第9話 先輩
「なぁ、これって知ってるか? 塾の先輩から聞いた話なんだけどさー」
「あぁ。それは知ってる。俺も中学の先輩から聞いてさ」
「何だよ、じゃあこれならどうだ?」
授業の合間の休み時間、喧騒に包まれた教室では生徒同士の声が盛んに行き交っていた。
そこかしこで生徒同士で数人のグループが組まれ、何かについて興味深そうに話し合っている。
「……随分と流行ってるな」
それを眺める一人の男子生徒は、廊下側の最後尾の席でぼそりと呟いた。
「怪談ブームってやつか? 少し前はこうじゃなかったけどな。やっぱり、雑誌とかテレビでやってるからじゃないか?」
するとすぐ前の席にいた男子生徒が反応し、同じように辺りへ視線を向けていく。
「下らん。存在するかどうかも曖昧なものに振り回されてどうするんだ」
後ろの席の生徒は鋭い視線と強張った表情のまま、腕を組むと呆れたように言い放つ。
「そういや、お前はそういうのは信じないんだっけか」
対する前の席の生徒は体を後ろへ捻らせ、椅子の背にもたれかかるように話しかけてきた。
「あぁ。生まれてこの方、そんなものは見た事がないんでな。信じようがない」
「へぇ、そうなのか。でもそれはお前が、そういうのが出る場所に行ったりしないからじゃないか?」
「……どういう事だ」
「幽霊が出るとしたら墓場とか、人のいなくなった廃墟とかそういう場所だろ。そもそもそういう所に行かないんじゃ、見なくて当たり前じゃないか」
それからも二人の生徒は、周囲の話し声に紛れるように話し続ける。
「……その言い方だと、出る所にはしっかりと出るみたいだな」
「まぁ、そこら辺は色々とな。出るって噂のスポットを、いくつか知ってるんだ。実際にそこで霊とかを見たって話も聞いたぜ?」
「なら、お前自身も見たのか?」
目付きの鋭い生徒はやがてわずかに眉をひそめると、疑わしそうな視線を送っていった。
「い、いや……。それは、な。何故か俺だけ、まだ見れてないんだよな。でもつい最近、今まで知らなかった廃墟の情報を仕入れてな。実は今度、そこで肝試しをやろうかって話があるんだ」
応じる淡泊な調子の生徒は、少し困ったような顔で肩を竦めていく。
「ふむ。肝試しか……」
「あぁ、そうだ。丁度良いから、お前もそれに参加してみないか?」
「何だと?」
「いいだろ。幽霊が本当にいるかいないか、はっきりさせるいい機会じゃないか」
「それは、そうだが……」
目付きの鋭い生徒はそれから考え込むように目を伏せると、今までの勢いを失っていった。
「何だ。口では強がっててもやっぱり、心の底では幽霊がいるって思ってるんじゃないのか?」
すると淡泊な調子の生徒は挑発とまではいかずとも、幾分かはからかいがちに問いかけてくる。
「馬鹿な……。俺は、ただ……」
目付きの鋭い生徒は少しむっとした顔つきをしていたが、直後には不意にチャイムの音が鳴り響く。
それを合図とすると周りに散らばっていた生徒達も、一斉に自分の席へと戻っていった。
以降はあれだけあった話し声も小さくなり、教室内は自然と静まり返っていく。
「なら、行こうぜ。とりあえず、週末の予定は開けておけよ? 詳しい日時と場所とかは、決まったら後で電話するからさ」
淡泊な調子の生徒も少し早口で言うと、流れるように前に向き直っていった。
「あ、あぁ……」
目付きの鋭い生徒はまだいくらか迷いがちだったが、勢いに押されるように頷く。
そのすぐ後に教師がやってきて授業が始まると、完全に生徒の声はしなくなる。
時折聞こえてくるのは教師やチョークが発する音くらいで、無闇に響く騒音や授業を中断するようなものも存在しない。
それは何の変哲もないがごく当たり前の風景で、何もなくともこれからいくらでも経験できる。
