第7話 シン

 月明かりが道路を穏やかに照らす晩に、二人の青年を乗せた車が舗装された道路を走っている。

 仮に二人をAとBという名にするが、二人はとある大学に通うごく普通の大学生だった。

 今日はBが運転する車の後部座席にAが座るという形で、今も夜道を快調に進んでいる。

 辺りはすでに町からかなり離れ、設置された街灯もほとんどなかった。

 さらに車の前後はもちろん、反対車線にも行き交う車はほとんどない。

 進むにつれて田畑や山林といった自然の濃さが増していく中、ふと車を運転するBが話を始めていった。

「これはこの前、知り合いから聞いた話なんだけどさ。何でも人里離れた山奥に潜みながら、そこを訪れる人に害を為す妖怪ってのがいるらしい」

「ふーん。まぁそういうのは、割とよく聞く話だな。で、そいつは何をしてくるってんだ?」

「あぁ、まずその妖怪にはある特別な力があってさ。どうやら、穴を開ける力があるんだそうだ」

「穴?」

 運転しながら話し続けるBに対し、初めは頷いていたAも怪訝そうな顔を傾げていく。

「あぁ。それは人の内側にあるもの。心とか、魂とか……。とにかくそういう、精神的な領域を狙ってくるらしい」

「ふむふむ、それで? 仮にそこに穴が開いたとして、そこからどうなる」

「まぁ開けるって言っても、初めはほんの少しなんだけどさ。何しろ一度に大幅な変更を加えると、その後に来る変化も急激なものとなる。人で言えば精神を病んだり、人が変わったかのような変貌を遂げてしまう」

 Bがそれからさらに流暢に話していると、Aは次第にシートに沈めていた体を起こしていくようになった。

「そうなってしまえば、人は病院に行って治療を受けるなり……。あるいは寺や神社に行ってお祓いでも受けたりするだろ? すると、今までの苦労が水の泡って訳だ」

 一瞬でもバックミラーでそれを確認したBは、少し得意げに口元を緩めていく。

「だから少しずつ、決して気付かれない程度に穴を開けていく。例えば、心のほんの片隅……。初めは何の影響も及ぼさない程度の針の穴くらいから、少しずつ広げていくんだとさ」

