9.実習への誘い

 宿屋はすぐ見つかった。入ってすぐの受付に人がいるので、話しかけようとすると、サミュエルの声がする。


「こっちだ」

 右手の通路に兄の後ろ姿が見える。ふわりと漂う酒の香りに、もう始めているのだとわかった。大きな宿で、少し夕飯には早いが食堂は混み合い始めていた。ホレスとサミュエルが一番奥の机に陣取っている。


 木のテーブルの上にはいくつか皿が並んでいる。王都を出る前に食事はしていたので、そんなに腹は減っていないと思っていたが、嗅覚と視覚を刺激されると胃が我慢できないと訴えてきた。


「お待たせしました。こちらがアーヴィン・レケン。アーヴィン、私の師匠せんせいのホレス・ディーリゲンス様よ」


 初対面の二人を引き合わせ、イルマはさっさと席に座る。ホレスの正面だ。二人が来るまでサミュエルがそこに座っていたのだろう。空の杯が二つあった。今彼は、ホレスの隣に席を移し、手にはもちろん酒がある。三杯目、いや、それ以上か。

「初めまして、ディーリゲンス様。よろしくお願いします」

 彼はいつもの調子で物怖じせずに挨拶した。ホレスに席を勧められてイルマの隣、サミュエルの向かいに座った。


「様はやめてください。ホレス、でいいですよ」

「では、ホレスさん、と」

 サミュエルが給仕を呼ぶ。


「俺の紹介はなしか?」

「口説いた女は数知れず悪名高きインプロブ家の跡取り息子って?」

「ひどいなイルマ、女性に声をかけないなんて失礼極まりないことだ、……これをお代わりと、香草茶を二つ」

「あ、私もお酒飲みたい!」

「明日から移動するというのに、倒れられては困ります」

 すかさずホレスに釘をさされて、イルマは口を尖らせた。


「夜中に介抱するのは嫌ですよ」

 さらに笑顔で念押しされた。


「俺はいくらでも介抱してやるぞ」

 サミュエルが杯を目の前に掲げながら言った。

 二人で結託して、なんとも腹立たしい。


「もう、いいわよ。香草茶大好きだし! アーヴィンはお茶でいいの? お酒の方がよかったんじゃない?」

「いや、酒は匂いだけでもう十分」

「ん? それは俺に対する嫌みか? 随分おっきくなったなあ、坊や」

 そう言って、机越しにアーヴィンの頭をがしがしと撫でた。彼はされるがままになっている。


「ちょっと兄さん! もー酔っぱらいって嫌ね」

 伸びてくる手をはたき落としていると、給仕がお茶とお代わりの酒を持ってきた。


「それでは楽しい夜に乾杯」

 強引に差し出された杯に、イルマは仕方なく自分のものを軽く当てた。


「久しぶりのフェンデルワースに」

 ホレスとアーヴィンもそれに倣うが、二人とも無言である。

 取り皿を隣に座るアーヴィンへ回し、イルマは早速目の前の料理に手を伸ばした。


フィーニス

 サミュエルがそっと四人の周りに沈黙の結界を張る。アーヴィンが宙を見据えた。結界のできを眺めているようだ。


「イルマからどこまで聞いているのかな?」

 ホレスはアーヴィンを見つめて問う。彼はちらりとこちらを見て首を傾げた。


「査定とは名ばかりで実習の一環だというお話まで」


 いきなり全部だ。が、それは彼が何かしら疑問を持っているという証の気がしてならない。それが本当なら、全部をばらしてしまったイルマの立場が悪くなるかもしれない。アーヴィンはそんなことをするようなタイプではなかった。つまり、これは話してもいいことだと彼がそう認識しているのだ。

