2-4
――えー、もう分からない……。
だんだん話が一人で大きくなってきた。
どちらにせよ、冬香1人で環境変える力はない。そうであるのならば、今はやはり目の前の状況を何とかする方を考えよう。冬香はこの話題での思考を停止した。
「……あ、わたし今日は早く帰らないといけないんだった」
気が付けば空は真っ黒に染まっている。日が落ちてしまえば何時かなんて空からは分からない。
この部屋には時計がないから、携帯などで定期的に確認しないと、今が何時なのかすっかり忘れてしまう。
「そういや、そんなこと最初に言ったね。塾?」
適当に椅子に腰をかけた秋穂は少しだけ首をかしげた。
「ううん、塾も何もない日って言っちゃったから、早めに帰らないといけないんだ」
「親か。裕福な家庭も大変なことがあるんだな」
逆に裕福な家庭だからこそ、こういった制限が厳しいのであろう。
春はやたら重そうな通学鞄を持って丁寧にドアを開け「じゃあねー」と手を振りながら帰っていった。
――私もそろそろ本腰入れて絵描かなくちゃなー。と冬香は内心春に感心する。
「いや、春がいないと仕切る人がいなくて話進まないね」
夏希が携帯電話を触りながらそう言った。
それは言えている。他のメンバーはリーダー気質ではない。
「確かにそうだけど……てか、夏希携帯触りすぎ。メールの既読もいつも一番だしさ。仕切る云々の前にそれが原因なんじゃないの?」
「携帯は誰でも触っちゃうでしょー。どっちにしても、今日は解散したほうがいいかもね」
「解散早すぎない? まだ時間はあるのに」
冬香はその瞬間、また何か空気が悪くなりそうな予感を察した。
「……喧嘩になりそうだから今日は帰ったほうがいいかも……」
相手が夏希だから大丈夫な気もしたが、これ以上は危険だと判断する。
「…………っ?」
その時、何かの音がした。
「いまの、なんの音……?」
ドン、という大きな音。
明らかにおかしい音。
普段じゃ絶対に聞かない音。
異常な音。
冬香たちも一気に静まり返る。
夜、鳥の声も虫の声もしない。
先ほどの軽い喧嘩腰の雰囲気が嘘のように、かといって良い雰囲気とも言えない――周りが何かをやらかした時の小学生のようにお互いに目を合わせる。
「…………え」
沈黙を破ったのは夏希だった。
そして夏希は、そのまま『何か』に気づいたかのように青ざめ、口を押さえている。
「夏希? 大丈夫? もし吐きそうなら――」
「大丈夫」
夏希はそう断言するが、明らかに大丈夫という顔ではなかった。
「ねぇこれ春のじゃない? 忘れ物?」
そう言って秋穂が机の上に置いたのは、春の補助鞄だった。そういえば、春は出ていく時にこの鞄を持っていなかった。
「春がこんな大きなものを忘れていくとは思えない……もしかしたら、春があえて置いて行ったんじゃ……」
夏希は黙り込んでしまった。
――まさか。
一つの考えが冬香の脳内に浮かぶ。
――いやいや。
しかし、そう簡単には認められない。
だって、誰よりもこの計画を引っ張っていたのだから。
そう考えると、変な冷が出てきた。もし今ここを出たら――。想像するだけで夏希と同じような顔になる。
冬香と秋穂が立ち尽くしていると、夏希は何も言わずに鞄の中身をひっくり返す。
すると大量の教科書と、一通の手紙が出てきた。桜を連想させる薄いピンク色の封筒だった。
「これ、開けていいと思う?」
いつもとは違う少し震えた声色で夏希が言う。
口の中がどんどん乾いていく。
宛名は書かれていない。だが、封はきちんとされている。
「う、……ぁあぁあ‼」
あの音から十分程度が経った時、窓の外から大きな男性の悲鳴が聞こえた。
聞いたことがない悲鳴だった。きっと通行人なのだろう。
男性の声で三人とも今の状態を理解した。
あれは――春の音だ。
きっともうすぐ消防が来る。
「やっぱ開くよ。この手紙。これ多分、春の声だ」
そう言い夏希は固く閉じられた封筒を開ける。冬香も秋穂も、それを止めることはなかった。
真っ白な紙に、もう会えないであろう友人の綺麗な文字が並んでいる。
そして誰も、そこに書かれている文字を読み上げることもなかった。
そこに書かれていたのは、一人の少女の独白。
そこに書かれていたのは、一人の少女の葛藤と、期待への重圧と責任感。
『二人と冬香と出会えて本当によかったと思います。ありがとう。 春』
遺書の最後はこの言葉で締めくくられていた。
開かれた手紙を三人は読んだ。
この手紙は冬香に宛てられておらず、二人に宛てられたものだった。ということは、この手紙はかなり前に書かれたものだ。
この遺書の内容から、大方春の悩みは分かった。そして、この結末を選んだ理由も。
春は期待されていた。両親に、友人に。実際に冬香も春のことを『エリート』と称していた。
しかしその期待は春にとって――重荷でしかなかったのだろう。
夏希も秋穂も騒ぎ立てることはなかった。
きっと二人とも、こうなる可能性があることは分かっていたのだろう。
『冬香は、自殺狂はいると思う?』
『でも、本当に偏執狂は存在するのか? もっと端的に言うと――自殺は狂気か否か』
『自殺は精神的におかしい人がするもの
なのか……ならば自殺願望者は『化け物』ね』
『わたしたちが世間からどう見られてるのか、ちょっと気になってね』
冬香は頭を抱え、何度も春の言葉を反芻する。
あの問いの意図は一体何だったのか。
冬香はあの問いに対してどう答えるべきだったのか。
『自殺は狂気――とまではいかなくても、一種の異常さはあると思う』
――私があの時ああ答えたから? 春は普通を求めてた。あの時私が「春は普通だよ」と答えていたら、春の未来は変わっていた……?
冬香の脳内に最悪の可能性がよぎる。
ここは――異常だ
あんな風に思わなければ、春は今も生きていた?
春は私に、最後の希望を託していた……?
真偽は分からない。もう彼女に答えを聞く手段を失ってしまったから。
――世界は、私が思っている以上に平和なんかじゃなく、残酷で、厳しいものなのかもしれない。
そう思いながら立ち尽くす冬香と二人。
外から聞こえる音は、救急車のサイレンの音だけだった。
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