針、されどレコード針。
私は研究職として、新型の⊿デルタ針の発表に向けて集中していた。通称3チャンネル、左右のスピーカーの下に低音域専用の横長スピーカーを設置し、レコード針自体で左右と低音域を分離してトレースする仕組みだった。それまでに左右のスピーカーと後方2箇所にもう2本設置し、4チャンネルで再生するシステムが再生機も専用のレコードまで発売されていた。それこそシバタ式というレコード針の発明だった。それよりもコンパクトで高音、中音と低音域を分離させて再生させる仕掛けは安価で最低限のスペースでサラウンド体験ができるシステムとして、すでにレコード会社と大手オーディオメーカーと試作品まで進んでいたのだ。すでにオーディオ雑誌でも紹介されていて、うまくすればノグチ針として世に残せたのだ。
シティでお会いした紳士もその記事を読まれていたのだろう。しかし、すべては中止、アナログレコード自体の存続が不可能となったのだった。⊿針、通称3チャンネル。すでにオーディオ業界では話題となりつつあった。実用新案特許まで申請中だった。そして、私は生まれて来るのが5年遅かったと、言われた。ちなみに前出のCD-4、4チャンネルレコードは日本機械学会賞を受賞。当時、東海道新幹線の受賞に次ぐインパクトを持つものであった。そんな事がいつまでも私の心の芯深く残ってしまっていて、正直、思い起こしたくないのだ。それが長年溜め込んでしまっているストレスの原因だからだ。
彼はきっとオーディオ雑誌の以前の記事をご存じなのだ。
その彼とこのシティでお会いできた事。しかも、元の生活に戻ってもコンタクトしようとする姿とは、これからの私の希望でもあり、何よりも2つの次元、どちらにも私が実在している唯一の証明なのではないだろうか?。
これでなんとなく私の正体も知れてしまった気分で、私は正直に今迄の捜索情報について返信した。
このメールの一件のせいか、すっかりシティと距離を置いてしまった生活に入ってすでに半年近く、急に思い立って、私は会社帰り本屋さんに立ち寄ってみることにしたのだ。
東京駅近くの大きな書店だった。
以前から思っていたことだが、「岡文子」女史のエッセイと小説を探してみたのだ。
数冊お借りして読んだ彼女の本は果たして実在の物で、シティ以外でも入手可能なのだろうか?。彼女には失礼だが、シティ以外の元の世の中にも普及しているのだろうか?。そんな疑問が私のどこかに残っていたからだ。
書店で尋ねて、私の疑問は一発で払拭した。
彼女は「和製、ポター」と呼ばれ、「ピーターラビット」で有名なビアトリクス・ポターに感化された自然保護運動家として著名だったのだ。さらに多くの本が出版されているのに驚いた。その中で近年発刊された「気ままなスローライフ」というタイトルの挿し絵入りエッセイを見つけた。
これは飼い猫の目から眺めた日常生活。
「ミイ」という尾の長い飼い猫が主人公となっている。
ページを繰ると、なるほど、挿し絵の視線も低く、常に地面か部屋の中も床から見上げる構図になっている。それ以上にあのシティの岡さんのお宅そのままの室内がスケッチされていて、やはりシティが実在することに驚かされたのだ。
「わたくしの暮らすのはシティと呼ばれる町ですの。生まれも育ちもそのシティですから、今迄に他の町のことは、ほとんど出たりもしないので、あまり知りませんの。
あら、失礼。一応、わたくしの飼い主を紹介しておきましょう。今、キッチンのテーブルにかじりついて、このお話しの挿し絵を描いていますわ」
そして、
「『わたくしの暮らすシティは、みなさんのお住まいの町とは幾分違いますの。』
『もうこのシティに越して気が付いたら30年の月日が流れてしまいました。』
というのが彼女の口癖ですの。いつの間にかわたくしまで同じしゃべり方になってしまってごめんなさい、紛らわしくて。まあ、そんなこと、おかまいなしでお話ししますわ。」
「だいたい彼女は文句が多いのよ。彼女は寒いとか、暑いとか、よく言ってますが、このシティはそれ以上にとても住みやすい場所ですわ。
滅多に雪も降らないし、美味しい牛乳が飲めますの。たまに彼女はその牛乳でプリンを作りますの。それと彼女の作るじゃがいものスープだけはどこのお店も敵わないくらい美味ですのよ」・・・
このエッセイはまったく絵本のように、ふんだんに彼女の挿絵が組まれていて微笑ましい。絵の一部に解説文が散りばめられているようなグラフティーなのだ。私はすっかり岡さんのお宅にお邪魔している気分で眺めた。
