第9話 スチーム
季節が巡り肌寒い日が続いて、いよいよ冬の到来を前に、チューブにスチームの配管を接続した。
チューブのコックをひねってしばらくすると、配管の中を液体が流れる音がし、次第に部屋に設置されたラジエターが温まる。
なんでも兄やんの説明によると、町のところどころにボイラー小屋があって、ガスボイラーを炊いて沸騰した蒸気をコンプレッサーでチューブに送り込んでいる仕組みらしい。
私はさっそく台所から鍋を引き出し、水を入れてラジエターの上にかけた。
「スチームは火を使わないので安心だけど、お部屋がけっこう乾燥しますの」
お隣りの岡さんがそう教えてくれたのだ。そして、とっておきの冬場の愉しみも・・・。
本格的な寒さになると、スチームの温度も上げてくれて、ラジエターの表面温度は80度近くになるという。そこで岡さんは大きい鉄鍋を掛けて料理にも使うのだというのだ。
厚い鋳物の黒い鍋を見せてくれた。
鍋は同じ素材の重い蓋がセットされていて、多分「ダッチ・オーブン」というキャンプで使うタイプだろう。これでコトコト煮込み料理をするのだという。季節によって材料を変え、カレーなど台所のレンジで肉や玉ねぎを炒め、カレールーを入れてスチームの上に何日かコトコトさせておくだけでコクと旨味の独特なカレーに仕上がるというのだ。
長年使い込んだ鉄鍋は漆黒の黒色に艶が出ていて、そんな使い込んだ鍋のことを「BLACK POT」と呼ばれ、古いほど珍重されるというのだ。
私の家の鍋はアルミしかなく、まだ、晩秋の今はスチームもそれ程の温度にまでは達していないが、ベーコンの切り身と玉ねぎのみじん切りを投げ込み、缶入りのトマトを入れてみることにした。蓋をしたまま一晩スチームのラジエターに置いた。すると具材は程よく崩れ、溶け合いながらスープになりかけていた。まだ本格的な温度まで温まっていない、水温にして70度ほど。それでも時間を掛けることで十分料理できることが解ってきた。そこで、マカロニ、ジャガイモ、ニンジン、セロリーを加え、もう一晩。ジャガイモもニンジンも丸のまま放置した。最後に塩コショウを加えただけで、特製ミネステローネが完成したのだ。私は嬉しくなって、隣の岡さんに鍋ごと持参しご意見を聞いた。
「あら、トマト以外丸ごとにこだわったのね、どうかしら?・・・、パンを焼きますわ、ご一緒にいただきましょう!」
持参のスープをとても喜んでくれて、実の親子のように楽しい時間を過ごした。
岡さんが謎の香辛料と塩味を少し足しただけで本格的な料理になってしまうのだった。すると居眠りしていたモモがあわてて起きて来たのには驚いた。
「モモはおいしいスープとジャガイモには目がないのよ。だから彼女が起きてきたことがおいしいスープの証拠ね」
モモは小振りなボールに取り分けてもらうと、丸ごとのジャガイモを旨そうにかじってみせた。
「そうね、丸ごとのお野菜でも十分味が染み込むのね。野口さん、これは発見よ。ご覧になって、モモがあんなに喜んで食べるのも珍しいのよ」
私はすっかり北欧風の料理法が気に入ってしまい、岡さんが加えてくれたポプリやハーブの幾つか、それにイタリア産岩塩などをメモった。
「わたくし、面倒くさがり屋ですから、時々お鍋を掛けっ放しにして食べたらまた適当な具材だけを入れ足して、少し味を変えながらなんてお料理にしてしまいますの。
そうね、味の薄い野菜スープから、そら豆やマカロニ入りのミネステローネにもするわ。その後、カレーの香辛料やチーズを入れてなんて具合・・・。『行き当たりスープ』ってお料理ですの」
私は早々、町の商店街でなによりも、その「BLACK POT」になりうる大ぶりな鉄鍋と、教わった調味料を買い出しに行くことに決めた。
何は無くとも常にスープだけはある生活。そして、この冬はいつもと違った北欧風の暮らしを目指すことで、シティの暮らしを楽しむことにしたのだ。
ある朝、シティは真っ白になった。
前夜、やけに寒いとは感じていたが、朝方、急に風は納まり気温も上がったように感じたのだが、外の様子を見ようと玄関を開けるがまったく開かないのだ。仕方なく窓からようやく外に出て、玄関に廻り込んでドアを開けた。そうこうする内に家の電話が鳴った。
「野口さんですの?、あら、ごめんなさい、朝早くから・・・」
お隣りの岡さんだった。
やはり私と同様、玄関が開かないのではと、すぐ伺いますと言おうとすると
「ごめんなさい、今、わたくし昨夜からシティの作家仲間のお友達宅にお邪魔していますの。それで、多分『モモ』が困ってると思って、お願いしていいかしら?」
『彼女』は心配になるといつも専用の抜け口から玄関のテラスに出て、岡さんの姿を探すのだという。ついでに鍵の隠し場所まで伝えられて、私は電話を保留にして飛び出した。
すると案の定、寒がり屋というモモが雪をかぶりながらテラスで身構えているじゃないか。急いで抱きかかえ家に入れ、先ずは岡さんの声を聞かせた。すると「ニャオ~ワン!ニャオ~!」と連呼し、岡さんに言わせると
「モモに今、叱られましたの。
彼女はどんなに心配したかを訴えてました。
それとごめんなさい、野口さんのお宅で大人しくしてるようによく言い聞かせましたから、お宅のスチームのところにおじゃまさせてやってくださいな」
「わかりました。ジャガイモのスープでいいですね。心配しないでバスが動くようになってからゆっくり戻ってください」
岡さんとモモは本当に言葉のコミュニケーションが取れるのだ。電話での会話ができていることが何よりの意思疎通の証拠なのだ。モモはすっかり安心した表情に戻り目を細めたりしている。
モモは我が家のスチームの脇に毛布を出してやると、ゴロゴロ喉を鳴らしながら自身で上手にくるまって見せた。さっきの電話でようやく彼女は安心したのだ。もちろん私は急いでジャガイモとベーコンを真新しい「BLACK POT」に追加し、とりあえずミルクを温めてモモの前に置いてやった。その脇で最近、岡さんに習ったセオリーを参考に書き物に集中して過ごした。
お会いしてしばらく、岡さんの書籍をお借りして感心したのだ。
「私のスローライフ」「リラクゼーションを求めて」「自分の時間の流れを作り出す」「自給自足と自然保護」そんな難しそうなテーマに、一切気取ることなく、まるで話し口調でゆったりとした文体で書かれているのだ。
そして
「テーマなんてなんでもいいのよ。わたくし自身の備忘録ね。・・・
小説でもエッセイでも、書き続けるうちに自然と何かのスタイルになっていきますは。そうでないとわたくし何も書けませんの」
「野口さんも、今、不思議に思うことから書き始めてみましょう?」・・・
以来、私はすっかり岡さんから「スローライフ」の奥義を学んだ気分で、町で見つけたシャグタバコと手巻き機で、手巻き煙草を作りながら、この不思議な経験を書き物にまとめてみることにしたのだ。
「岡文子」という名はペンネームだと知った。しかも、彼女はすでに7・8冊エッセーの本やら小説まで出版されていて、モモは大事な被写体であることも分かってきた。
彼女はモモに自身の姿を投影しているのだった。
「だからわたくし、モモとは二人三脚でお仕事してますの」
文章を書くという経験はその後の私の目標にもなったのだ。
「小説でもエッセイでも、上手く書こうと思ってしまったら、失敗よ。そんなこと気になさらないで、書きたい事を楽しく書きましょう!。でないと書く意味もないわ・・・」
しばらく私の相棒はシティの商店で見付けた手巻きのタバコだったが、どうやらモモからもお墨付きを頂けたらしく、彼女がぶらり訪ねて来て「ニャオ~ワン!」と呼ぶことがある。
扉を開けてやるとスチーム前のいつもの毛布に走って行って上手に包まりながら、私の書き物の進み具合をチェックに来たように、私がテーブルに着いて書き出すまで鋭い眼差しを飛ばすのだ。私が書き始めるとようやく満足そうに目を細めるところが、まったく私にとっては相棒というより、なによりの厳しい先生なのだ。
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