「……」
平凡で悩みのない学生の立場ならそう考えて当然で、現に目付きの鋭い生徒もその時は授業の内容に没頭するように集中していった。
「あの時……。もし俺が違う選択をしていれば、あんな事にはならなかったのか。せめて、あいつだけでも止めていれば……」
暗闇の中からまずしたのは小さな呟きで、直後には何者かがいきなり飛び出すように現れる。
「……」
周りの暗がりよりなお昏い顔をしているのは万事で、しっかりと見定めた前方から視線を放そうとしなかった。
見れば辺りは人気のない路地で、等間隔に街灯が設置されているがなお薄暗い。
「ちっ……」
そんな中でも万事は前方の一点のみに集中し、直後には懐へと手を伸ばして何かを掴み取っていった。
「こんな後悔、自分でも今さらだと思うがな。やっぱり、それでも続いちまうんだよ。お前みたいなのがまだ野放しになっていると、特にな……!」
そして言うや否や腕を素早く抜き放つと、暗闇を引き裂くように一筋の閃光が走る。
万事が放ったのはぼんやりと光る札で、街灯の明かりも届かぬ最も暗い部分へ一直線に向かっていく。
「あーらら……」
直後にはそこから何か声のようなものがして、わずかに何かが動いたようにも見えた。
そのまま札は暗闇に溶けるように吸い込まれていったが、その後には何の反応も起こる事はない。
そこでは札だけが掻き消えたようになくなり、後には変わらず漆黒の面が広がるばかりとなっている。
「ちっ……! 届きもしないか……」
万事はその様に何かを察したのか、躊躇なくそこへ向けて駆け出していく。
そして闇の中へ万事が突入した後は、辺りには動く者など一切いなくなる。
浮かぶ月もない静か過ぎる晩には、風すらその動きを止めてしまったかのようだった。
「ふぅ……。今日も疲れた。これから料理するのも面倒だし、何か買って帰ろうかな……」
時刻が夜を過ぎてもなお明かりの絶えない街中にあって、修一は自分で肩を揉みながら呟いていた。
歩く行先や周囲には多くの人がいて、雑多な音で満たされた雰囲気は充分な明るさを保っている。
「ん……? この、感覚……。まさか、またあれが……! くっ……」
だがにわかに修一の表情が曇ったかと思うと、辺りを見回してからいきなり走り出す。
いきなりの行動に驚く人の目も気にせず、それから建物の間にある路地へと駆け込んでいった。
「はぁっ、はぁっ……。はぁ、ふぅ……。こ、ここまで来れば……」
そして息を切らせながらも何とか走り抜いた修一は、様子を窺うように辺りを眺めていく。
そこは狭く入り組んではいるが、特に汚かったり臭い訳でもない。
単にどこにでもあるような路地裏で、特筆するようなものは見当たらなかった。
「ん……。何だろう、ここは……。こんなに高いビル、ここら辺にあったかな」
だと言うのに行けども行けどもビルの合間は続き、無機質で冷たい鉄の壁もどこまで行ってもなくならない。
この時になって夜風も肌に染みるようになり、冷え切った頭には不安や困惑といった感情ばかり募っていった。
「何だ、ここ……。こんなの、有り得ないだろ……」
そんな修一がふと見上げると、ビルの上階の一室に微かな灯りが灯っているのに気付く。
それはうっかりしていれば見過ごしてしまう程度の明るさだが、こんな場所では見かけ以上に輝いて見える。
「た、助かった……。あそこに誰かいるなら、帰る道を聞こう。こんな所、もうさっさと出てしまいたいよ……」
修一もやっとほっとした表情を浮かべ、少し軽くなった足取りでビルの方へ向かっていった。
幸いにもビルの入口は開かれており、さしたる苦労もなく入り込めた。
一方でビルの中はほとんど照明もなく、人影も全くない。
不気味なまでに静まり返っており、できればすぐにでも立ち去りたい所ではあった。