「彼女には内緒ですが、わたくしお友達がたくさんいて、ケンカもしますし、もっと若い頃は引く手あまたで、でもわたくしのお付き合いした雄猫は野良か他のシティから通って来た方でしたの」
シティの猫同士の交流は盛んで、よそのシティがあって、交流がある。野良の「キャプテン」と呼ばれる猫によると、なんでも7箇所のシティがあり、すべてチューブで繋がっているらしい。少しおかしいのはその中には時間の流れが遅くなるシティが幾つかあり、逆にそんなシティから観ると他は近未来都市に見える仕組みになるらしいのだ。時代差が多少の文化の違いを作り出していて、結果、自然と別のシティを作り出している仕組みらしいのだ。
私は岡さんのエッセイに驚いた。
当たり前だが、エッセイの「ミイ」の眼は岡さん自身の眼でもあるのだ。なるほど猫のモデルがモモで岡さんと本当に意思の疎通ができるにしても、こんな細かい話ができるとは思えない。また、私はスローライフを少し勘違いしていたことの方が発見なのだ。
岡さんの頭の中には他のシティの存在とアナログ具合の差から生まれるスロー具合までが情報としてインプットされていたことが驚きなのだった。
「でもわたくしのシティはいい人ばかりですの。彼女がカルチャースクールの先生をやった2年の間に、シティホールの教室にわたくしを同伴してレクチャーしたおかげで、生徒さん達が皆さん、わたくしを覚えてくれましたの。絵の教室、小説の教室、クラッシックレコード教室、いつでもわたくしは黒板のそばの袖机の上で籐籠に入れられてトイレに行きたくなっても、休憩まで我慢しながら大人しくしてましたわ。それに絵の教室ではモデルにもなりましたの」
「生徒さん達のお話が楽しみですの。
様々なお仕事に驚きました。時計職人、書家、毛針職人、発明家、和紙屋さん、織師、染色・・・、こんな専門家の職人さんが多いのと、その方々の趣味が様々。紙飛行機、砂金探し、アマチュア無線、天体観測、詩吟、石集め。なかには発明家ですが趣味が高じて大工さん、紙飛行機に飽き足らず自作のハングライダーでたまにシティの上空を飛ぶ姿が見えたりしますの。
この方は朝、山の上まで登ったら日没まで、食事もトイレもお茶もタバコもすべて空。見上げていると読書や新聞まで広げて空にいますの。『地面から離れていることが好きなんです。』なんて、面白い自己紹介ですの。」・・・
そして、巻末には「岡文子」の履歴とあって、1934年~2019年とあり、すでに5年以上前に亡くなっているのだ。瞬間、レコード針ファンの彼に思わず感謝せずにおられなかった。やはり何か2つの次元には意味があったのだ。そして、私はダブルエントリーを確信した。
ただ私はその事実がどういう意味を持つのかがすぐには理解できないでいた。納得できずに、何冊か本を探る内に、丹那盆地というところに「岡文子記念館」とあり、やはり、シティは「丹那」という地名に間違いないと確信した。
いつか、パソコンの航空写真で探した丸い盆地のことだ。
これは単なる偶然ではない。丹那という盆地に私は呼ばれたらしいのだ。
いつか吉村昭の小説で想像した丹那トンネルの真上に実在する場所。しかも、5年ほど前に偶然立ち寄った微かな記憶のある盆地がその場所だったのだ。
私はいてもたってもいられない気分で、さっそく地図を頼りにバイクで訪れた。
実際現地に立つと、丹那トンネルの小説の悲惨な面影などみじんもなく、美しい丸い盆地なのだ。以前訪ねた当時と変わらない里山の自然と、温暖な気候。ながめていて飽きない自然の原風景なのだ。なんとも和む雰囲気のあるエリア。もちろんシティの面影などはなく、牧歌的な情景がただ広がっているだけ。いつだったかハムの篠崎さんに見せてもらった建設当初の風景そのまま。
牛乳工場のスタンドでまずは牛乳を一本腰に手を当ててラッパ飲みして、盆地を見渡した。東西南北を合わせてみる。たしか、「シティ」であれば岡さんの家のあったとおぼしき方向に向かってみるのだ。そして隣が我が家だったはずなのだが。
左右に広がる田園風景を眺めながら進むと、果たしてそこに「岡文子記念館」と看板があり平屋の建物がポツンと立っているばかりなのだ。
踏み込むと、生前の懐かしい彼女のスナップが展示されているのだった。その瞬間、私は「また、不思議な経験をし始めた」と思わず独りつぶやいた。
さらに、彼女がクラシックをよく聴いた「OTTO」のステレオ、自慢の鉄鍋「BLACK POT」、そして、モモの剥製まで展示されていて、