 Bの顔は一瞬だけわずかな月明かりに照らされるが、またすぐに暗闇に呑まれるようによく見えなくなっていった。

「ん、ちょっと待て。それって、つまり……。そうなるには、何度もその妖怪に遭わなくちゃいけないって事じゃないのか?」

「目聡いな。確かにその通り。穴を開けるのが一度で済まない以上、どうしても複数回の遭遇が必要となる。でも妖怪ってのは、人間みたいに好き勝手に動けるもんじゃない」

 やがてBは完全に前のめりになったAに答えつつ、辺りを見回すように視線を動かす。

 もうすでにそこでは道路以外は人工のものはほぼ見かけず、対向車ともすれ違わなくなって久しい。

「大抵は住処や生息域ってのが決まっているし、縄張りなんてのもあるみたいだしさ。まさか、向こうから堂々とやって来れるはずもない」

 辺りに広がる暗闇の奥底はとても見通せそうにないが、Bはそれでもそちらから目を離そうとしなかった。

「じゃあ、どうやって……」

「一つ、仕掛けを施しておくのさ。穴を開けた時、ついでに心の内側に残しておくんだ。またここに来たい、という思いを」

「何だ、それ?」

「心の片隅にそれがあるなら、本人の意思やすでにある予定など関係ない。少しの時間を経てから、ある日ふと思い立つんだ。あぁ、またあそこへ……。妖怪の住処へ行こうと」

 それからBは再び運転に集中するように、前方を見据えながら話し込む。

「そうしてまんまと、妖怪の思惑通りに訪れてしまう。本来なら関わるはずのなかった、自分とは明らかに由来の異なる者の住処を……」

「それって……。針を刺した時に痛みを感じさせないように、麻酔成分のある涎を注入する蚊みたいだな」

「あるいは鎌鼬って例もあるか。風で転ばせた後に鎌で切り付け、最後に薬を塗っていくやつ。虫にしろ妖怪にしろ、きちんとそういうアフターケアを行う奴がいるって事さ」

「ふぅん……。なかなか律儀なもんだな。それで結局、心に穴を開けられた後はどうなるんだ? その妖怪は、何のためにそんな事を……。一体、そいつにどんな得があるんだ」

 Aも徐々に話にのめり込むと、Bの座るシートを掴みながら距離を詰めていった。

「さぁ……? 何せ俺がバイト先の同僚に聞いたのは、ここまでだから」

「は? お前、どうしてそんな中途半端な所で話を切り上げたんだよ。結末がどうなるのか、気にならなかったのか?」

「そう言われてもな。その同僚は、こういう話の収集家らしくてさ。それまでも色々と話を聞いたんだけど、何故かこの話だけは話すのをかなり渋ったんだ。それでも酒の力を借りて、何とかこれくらいは聞き出せたんだよ」

「それにしたってな……」

「大丈夫。もちろん、これで終わりって訳じゃない。もっと核心に迫る情報だって手に入れてきたさ」

 一方でBも次第に話に熱を帯びてくると、ハンドルを握る手に力を込める。

「ん? そうなのか」

「あぁ、その妖怪の住処。それがどこにあるのか、ちゃーんと聞き出しておいた」

「へぇ、そうなのか。そりゃ、凄い……。って、おい。ちょっと待て。それって、まさか……」

「そう。今、丁度向かっている場所さ」

 そしてBは不安そうにするAに対し、指し示すように顎を前方へ向けていった。

「おいおい……!」

「あくまで聞けたのは大まかな場所だけで、その妖怪がどこにいるかまでは分からないんだけど。まぁ、そこは行ってみればどうにかなるだろう」

「いやいや、待てって……。お前、正気か?」

「いいだろ、これから連休なんだし。お前も、どうせ特に予定もないだろ。それともバイトとか、補修でもあったりするのか。あ、まさか彼女でもできたか?」

 以降もBは茶化すようにあっけらかんとして、不安などは欠片も感じられない。

「いや、そんなのいる訳ないのはお前もよく知ってるだろ。ついでにこれからの予定の大部分が、ほぼまっさらな事もな……」

「よし。じゃあ、いいじゃないか。これも一夏の思い出ってやつさ」

「いや、でも……。もしもだぞ? もし仮にその妖怪に出くわすなんて事があったら、開けられちまうんだろ。心とかそういうのに、穴を……」

 一方でAはあからさまに表情を曇らせると、上半身を大きく前に傾けてきた。

「あぁ。そうみたいだな」

「それって、大丈夫なのか。いや、そもそも妖怪自体が現れるかも不明なんだが。もしもたった一つでも、何かヤバい事でもあったら……」

「うーん。正直、どういう事になるかは俺にも分からないんだ。今から思えばその妖怪への対策とか、そういうのも聞いておけば良かったんだけど」

 だが答える相手はなおも落ち着き払い、今も悠長に運転を続けている。

「え……。えぇ?」

「だがそこで思考停止せず、分からなければ実地で調べる。自分が実際に見聞きしたものこそ何よりの財産であり、偉大な収穫である。俺のゼミの教授の言葉さ」

「お、おう……」

「って事で、まずはとにかく行ってみよう。その後の事は着いてから考えよう」

 さらにそう言うと少しだけ振り返り、やけに明るく澄み切った横顔を見せてきた。

「ん? いや、やっぱり待てって。変に納得しちまう所だったが、よくよく考えてみればおかしいだろ。そんなのお前一人で行けばいいのに、どうして俺も行かなくちゃいけない?」

