31.ヒーローの登場

「ああ! 愛しの我が姫君! 今ここに助けに参りました」


 驚いて振り返ると、入り口とは反対側の天幕の裾を持ち上げて、這うようにして現れた兄の姿がある。


「寂しかっただろう、可愛い妹よ。もう大丈夫だ」


 頼りがいのある笑顔。だが、口を突いたのは別の言葉。


「なんで兄さんなのよっ!」

「ええっ!?」


 その後は決壊した涙が滝のようにこぼれ落ちた。

 落ち着くのにしばらくかかる。手の縄を解いてもらい、小さな頃されたようにぎゅっとイルマを抱きしめるサミュエルの胸で泣く。途中つっかえつっかえそれまでのことを話すが、兄の相槌が次第に怒りを帯びていった。


「へえ。あの野郎め。俺だってしたいのに我慢してるっつう口にキスをまんまとさらったと。ほーおー」

「アーヴィンが言ってたの。私と同じように、誰もが考えるわけじゃないって。師匠せんせいは私が喜ぶと思ったかもしれないけど、でも、全然嬉しくない。私、今までいっぱいいろんなこと言ってきたけど、でも、相手にとっては嬉しくないことだったのかもしれない」


「イルマお前、ちょっとそれは違うと思うんだ」


「でも……」


「とりあえず、その件は保留しような。どこで間違ったのかそんな風に考えたらあの坊やが救われん。今はいったん引いて体勢を整えよう」


「うん」


 素直に頷くと、いい子だと頭を撫でられた。

 だがそこで、ふと気付く。これだけ騒いで誰も見に来ない。外をちらりと気にすると、サミュエルは大丈夫とイルマの肩を両手で叩いた。それを見て、さらに驚く。


「兄さん、杖は?」


「ん? ああ。取られた。俺だってなあ、捕まったんだぞ。あの人がいきなり天幕に入ってきてさ、不意打ちだよ。それでも防御の結界が働いたから俺の顔に傷はつかなかったけどな」


「魔法もなくて、どうしてこの天幕に入れたの? しかも気付かれてないわ」


 杖がなくとも魔力の形は見える。天幕には外からも中からも、許可された者しか出入りできないように結界が張り巡らされている。魔法なしで気付かれずに来られるはずがないのだ。


 そして、兄には確かに魔法の加護がある。


「杖ね、杖。そのなんだろうなー。……父さんには絶対内緒だぞ」


 珍しい兄の真剣な顔に気圧され、頷くと、右手の人差し指にはまっている指輪を見せられる。それはインプロブ家に伝わる大切な家宝だ。蛇を象った家紋が台座に彫られている。父親は入り婿で、母が渡したこの指輪を一度も身につけることなく、兄に譲った。


「実はな、入学の儀に準備していた魔具コルを忘れて行った」

「なっ!」


 慌てて自分で自分の口を押さえる。


 入学の儀には、自分の魔石の元となる魔具を持って行く。ペンダントだったり、ブレスレットだったり。そのどれにも透明な水晶か金剛石がはまっていて、魔石の元となる。そこへ校長が直々に魔力の種を植え付けた。


 魔具を持っていかなければ、入学資格を失ってしまうのだ。


「さすがに校長も慌てててな」


「校長じゃなくて! 兄さんが慌てるんでしょうよ!」


「なー。参った参った。もうびっくりだよ。で、これに気付いたんだ」


「……兄さん」


 家宝だ。それは代々受け継がれる物だ。


「ね。困っちゃうだろう?」


 つまり、本来学校を卒業したら杖にはめるはずの魔石だが、家宝をそんな風にするわけにいかず、杖の石は偽物というわけだ。


「毎日必死だったよ。色つくな、つくなってな。願いが通じて、俺の魔石は珍しく透明のまま。誰にもばれないよう、偽の魔具にも魔法で魔力が通っているようにしてさ。そこら辺は校長が手伝ってくれた」


「……校長先生に、本当に感謝しないと」


 父が知ったらどんなことになるか。

 でもそのおかげで今こうやってサミュエルは魔法を使える。


「卒業の儀で魔石の魔力を固定したら、杖にはめないと魔法がすごく使いにくくなるだろ? 大変だったんだこれがまた。でもまあ、人間死ぬ気でやればなんとかなる。さ、とにかくここから出よう」


「うん」


 二人はこっそりと天幕を離れる。サミュエルは隠れて行動するのが得意だった。色々な敵の目を欺く方法を知っている。それを何に使っていたかは追求したくない。とにかく、この状況にはそれらがとても役立った。


 ある程度離れると、今度は魔法で自分たちの周りに結界を張る。彼のそれは、結界がそこにあることを知られないよう複雑にいくつもの方程式を組み合わせる。


「さて、どうする」


 人の横をすり抜ける、そんな緊張の連続ですっかり息が上がってしまったイルマは、砂の上にぺたりと腰を下ろして兄を見上げた。


「どうするって?」


「俺の希望を言おう。――このまま東へ沙漠を抜けて、王都へ帰る。俺には、ホレスの魔法の目をかいくぐって伝令を飛ばすのは無理だ。必ず見つかる。警戒しているだろうからな。ただ、俺たちが沙漠を抜けるのは可能だ。二日で行ける」


「でもそれじゃあ、魔原石は移動されてしまう」


 それがどれほど恐ろしいことか。

 イルマとサミュエルの姿が見えなくなったとしたら、今以上に急いで作業を進めるだろう。魔原石の移動に間に合わない。


「だめよ」


 イルマの反対に、サミュエルは空色の瞳を細めた。


「絶対ここで止めないとだめよ」

「なぜだ? ホレスのその研究とやらがどれだけのものかは知らないが、あそこにいるやつら、確かに魔力は持っているが、まともに魔法を使えるやつなんていなかったぞ? 手に入れた魔力と付き合うのが精一杯だ。実戦に耐えられる魔法使いを作るには早くても半年はかかるだろう」


「そうだけど」


 何か引っかかっている。焦りにも似たこの感覚は、イルマに考えろと呼びかける。


「移動させるのは絶対にだめだわ」


 そのつぶやきに、サミュエルが首を傾げる。


「いやに魔原石にこだわるな。そこから戦争になるのが拙いってわけじゃなく、魔法使いを人為的に作り出すのがいけないという話でもなく、魔原石を移動するのがだめなのか?」


「……うん。そう。それがだめ。なんで、何が」


 『ゲナのカルブンクよりは少し魔力が安定していないように思えるが』ホレスは確かにそういった。


「カルブンク……クリュソスプラにサップーヒ」

「学校にある魔原石か?」

「赤がなんとかブンクか、ヌ……ゲナのカルブンクは赤、フェンデルワースのは緑で、スペキリにある魔原石は青だわ」


 あの、地下の記録の間にあった円。あれは、現存する魔原石を表していたのか。となると、記録の間は四つ目の魔原石を作る儀式のためのもので、さらにそれは完成されていない。あんなにしっかり儀式の形を残しておくはずがないからだ。


「目の儀式……」


「何?」


「だめよ、絶対だめだわ! 兄さん、絶対に止めないと!」


「落ち着けイルマ!」


 両頬を手の平で挟まれ、瞳の行き先をしっかりと固定される。自分のものと同じ空色の瞳が、真っ直ぐイルマを射貫く。


「深呼吸だ。そして、――話せ」


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