「ごくり……」
それでも修一はめげる事なく奥に進み、その先でエレベーターを見つける。
しかしいくらボタンを押しても反応がなく、仕方なく近くにあった階段を使わざるを得なかった。
「はぁ、はぁ……」
それから修一は二段や三段飛ばしで登っていくと、やがて目的の階に到達する。
「えっと、電気がついていたのは……。この階だった、よな……? え……!?」
だが階段から一歩足を踏み出し、前方の風景を見ると思わず絶句してしまう。
確かにそこには明かりはあったが、フロアの中央辺りに時代遅れの粗末な電球が一つあるだけに過ぎなかった。
おまけにそれは消えかけており、点滅を繰り返す様はどことなく頼りなく思える。
そのささやかな明かりが照らすフロア自体もとても薄暗く、雑多な物の散らばる辺りは廃墟としか言いようがない。
奥へ向かう程に暗闇の濃さも増し、どれだけ目を凝らしても最奥まで見通す事はできなかった。
「やぁ、いらっしゃい」
「わぁ!」
修一はそんな時に聞こえてきた声に対し、体が跳ね上がる程に驚きの反応を示す。
「き、君は……」
続けて声の方へ振り向くと、そこに立っていたのは一人の少年だった。
「僕? 僕については、どうだっていいよ。もちろん君についても、それは同じ。間違っても自己紹介なんかしないでいいから」
まだ幼さの残る外見はどう見ても修一より年下で、小学生だったとしてもおかしくない。
「え、え……?」
「何しろ、君の事はすでに知っているからね。月森修一君」
「どうして、僕の名前を……。君は、一体……」
「だから僕の事は、どうでもいいって。でもせめて、名前くらいはないと不便か。うーん……。でも僕は、本質的にそういうもの持ち合わせていないからなぁ」
ただその態度はどこか傲慢や高圧的で、相手の反応を見ずに矢継ぎ早に言葉を放ってくる。
「あぁ、じゃあ先輩でいいよ。君より、僕の方が年上なのは間違いないし……。それに何より、そっちの方が親しみやすくない?」
異質な場所にいる少年が纏う雰囲気もまた独特で、相手に与える迫力は見た目以上に大きかった。
「……」
だからこそ修一も圧倒され、未知のものから距離を取るように体は後ずさっていく。
「それにしても……。本当に綺麗だね」
「え? は……?」
「あぁ、勘違いしないで。君に言ってる訳じゃない。君の、すぐ側にいる人の事さ」
一方で先輩は相変わらず飄々としたまま、修一のやや後方の辺りをじっと見つめている。
うっとりとしながら何かを評する様は、絵画や壺といった美術品でも眺めているかのようだった。
「まぁ君には見えないだろうけど。彼女は間違いなくそこにいるよ。そして、少し補足もさせてもらおうか。彼女と言っても、もうそこにいるのは人ではないんだよね」
「な……。何なんだよ、もう……。どうして僕ばかり、こんな目に……」
底の知れぬものと相対する修一は片手を頭にやりつつ、そこからさらに後ずさっていく。
すでに自分がフロアの暗がりに入り込みつつある事さえ、当人は気付いていない様子だった。
「あは、何をそこまで怯えているんだい。ひょっとして、僕が怖いの? どう見ても君より小さく、力も弱い。何の武器も持ってないし、敵対している訳でもない。ねぇ。なのに、何でさ?」
先輩はその様を眺めながら、ただ純粋に疑問だけを表情に浮かべている。
「そんなの、分からない……。でも、とにかく嫌なんだ。君と話しているのも……。君にこうして、見られている事さえ……」
対照的に表情をひどく歪める修一はそれからも後ずさり、やがてフロアの中央辺りにあった電球の下まで辿り着く。
そこにはソファーや小さい机も設置され、上方からわずかに灯される光は周りにある影や闇との境界線を作り出している。