「岡文子は40代から晩年までここ丹那盆地を愛して、日常をテーマに数々の創作、エッセイを残しました。いつしか彼女は『日本のビアトリクス・ポター』と呼ばれるようになり、丹那の自然の姿を後世に残そうと、生涯、『スローライフ』というライフスタイルを提唱し、本国に根付かした第一人者で、晩年は愛猫を伴侶にした心温まる暮らしぶりをテーマに多くの書籍を残しました」
スナップ写真はお馴染みの微笑みの女史の表情で、傍らには必ずモモが一緒に写っているのだった。作品中で「ミイ」とは、まさに「ME=自分」と名乗っているも同然で、彼女の遊び心がなんともおしゃれなのだった。
ひとつ、気になったのは「OTTO」のステレオ。来館者が途絶えた隙を狙ってレコードコンソールの蓋を持ち上げて見る。
「おおっ、オットー・リリエンタール?。お前まで。ここに飾られて・・・
ところでロゴのネーミングの謂れはそれで良かったのかい?」
目前のカートリッジは確かに私がいつか交換した自社の物で、わずかでも私の存在を残せたことにうれしくなったりするのだ。
岡さんはすでに5年前には亡くなっていたといわれていも、私は明らかにその後初めてお会いして学んだことばかりで、多分、これからもまたいつもどおりお会いできるようで悲壮感などはみじんも感じない。
そして、ここにも展示されているグラフティーの裏表紙の絵が印象的だった。
うたた寝する「ミイ」だけが描かれていて、
「本当は猫の『ミイ』の居眠りの世界の物語なのよ」
と暗示されているみたいなのだった。
ようやく私は彼女の世界に呼ばれたひとりだったことを実感した。これはすでにデジャヴを超えた現象。事実として私は二つの次元で生活していた真実、すべて実像なのだった。今、記念館に立つ自分とは、以前シティに暮らした5、6年のタイムラグを超えて元の街の時間でお尋ねしているに違いないのだ。これが女史がいつかお話しされていた時間のパラドクス。シティより早い時間で生活していた私はいつの間にか自ら5年以上のタイムラグを造ってしまっていたらしい。
どうやら、私の現実逃避の願望が見せるうたかたの夢と思っていた「アナログシティ」は、ほかにもなんとなく惹き寄せられるように集まった幾人かを知ると、その意外なキャラクターやリアルさで、確証などないが、何かの妄想に自然と呼ばれて、自ら集まったメンバー。
それと今さらながら、シティの住民とは家族連れで住まわれている方がいなかった。ほとんどが年配者で単身者。ひょっとしたらシティの皆さんとは岡さんやモモと同じようにすでに亡くなられていた人々?。シティとは死後の世界なのか。そこまで考えて止めにした。
仮に死後の生活だったとしても、それにしては皆さん生き生き過ぎるくらいにのびのび暮らしていて、私にはどうしてもそんな終わってしまった場所には思えないのだった。
シティとは現実世界と常に同じように実在していて、併行した住民のリアルな生活が今も流れているはずなのだ。そう、思う方がしっくり馴染む感覚がするのだ。
シティに呼ばれる条件は心の隙があり、やはり、デジタル化の変化に追いていかれなかったか、軋轢を持った者。そして生き方が多少ゆっくりしていることが条件だったのではと想像してみるだけだ。
まだここに、岡さんが理想郷を見た盆地が残っている限り、シティに岡さんは生き続けているのだ。
丹那に丸い盆地が残っている限り、いつかまたアナログな生活が動き出す。
いつの間にか私は倉庫会社の定年を機に、役場から岡文子記念館の管理の委託を受け、隣接の農機具小屋をお借りしてここ丹那に定住を決めていた。
役場から記念館の鍵と清掃道具やらクワやカマまで譲り受け、農機具小屋のスペースに居住スペースを造ったのだ。
記念館に来られたら、そんな浅黒い顔のパイプの輩に声を掛けてください。女史の考え方、スローライフの意、女史のモノマネまで、冬には隣の農機具小屋に運び込んだ達磨ストーブで身体を温めてください。「スジャ」と呼ばれるミルクティーくらいご馳走します。
そして、最近、休館日の月曜日、木曜日には牛乳工場のパートもやりながら、朝の牛乳配達の委託を受け始めたところ。少しでもこちらの生活に馴染み、新たな住民メンバーを知りたくて。
おかげで日々、記念館前のテーブルで好きなパイプを咥えながら「シティ」での日々の生活を思い出しながら、「私のスローライフ」を書き続けている。
「野口さん、お久しぶりね。また、レコードが聴けなくなって、見て下さらない?」
「はいっ、ゴムベルト探してきました!」
そんな突然の日を想いながら・・・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます