第6話 バザール

 シティでバザールが開催された。

 私はお隣りの岡さんから聞いて、町の商店街まで行ってみることにした。

 店は誰でも出せるのだ。そこには特別なルールは無く、基本的には物々交換らしいが、お互いの協議で売り買いもよいらしい。だからバザーともフリーマーケットとも呼ばれ、年に2度、秋と春開かれるシティの一大イベントらしい。

「本や古着もいいのよ」

「食べ物の屋台も出るし、商店街のお店の安売りも。・・・そうそう、中には陶器のお皿や掛け軸、絵まで出ていますの。私は前にレコードが沢山出ていて何枚も買いましたわ」

 いつもの商店街を入っていくと、やけに賑わっていた。風船を配り、ヨーヨーの大道芸、手品、竹馬の試乗、沢山の屋台・・・、まるで昭和50年代の雰囲気で、私はまたタイムスリップしたような気分で見て歩いた。私は岡さんの話を参考にレコードを並べている出店を訪ねて歩いた。その中でもちろん数枚のEP盤を買い求め、偶然目に留まったのが、昔の絵ハガキや雑誌を並べた店だった。

「ご入居のご案内」

とタイトルされた横長のパンフレットだった。

 タイトルの脇に第1期募集、賃貸住宅と印字され、ページを繰って釘付けになった。

 見開きのページに全景マップとあり、明らかにここのシティの入居案内であることを理解した。

 マップにはショッピングセンターを中心にまだ40戸ほどの絵しかなく、それぞれ4方向に住居区画だけが示され、2期予定・3期予定と文字だけが描かれている。牛乳工場と幾つかの民家の他は牧場、水田、畑地の姿。

そして、挨拶文がある。


「この度、新未来都市計画の一環として、まったく新しい生活様式のタウンをご紹介する運びとなりました。

 理想郷を目指して、各戸にスチーム暖房、エリア冷房、電気も水道・ガスもすべてはチューブと呼ばれる特別なパイプで地下から安全に供給されます。様々な設備で皆様のご入居をお待ち申し上げます。

               シティ開発管理組合  1976年4月」


 私は古本や映画のパンフレットを並べた売主のおばあさんに尋ねた。

「あの、このパンフレット、ここのシティの始まりの時のヤツですか?。」

「はいはい、いらっしゃい。そうなのよ、もう昔のこと。私達、これ眺めながら、何度もここまで見に来たわ。まだ工事中の時よ」

「そんな思い出のパンフレット、手放してもいいんですか?」

「そうね、でも、昨年主人が亡くなって、ここの本も全部整理していて出て来たものばかり・・・、やっと気持ちの整理が着いたから、片付けがてら持ってきたのよ。ゴミに出す気になれなかったのよ、少しでも誰かの役に立てた方が本達も幸せかしらって・・・」

 おばあさんは70代だろうか、山歩き用のトレッキングウェアの上下にお揃いのキャップ姿なのだ。長い髪をポニーテールにして、キャップの後ろから垂らしている。そのせいか若々しく、細身でジョギング途中にさえ見える。そして、懐かしい時代の話をしてくれた。

 このシティの開発が始まった頃は高度成長期で、都心のもっと近く、高島平とか、多摩の方にどんどん新しい町ができた。それらは皆、ニュータウンなんて呼ばれたそうだ。しかし、かなり辺ぴなこのシティはあまり話題にもならず、応募開始から一年近く、初めの20戸も埋まらなかったという。やはり利便性は無く、ある程度田舎暮らしの経験がないと住めないという噂だった。別荘感覚で自給自足までとはいかなくとも、今でいうアウトドア嗜好の人種。分刻みの生活や、利便性を追求するライフスタイルには似合わない。一週間遅れの新聞でもしのげる懐ろの広さと、辺ぴでも賄える仕事、多少の経済力なり、それなりの職業の人種となってくる。

「うちはもうサラリーマンは辞めて、時計職人で食べてましたからね。ここに越しても仕事はできたんです。なにしろ全国の時計屋さんから修理依頼が届きましたから」

「時計職人ですか?、よっぽど腕のいい職人さんだったんですね」

「そりゃ、もう。その分、何もしゃべらない昔気質の人でしたけどね」

「あら、あなたはどんなお仕事ですの?」

「へっ?、私なんか何も腕はありません。レコード針の問屋業なんで」

「それは立派なお仕事ですわ。ここのシティでは欠かせない製品ですわ」

と、また誉めてくれるので私は嬉しくなった。

 もちろん私はシティのパンフレットを買い求め、何度となく家で眺め直した。

 シティ開発管理組合とはどんな組織で、今でも存在しているのだろうか?。新未来都市計画とはまだ継続されているのだろうか?。そして、パンフにある1976年4月という年代の世の中とは?。

 私は調べ物がてらシティの市民ホールにある図書館をまた訪ねてみることにした。

 まず、百科事典でいろいろ調べていく内に、1976年には沖縄で海洋博が開催され、三木総理から福田総理へ、大和運輸が宅急便サービスを開始し、ロッキード事件で証人喚問が始まり、9月、ソ連のベレンコ中尉が函館にMIG25で飛来亡命。

 なぜか年表には山水電気がステレオプリメインアンプを発表とあり、日本ビクターがVHSビデオを発表。海外ではモントリオールオリンピックが開催された年。

であることなどが解った。

 ただ、当時私はまだ学生で、毎日のほほんと暮らしていただけ。ただベレンコ中尉がMIG25で飛来亡命したニュースは衝撃的で、駅の売店まで新聞を買い求めに走ったことを思い出した。

 当時の時代背景は、高度成長期を実現し、情報化社会前夜。世の中は古くからあった機材、電気器具、マニアル的テクノロジーからコンピューターや電子機器が普及し始めて、人間が楽をしようと方向を切り替え出した分岐点。そんな時代に今までのテクノロジーの集大成として、未来に誇れるようなモデル都市を目指したプロジェクトだったと理解できた。

 生活の快適さとはアナログ以上にならない事。

 マニアル機器を上手に使い、手入れをし、長く使うライフスタイルである。という思想から構築された新未来都市なのだ。・・・

 しかし、ここのシティに直接結びつくような資料は何もなく、代わりに偶然、お隣の岡文子女史やシティ在住の作家の方々のラインナップを見付けて小躍りした。

 以来、ちょくちょく私は図書館を我が書斎代わりとノート持参で尋ねては、書き物をしたり、岡さんの蔵書を読んだり、疲れると隣りのコーヒーショップで一服したりが多くなった。

 シティの図書館の大部分は蔵書で賄われていて、規模的にも町の本屋さん程度なのだが、変わった書籍が多かった。蔵書とはやはり個人的趣味で集められた体系がほとんどで、一般的なものは少なく、特殊なジャンルに深い。陶芸の専門書、薪ストーブのカタログ、染色技術書や織物、盆栽、鋳造や錬金、漆、螺鈿、電気回路等、ほとんど趣味や特殊技能で実用的なものではない。それらはそのまま、今迄の入植者の片寄った職業や趣向を紹介しているのだった。しかも、所蔵者は故人とは限らない。

 岡さんから、自宅に置けなくなった本を寄贈して置いてもらっている話を聞いたからだ。その中に将来、レコード針のカタログや昔から愛読の「オーディオジャーナル」を加えることになりそうだ。

 そして将来私も、自宅に置けないくらい本を出版したいと願ったりした。

 そんな変わった蔵書を一冊ずつ読み進む内に、このシティの住民の性格、人間性、ひいてはのんびりさや価値観の違いまで分かって来るのだった。

 いくらこのシティの裏に何か隠そうとする意図を探してみても、シティの主人公は住民たちの似たような気質、暮らしぶりは自然に発生したもの。それを前にしては何も疑問も挟めない事を悟るのだった。

 ひとつ、岡さんに1976年4月のシティの入植パンフレットを持参して見せた時、思いがけない反応にドキリとした。

「懐かしいパンフレットね。でも、私はそれ見ると悲しくなるわ。なんでそんなにシティを研究しようとされますの?。

 わかります?・・・」

 そう前置きされて

「野口さん、あなたは私にとってとても特別な人よ。だから申し上げますわ。シティの不思議なところは小学校も中学校もいまだにないでしょ、入居の条件がどこにも書いてないけど子供のいないことだったのよ。私達夫婦にはどう頑張っても子供がさずからない事がわかったから、ここに越したの。・・・きっとこのパンフレットを手放した方も同じよ。野口さん、だからまだ未完成の町なの。これはこれからのあなたの、あなた達世代の課題よ」

 そう言って、岡さんはじっと私の眼を見つめた。



 バザールの最終日、私は古道具ばかり並べた店舗を偶然見つけ、そこから動けなくなっていた。

 木枠で作られた升のような器に入れられた煙草盆、昔の囲炉裏に吊るされていた自在かぎ、整然と並べられた盆栽の鉢や、九谷や古伊万里の皿。そんな物を並べた台座代わりになっていたのは鋳物の薪ストーブだった。

 確か、かなり以前、田舎暮らしだった中学校の教室にあった鋳物製の達磨ストーブ。

 ストーブ当番の朝は、早めに家を出てオイルの染み込んだ練炭と薪で火を起こし、消えないように注意しながら石炭を少しづつ加え、みんなが来るころにまでに教室を温めておかなければならなかった。

 どれだけストーブの本体が赤く熱せられているかが、当番評価の対象だった。三々五々、登校するとみんなもれなく、アルミ製の弁当箱をストーブの周りに置いてから授業が始まるのだった。だからあの頃、如何にストーブを熱しておくかが、勉強のやる気を大きく左右する要素でもあった。そんな懐かしいストーブを見付けたのだ。

「あのー、すみません、この達磨ストーブも手放すんですか?」

「分かるかい?あんた、これが達磨ストーブ。良く知ってたね、そういう方には手放すよ。」

と、オーナーは七十代とおぼしき元気なオヤジさん。

 そして、

「使い方解ってるかい?、このブリキ製のダクトと煙突も着けてやるよ。値段かい?、幾らでもいいさ、使ってもらえるならストーブも浮かばれるさ」

 私は値段に迷って、

「あまりお金は使えないんで、レコード針と交換ではだめですか?ダイヤ針?」

と言うと、オヤジは喜んで、一言。

「それと、ついでに家のレコードプレーヤー直せないかね?」

というので、

「あとで、レコード針持参でお尋ねします」

 そして、一輪車を貸してくれて、私はストーブとダクト一式を手に入れることができた。

 一輪車を返しがてら、もちろんダイヤ針と一応プレーヤー用のベルトドライブを持参すると、オヤジさんは満面の笑みで迎えてくれた。

「あんたがひょっとしてレコード針の会社にお勤めという、最近入植された方?」

「はい、野口と申します。」

「野口さんか、岡先生のお隣に越してきた方だね?なんだ、先生からお聞きしたことがある。そうならそうと最初から言ってくれればいいのに・・・」

 岡先生とは?とお尋ねすると、以前、岡さんがシティホールで講師をやられた講座があり、オヤジさんは2年近く通われた生徒だというのだ。

「岡先生って、どんな講座やられていたんですか?」

「いろいろさ。先生は器用だからね。

 まず、通ったのが絵の教室さ。水彩用の色鉛筆を貸してくれて、最後に水を着けた筆でなぞると顔料が溶け出してそれなりの水彩画になるんだ。そいつで絵手紙を作ったよ。

 それからクラシックレコードを聴きながら、往年の作曲家の歴史。

 それからエッセイの書き方・・・。

 そういえばいつも猫を連れて来られてね、行儀のいい猫だったな」・・・

 それから、オヤジさんは煙突と煙道の絵を描いて説明してくれた。

「知ってる人が少なくなってね。一応ね、何しろこれ上手く使わないと火事や一酸化炭素中毒になっちまうからね。

 ストーブを置く敷台には耐熱の板か、昔は浅い木箱にトタン板を貼って使ってたが、かなり真っ赤になるくらい熱くなるからね、床に火が着かない養生が必要だ。

このダクトをストーブに立てて、この曲がったダクトを繋げるんだ。

 もし煙道が足らないようなら金物屋さんでまだ扱ってたはずだ」

「大事なのは窓の方に伸ばすときの角度さ。少し斜めに上がって取り付けておかないと煙は暖かいだろ?、部屋の中に逆流しちまうからな」

「壁に穴を開けなきゃならんが、一応、シティの管理組合に断ってから開けなきゃならん。なーに、断っておくだけさ。ひょっとしたら道具を貸してくれるかもしれん。

それから壁には、穴の周りだけでいいが、そこにも耐熱のブリキ板を貼るんだ。昔は煙道の熱で本当に火事になった家が出たからな。

 そして外壁にこの煙突を立てて、支えの金具で固定するんだ」

「あっ、もうひとつ、同じコイツは部屋の中の煙道の支え金物があった」

と言って、麻縄で縛られた金物一式を台車に乗せた。

「わかったかい?気長にやるんだ」

 そう言って薪を入れるカギはさみと灰をかき出す鉄のコテを付けてくれた。


 話が前後してしまうが、なぜ薪ストーブの前で立ち止まったのか?。

 大体、私は生来、風呂焚き、キャンプの火起し、ゴミ焼却、などが好きで、特に火を上手に起こせることがひとつの自慢だった。暮れの大掃除の時はいつもゴミ焼きが私の当番だった。だが、しかし「ダイオキシン」「大気汚染」が騒がれるようになってからは思うように焚火もできない。河原でバーベキュー等と紙くずや材木持参で始めると役所のGメンとか、河川事務所のオヤジに怒鳴られる。こっそり燃やしているにもかかわらずバレるのは、近隣住民や通りがかりの輩が通報するらしいのだ。

 ここ10年近くの間に自由に焚火のできないことが、一種のストレスになっていた様子なのだ。

 そこへ来てストーブは暖房を兼ねて日常的に室内で火起しができるアイテムと見ていたのだ。とっさに次々と、冬の暖房、焼き肉バーベキューの料理器具、やかんさえ掛けておけば冬場の加湿器、電気ポット代わりになる。もちろん自宅で出たゴミは漏れなく焚き付け代わり。そして、完成した暁にはお隣の岡先生とモモや兄やん達に素朴な山小屋気分を味あわせてあげたいと思ったのだった。

 ひと月ほど掛けて、ダクトと煙突を組み上げ、ストーブのベースには兄やん達が工場から木製のパレットとその上に敷く鉄板を運んでくれた。

 それから何度かストーブの周りは居酒屋となり、さらにストーブに鉄板を敷き、焼き肉、土鍋も持ち寄っての鍋パーティ、イワナやレインボートラウトを串に差し、天井から何本も針金で吊るして囲炉裏替わりに沿わしたり、・・・

 お蔭で、一躍私は自在に火を扱える達人として羨望の対象となった。

 気を良くした私はシティの燃料屋さんに豆炭と石炭を予約した。

 後談になるが、岡さんのところのモモは、煙突の煙を覚えたらしく、寒い日にはちょくちょく玄関で私を呼ぶようになった。

 玄関を開けると、「お前には別に用などない」と言わんばかりに進み入り、スチームの脇に丸めておいた毛布を達磨ストーブの脇までくわえて行って、上手に自分で潜り込むのだった。

 おかげで、この冬は多少火起しに時間はいるが、真冬でも半ズボンとTシャツで過ごすことができたのだ。

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