それはまるでそこだけが周りから隔絶された、唯一の場所であるとはっきりと示しているかのようだった。
「へぇ……。君って案外、怖がりなんだ?」
そして光の下から見た丁度向こう側、暗がりの中にいる先輩はふとそれまでにない笑みをこぼす。
「……!」
明るい場所で見ればそれは大した事もないのだろうが、今はやけに不気味に思えて仕方がない。
「ふふ……」
さらに先輩が前へ一歩踏み出すと同時に、いきなり電球の明かりが立ち消えてしまう。
さながらそれは昼夜がいきなり入れ替わったかのようで、本当の暗闇だけが辺りを支配していく。
「ひっ……。う、うわっ……!」
予期せぬ出来事に修一はただ動じるばかりで、四方八方に視線や手足を揺れ動かしている。
ただそうした所で何も見えず、慌てふためく心中を表すばかりのようだった。
「あ……!」
それでも陸に打ち上げられた魚のような仕草もすぐに止むと、正面の相手を思い出したように目を向ける。
「おっと……。危ない、危ない」
しかしそこにいる先輩は特に動く様子もなく、落ち着き払った声ばかりがしていた。
その姿は見えずとも、余裕の笑みを浮かべているのさえ容易に想像がつく。
「……?」
修一がその様に戸惑っていると、間髪入れずに電球が再び明かりを放つようになる。
「あっ……」
驚きと共にそちらを見れば、電球はむしろ以前までより明るさを増しているかのようだった。
「あーあ。どうやらあんまり君を怖がらせるから、少し怒らせてしまったかな」
「え……?」
修一は肩を竦める相手に気付くと、改めて周りを見渡す。
だがもちろんそこでは、今も二人以外に人影はないままだった。
「やっぱり、君には見えないか。同じ血を引いていても、ここまで適性がないとはね。まぁ、なまじ力や才能に溢れているよりはマシか。少なくとも、平凡で幸せな人生は送れるんじゃないかな。君にはこの先も、彼女がついているようだし」
「さっきから一体、何を……」
それからも修一は理解が追い付かぬまま。呆れや落胆を含んだ視線に晒されている。
「そうだね……。分かりやすく言えば、守護霊とでも言うのかな。今も君の後ろから、僕の事を警戒している。正直、見ていて恐ろしいくらいだよ。でも、それでも目を離せない」
やがて先輩は顎の辺りに指を添えると、なおも見当外れの虚空を見ながら足を踏み出す。
「閃光のように光り輝くその姿は、実に美しい……。君も感謝しておいた方がいいよ。君くらい怪異と縁が深い人間が今も無事でいられるのは取りも直さず、彼女のおかげなんだから」
そして視線をわずかに持ち上げながら、今度ははっきりと修一に声をかけていく。
「え?」
「君自身の自覚はないだろうし、これまで何度怪異を退けてきたかも知らないけど……。とにかく、君は特別なんだ。本来なら何の加護も持ち合わせていない人間が、まともに怪異と出会えば。その末路がどうなるか……。それはそれは、とぉっても悲惨なんだよ?」
堂々とした態度は先程から変わらぬまま、その目は妖しい輝きすら放ち出していた。
「それって……」
「身勝手な物言いだな」
次の瞬間、不意に暗闇の方から何者かが声を放つ。
「ん?」
先輩がそちらへ振り向くと、まず漆黒の闇を貫くようにして白銀の刃が現れた。
「この、化物が……!」
次いで姿を見せたのは手にした刀を前へ突き出す万事であり、その勢いを殺さずに突撃してくる。
何もかもを穿つような気迫は、全身を刃と化しているかのようだった。
「おっと」
一方で先輩は動じる素振りすらなく、軽い口調のまま体を傾ける。
すると枯葉が風圧に押されるかのように、その体は襲い来る刃から逸れていった。
「ちっ……」
万事はそれから動きを止めると、微塵も手応えのなかった刀を引く。
しかし全身には余さず力を込めたまま、あくまで敵対する構えを崩そうとはしていない。
「おー。危ない、危ない。いきなり来るなんて、困るんだよねぇ」
逆に先輩は踊るような軽やかな足取りで、距離を取るように壁際まで下がる。
「あなたはこの前の……。万事、さん?」
修一はその時になってようやく、この場に現れた人物の見当がついたらしい。
「お前は、どうしてこんな所に……」
「それが、気付いたらここへ……。僕も、訳が分からないんです」
「そうか。なら、その事はもういい。今はとにかく、生きてここを出る事だけを考えろ」
対する万事は今も鋭い視線を欠かさず放っているが、それは修一の方には向けられていなかった。
「そんな……。そんなにまずい状況なんですか」
「あぁ。あいつは……。あれだけはまずい。底が知れないって点では、なまじ力の強い奴より面倒だ」
「あんな子供が……」
「見た目に惑わされるな。あいつの本性は目には見えない。油断していたら、簡単に取り込まれるぞ」
万事は会話に応じつつも、常に体の隅々にまで緊張を保っている。
その集中力は並々ならぬもので、首筋や体には冷汗すらかいているようだった。
「あのねぇ……。さっきから聞いていれば、酷い事ばかり言ってくれるじゃないか。そもそも僕が全ての元凶みたいな言い草だけど、そんなの大間違いだよ」
一方で先輩の態度はあくまで軽く、呆れたように頬の辺りを掻いている。
「僕はあくまで語り部に過ぎない。知りたい人や望む者には相応の話を見繕ってあげるけど、本当にただそれだけ。僕がいようといまいと、あらゆる怪異はどこにでも存在する」
脱力してだらけきった様は変わらず、そのまま呑気に歩き出す程だった。
「異界へと通じる箱や扉。悪霊や死の使い。呪法や妖怪。そして、逆神。それらは元々、世界のどこにでもあって然るべきもの。中にはある日、突然それに巡り合う人もいる」
それからも悠然と歩を進めながら、自身の言葉を反芻するように指折り数えていく。
「あるいはそういうものに一切の関わりなく、人生を終える人もいる。僕はそんな彼等に情報を提供するだけで、その後にどうなるかまでは関知していないよ」
「ふざけるな……! 誰彼構わず、節操なしに余計な縁を広めておいて。自分だけは関係ないだと……。お前のせいで、どれだけ無用な被害が広がったと思っている!」
対する万事は思わず前に進み出ると、いつになく感情を露わにしていった。
「あらら……。ひょっとして、まだあの時の事を恨んでいるの? でも、逆恨みなんて止めてほしいな。あの話を信じてわざわざ怪異の場所までのこのこと行ったのは、君やそのお友達の自己責任だって言うのに」
「あぁ。それは俺達にも、全く問題がなかった訳じゃない。それでも、お前があんな話を広めなければ……。あいつ等は今頃……。俺だって、もっと別の人生を……」
万事はさらに強く目を瞑ると、目元を歪めながら悔恨の声を発している。
「別の人生ねぇ……。まぁ、君だけでも生き残ったんだからいいじゃない。もうそんなのは気にしないで、これからでも面白おかしく暮らしていけば?」
「生憎……。あいつ等の最期を見てなおそうできる程、能天気じゃないんでな。俺は……。あれから、とにかく必死だった。ありとあらゆる伝手を頼って、探し続けたさ。異形の存在や、それに連なる様々な怪異に有効な手だてを……」
それからも万事は刀を握る手に更なる力を込め、全身を奮い立たせる殺気は目に見えるかのようだった。
「必要があればどれだけの苦難や犠牲があろうと、それを厭わなかった。金や時間も気にもせず、何だろうと試していった。不要なものも容赦なく切り捨ててきた。その果てに得た力……。それを試す時が、ようやく来たって訳だ」