 こちらが彼にそう思っていてもらいたいのだとわかっている。


「うちの弟子はお喋りですね。それとも、内情を隠しておけないほど仲がよいということですか?」

「そうです!」

「違います」


 軽く隣を睨む。

 ホレスはそれ以上突っ込むことはせず、彼の前に大皿を押しやる。食べなさいと指示して自分も少し口をつけた。


「国の勅命ではありませんから。一応室長殿には許可をいただきました。彼もよい機会だろうから、あなたが了解するのであればと」


 イルマは余計な口を挟まないよう努力し、アーヴィンの答えを待った。嫌がっていないのはわかっていたが、ただ、不信感を抱いているのもわかっていた。

 十分過ぎるほどの沈黙の後、彼はゆっくりと顔を上げた。真っ直ぐホレスを見る。


「お誘いは光栄ですが、一つ、言っておきたいことがあります」


 聞いておきたいことではなく、言いたいことに思い当たる。

 アーヴィンがこちらを見て笑っている。


「僕は魔法を使いません」

「あまりに当たり前のことになっていて、すっかり忘れていたわ」

「あれ、あの噂本当だったのか」


 イルマとサミュエルが同時につぶやく。

 魔法を使わない魔法使いを連れて行くのは危険が多過ぎる。沙漠は厳しい場所だ。イルマは己の失態を嘆いた。

 が、


「わかりました」


 一拍置いてホレスが頷き三人が目の前の宮廷魔法使いの顔を穴があくほど見つめた。


師匠せんせい? 今なんて?」

「了解しましたと言ったんですが?」

「え、だって、アーヴィンが魔法を使わないって言ったんですよ?」

「ええ。聞こえましたよ。実習中、魔法が必要になったら、イルマ、あなたが代わりにやりなさい。それでいいですか?」


 最後に三人のやりとりを黙って見つめていたアーヴィンへ尋ねると、彼はゆっくり頷いた。


 噂というのは嘘が混ざっていることが多いが、この場合ほとんど真実だ。フェンデルワース魔法学校に魔法を使わない魔法使いがいると、あちこちで囁かれた。事実、当の本人であるアーヴィンは、本当に必要なとき以外、魔法を使わなかった。つまり、実技試験のときだけ彼の魔法を見ることができる。それ以外は覚えた方程式を解き、魔法を使いたがる生徒と違い、彼は決して魔法を使わない。いったい何のために学校にいるのかわからないと言われるほど頑なにそれを守った。


 方程式を解くことが、魔法を使うことが下手なわけではない。むしろ、試験で力を振るえば誰も彼の出来にケチをつけられない。教師よりも上手くやるくらいだ。


 魔力があまりにも少ないわけでもなかった。貴族ではないが、普通の、魔力の値が規定に足りず学校に入れぬ人よりは断然多い。魔力を節約しているわけではない。


 方程式を組み立てることは好きなようで、訊けば色々と教えてくれる。試験前には彼の前に行列がよくできた。


 ただ単に、彼は魔法を使いたくないのだ。


 過去に何度か、試験以外に魔法を使う彼を見たという話もあった。

 それも、誰かが怪我をしそうで、他に助ける者がおらず、かなり不承不承、文句を言いながら魔法を使って助けたという筋金入りだ。


「使えないというわけではないのでしょう?」

「ええ、それは……」

 ちらりとアーヴィンを見ると、彼は軽く頭を動かす。


「沙漠は厳しい場所です。ときにはあなたが魔法を使わないことによって怪我や最悪死ぬことがあるかもしれません。ですが、それはご自分のせいです。私たちがあなたを責めることは決してありませんが、反対にイルマを責めることもしないでくださいね」


「それは、当然です」

「では、よろしくお願いします。ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉へ行く基本的な準備はすぐ整いますか?」


「自分でも準備をしてきましたから。ああ。でも外套がまだありませんね」


「そうですか。支度金をいただいていますので、それで買ってしまいましょう。フェンデルワースの店は夜遅くまで開いていますから、食事が終わったらイルマを連れて行きなさい。せっかくですから良い物を選ぶといいですよ。彼女のように、暑さ避けの魔法がかかっているものが便利です」

 呆気にとられるインプロブ兄妹を完全に無視して、ホレスとアーヴィンは話を進めて行った。

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