そしてこれまでの全てを視線に込めるかのように、目を見開いて相手を果敢に睨み付ける。
「あっそ。でも、僕には関係ないから」
だが肝心の相手は手をひらひらと振ると、さっさと歩き出そうとしていった。
「今さら、それはないんだよ。とっくに周りは囲んであるんだ……!」
それを見た万事が刀の切っ先を先輩に向けると、どこからともなく現れた札が何枚も飛び交っていく。
宙を舞う札は先輩を取り囲むように規則的に並ぶと、決して相手を逃さぬようにその場で動きを止めていった。
「ふぅん……。用意周到だね。でーも。それは、こっちにだって言える。ほら。これ、な~んだ?」
一見すると最大限不利な状況に陥っているが、先輩はむしろ楽しげな笑みすら浮かべている。
そのまま側にあったごみの山を蹴りつけると、衝撃で何かが飛び出してきた。
現れたのは古びた絵画のようで、先輩が受け止めるとそこに描かれているものが明かりの下に晒されていく。
淀んだ空が描かれた絵の雰囲気は非常に昏く、下部には黒く滲んだ染みがいくつも確認できた。
それらはどことなく人の形にそっくりで、永劫に続く無明の世界は絵の中だというのにどこまでも荒んで見える。
「それは、あの時の……!」
万事は絵を見た瞬間に目の色を変え、全身の激しい震えは動揺を直に表しているようだった。
「彼等の魂は今もこの中にある。ただし、とっくに穢れ切って悪霊と化しているけどね。どうせ戻る肉体もないんだし、返してあげるよ」
それから先輩は得意げに絵を何度も揺らすと、最後にはひどく乱暴に蹴り飛ばしてくる。
絵は床を滑っていくらか進むと、やがて停止して動かなくなっていく。
しかしそれもわずかな間だけで、不意に絵はがたがたと音を鳴らしながら揺れ動くようになっていった。
それは少しずつ激しさを増すようになり、やがて絵と床の隙間から何か黒いものが這い出てくる。
溢れ出す染みのようなそれは以降も大きさを増し、その形も見る見る内に変容させていった。
「オ……」
それはいくつも枝分かれしながら手足らしきものを作り出し、四つん這いの状態から人そっくりな姿形となって立ち上がる。
「オ、オォオぉ……」
そうなると輪郭からは淡い光を放つようになるが、一方で内側は今もどす黒く濁っていた。
しかもその人型は一体きりという訳でなく、以降も絵の中から続々と姿を現してくる。
「ひっ……。う、ぁ……」
修一はそれを見ると明らかに恐怖し、思わず後ろへ下がろうとしていった。
「動くな。心配ない。どれだけ変わり果てようと、あいつ等の本質は昔のままだ。恐れる必要なんか、ないさ……」
そんな時、動揺の極致にいたはずの万事の方からやけに静かな呟きが聞こえてくる。
見れば万事は手にした刀を取り下げ、人型の方を懐かしそうにじっと眺めていた。
「……」
一方で人型はすでに何体も形を成し、その場でゆらゆらと体を揺らしている。
その顔にある目はくり抜かれたように穴が開き、体の周りの輪郭のように淡い光を放ち続けていた。
そこからは憎しみや恨みの込められた、粘つくような視線が今もずっと発せられている。
口から言葉は発せられないものの、人である事を忘れたような姿にそれまでの面影は感じられない。
それらはじわじわと距離を詰め、いつこちらに襲い掛かってきてもおかしくないまでに接近してきた。
「ほ、本当に大丈夫なんですか?」
「確かに人は弱いし、脆い。体も心もどうしようもなく崩れやすく、失われやすい。一方で怪異はただそこに在るだけ。いくら時が経とうと、世界自体が変わらぬようにな。あいつの言う事は癪だが、正しい部分も多少はある」
それでも万事に動揺はなく、取り囲むようにいる人型を一体ずつ眺めている。
「所詮は人も大きな流れに身を任せたまま、水面を漂うようにただ在るだけ。それこそが正しい形なのかもしれない。だとしても……。それでも何とかなる。どうにかしてみせるっていう、気概すら失っちまったら……」
口にした言葉にも一切の迷いは感じられず、やがてそっと目を閉じていく。
「そんなの、生きているとは言えないんじゃあねぇのか……!」
それでも直後に目を大きく見開くと、鋭い眼光を一気に辺りへ向けていった。
「グ、ォ……」
対する人型は強い意思と信念に晒されると、それまでにない反応をするようになる。
「ォオオ……!」
人型はわずかだが怯えたように上半身を反らすと、そこから何歩か後退していく。
眩い光に目が眩んだような仕草はどこか人間的で、その時になって初めて人らしさが垣間見えた。
「お前等……。今まで、悪かった。随分と待たせちまったな」
一方で万事は手を決まった通りに動かして印を結ぶと、聞き取れない程に小さな声で何かを呟く。
「……!」
それと同時に人型の動きは一斉に止まり、まず淡く光る輪郭が歪み出していった。
体の黒い部分も塵のように変化すると、ぼろぼろと崩れるようになる。
「ァ、ア……」
確かな表情がないために感情こそ読み取れないものの、どこか安らいだ雰囲気だけは感じ取れた。
そのまま人型は何の抵抗もなく、静けさと共に煙のように立ち消えていく。
「……」
万事はわずかな痕跡も残らぬ光景を眺めたまま、口をきつく真一文字に結んでいた。
そんな時、予期せぬ方向から何かが弾けたような音がしてくる。
「おっと……」
すぐにそちらへ目を向けると、先輩はいつの間にか札の包囲から抜け出していた。
それでもその手は、宙に浮かぶ札にぴったりと貼り付いている。
「こいつは参ったね。不可視に加えて、そもそも認識をずらしてあるとは。こんな搦め手まで使うようになるとは、随分と成長したじゃないか」
どれだけ引っ張ってみても、雷や火花のようなものを発する札は決して取れないらしい。
おかげで身動きが取れないはずだが、表情や動きに切迫感は見られなかった。
「お褒めに預かり光栄だ……。じゃあそこまで言うなら、仕上げにも付き合ってもらおうか」
「え?」
「今度こそ、終わらせてやるって言うんだ。この、くだらない因縁をな……!」
対する万事はすでに戦う意思を固め、新たに札を何枚も投げつけていく。
「ふぅん……。いいね。まるで躊躇がない。この調子なら君も、まだもう少しは生き残れるかもね?」
だが肝心の札は先輩には当たらず、と言うよりもそもそも届いていない。
体に達するまでの空間がいきなり歪むと、札はそこに吸い込まれるように消えていった。
「ちっ……。本当に、どうなっていやがる……」
「結局、僕を倒しても何も変わらないんだよ。ただの人間がこの世の仕組みに干渉するなんて、そもそもできっこないんだから。それが分かっていながら、なおも僕を倒すのかい?」
「あぁ……。あぁ、そうだ!」
万事は一時こそ怯んだ様子を見せつつも、すぐに足を大きく踏み出していく。
例え自分の前の空間に何があろうと、全く意に介していない。
「ふっ、全く……。本当に、人間というのは執念深い。そこらの怪異より、よっぽどおっかないよ」
「だったら……。どうした!」
そしてなおも笑みを浮かべる相手に対し、振り被った刀を勢いよく振り下ろしていく。
それは何の抵抗もなく体に食い込むと、阻むものもなく一気に切り裂いていった。
「へぇ、やるじゃん。これで、この僕はもうお終いだよ。おめでとう。今回は君の勝ちだ。まぁ通算、何敗してからの一勝かは知らないけどね。ふふふふっ……」
しかし先輩の顔からは余裕が消えず、体から一滴の血も流れていない。
そもそも痛みすら感じていないのか、やがて体の輪郭が歪んで見えるようになっていく。
「精々これからも頑張り、楽しむといいよ。人ならざる者達の相手を、気が済むまでね。ふふっ……。あはははっ……!」
今も刀の刺さる部分を中心に、先輩の体はいきなり捻じれるように動き出していった。
その渦巻く勢いは加速しながらなおも増し、全身の隅々までが細かな粉状になっていく。
「なっ……!」
万事がその光景に圧倒されている間にも、先輩の体は微塵となってどんどん散っている。
「あーはっはっはっはっは……」
それでも不敵な笑い声だけは、辺りに反響するようにいつまでも響き渡っていた。
「ちっ……。これでも駄目、か。破魔祇衆が用いる霊具の中でも、とびっきり……。除霊や封印ではなく、討滅専用の最高格の霊刀だってのに」
ようやく一息つけた万事であったが、その顔に勝ち誇った様子はない。
「駄目、だったんですか?」
「あぁ。さっきみたいなのは前にもあった。あの場にいたのは分身や空蝉といった類でなく、間違いなく本体のはずなのに手応えがない。あいつを完全に滅するには、何か足りないのかもしれん」
むしろ眉間にしわを寄せると、表情を強張らせながら考え込んでいた。
「それこそ、もっと事象の根本に関われるような何か……。それさえ分かれば、いずれ……。今度こそは、必ず。それより、お前は無事か?」
それから万事は思い出したように、改めて修一の方へ向き直っていく。
「えぇ、僕は……。でも、あの人達は……。あの絵から出てきた人達は、どうなったんでしょうか」
「さぁな。死後の事までは俺にも分からん。だが、最後の瞬間……。消え失せる前のほんのわずかな時だけでも、あいつ等はちゃんと自分を取り戻せていた。少なくとも、誰彼構わず恨みを撒き散らすような存在ではなくなっていた。それは救いであると思う」
その時の万事の目付きにいつもの鋭さはなく、わずかに伏せた目は人型がいた方へ向けられていた。
つい少し前まで発していた激情は一切のなりを潜め、ただ安らぎにも似た感情だけがある。
「それは見て、分かるものなのですか?」
「いや、声がしたんだ。本当に最期に……。消え入りそうなくらい微かではあったが、あれは確かにあいつ等の声だった。ありがとうって、そう言っていたよ」
そんな万事の顔つきはここに来てこれまでになくすっきりとした、どこか晴れやかなものへと変わっていた。
そこはすでに完全な夜となり、周囲を漆黒の闇に包まれた駅の構内だった。
天井から白色の明かりが絶える事なく降り注ぐ下、辺りには電車を待つ人影がまばらに確認できる。
一方で壁際のベンチの方には、部活帰りと思われる数人の女子学生の姿が見られた。
「ねぇねぇ。じゃあ、この話は知ってる? これはこの前、知り合いの先輩から聞いたんだけどさー」
「えー。何々? 教えてよ」
時間も気にせず楽しそうに話す彼女達は知る由もないが、丁度その時に少し離れた位置で何かが蠢く。
「そう。怪異とはあって当然のように、世界に在り続けるもの。時代によって数や種類が変わろうと、その根本はいつまでだって変わらない。でもそれだと、あまりにもつまらないじゃないか」
電灯の明かりも届かないようなそこにあるのは、小さな範囲の暗闇でしかないはずだった。
「草木や大地のようにただ在るだけなんて、せっかくこの世にいる意味がない。いるならいるで、精々楽しまないと。そしてそのためには、君達がどうしても欠かせない」
だがその隅のほんの一部分、そこが不意に少しだけ歪む。
「だから、これからもちゃあんと僕等の側にいてくれよ。それこそ目と鼻の先に。いつまでだって、ね……」
誰にも気付かれないような些細なそれは、まるで目に見えぬ何かが思わず口角を吊り上げたかのようだった。
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