 一方でAはより態度や表情を険しくすると、Bの座るシートを引き寄せるように強く掴んでいく。

「え? そんなの決まってるだろ。だって一人だと、単純に怖いからさ」

「は……? ふ……。ふざけんじゃ、ねぇぇええええ!」

 直後に返ってきたどこまでも呑気な言葉に、Aは思わず感情を爆発させるように声を荒げる。

 しかしそれが車中に木霊したのもわずかな間だけで、闇夜を疾走する車はそれからも止まらず走り続けていった。


 しばし後に目当ての山の麓に車を乗りつけると、二人は警戒しつつも山中へ入っていく。

 辺りは光源がないためにかなり暗いが、頭上の枝葉の間からは月明かりが差し込んでいる。

 加えてBが用意しておいたライトによって不自由なく歩けているが、やはり夜の山中には異様な雰囲気が漂っていた。

 周囲では時折風の音がするのに、実際にはあまり風が通り抜ける感覚はほとんどない。

 あるのは肌に纏わりつくような、どこか生ぬるくじめっとした空気だけだった。

 さらに草木の臭いとは少し違う、鼻の中をむずむずとさせるような臭気さえしてくる。

 それらは少し前までいた車内とは明らかに違う変化で、呼吸や歩行をする度に否が応でも感じてしまう。

「なぁ……。さすがにもういいんじゃないか。これ以上奥まで入り込んだら、下手したら遭難しちまうぞ」

 Aもここまでは何とか我慢していたものの、いい加減に辟易としてきたようで立ち止まってしまった。

「そうだなぁ。どうやら何もおかしなものはないみたいだし……。ここらで切り上げるとしようか」

 するとBも少し先の辺りで最後にもう一度だけ辺りを見回すと、納得するように頷く。

 そして二人でこれまで進んできた道を引き返すと、無事に車を停めていた地点まで戻ってくる事ができた。


「ふぅ……。こんな所に連れてこられた時はどうなる事かと思ったけど、何とか終わって良かったな。ん……?」

 車が見えてきた辺りからAはやや早足になっていったが、それからすぐに速度を緩めてしまう。

「どうしたんだ? そんな所で立ち止まって。小便でもしたくなったか? まさか、でかい方じゃないよな」

「これ……。見てみろ」

 Aは追い付いてきたBに対し、そのまま車の方を指し示していった。

「ん? うわぁ……」

 Bがその先を目で追っていくと、窓にびっしりと張り付いた蛾の大群に気付かされる。

 おびただしい数の蛾は窓全体を埋め尽くした上になおも重なり、鱗粉などを散らしながらカサカサと音を鳴らし続けていた。

「何なんだ、これ……。気持ちわりい。うっ……」

 いくら自然の中とはいえありえない光景に、Aは思わず口を覆ってしまう。

「と、とにかく行こう。こんなのに、いちいち構ってられない……!」

 一方でBはそう言うと、強引に車のドアの取っ手に手をかける。

 続けざまにドアの開閉を何度も繰り返し、強引にでも全ての蛾を散らせていった。

「よし、乗り込め……!」

「勘弁してくれよな、もう……!」

 そして二人は辺りを飛び回る蛾の大群に苦戦しつつも、何とか車内に入ってその場を離れようとする。

 だがエンジンがかかって発進してからすぐ、何故かBは車を停止させてしまった。

「おい……! 何だよ? どうして止まったりするんだ?」

「いや……。今、一瞬だけだがライトの先に影みたいなものが映った気がしてさ。あれは……。あの形は……」

 Bはそれからも目の前に広がる暗闇に目を凝らすばかりで、とにかく要領を得ない。

「多分、動物か何かだろ? それより、早く行こうぜ。ここは何だか、とにかく気味が悪い。夜だからとか、山だからとか関係ない。人がいちゃいけない所、何だかそんな感じがするんだ……」

 助手席のAはすぐにでもこの場を後にしたいのか、怯えるように辺りを見回している。

 その体も小刻みに揺らしながら、何らかの存在を肌で感じ取っているかのようだった。

「あ、あぁ。そうだな。そうしよう……。それがいいに決まってる……」

 やがてBも納得するように頷くと、残った迷いごと踏み抜くようにアクセルペダルに力を込める。

 再び発進した車を遮るものは今度こそなく、二人はそれぞれの家のある町へ辿り着く事ができた。


 二人が体験したその日の出来事には、不可解だったり不気味なものがいくつかあった。

 それでも一応は全てが現実の範疇に収まるため、結局は何事もなく終わったくらいの記憶しか残らない。

 事実としてそれから数日経つと、Aはすでに山に行った事すら忘れかけていた。

 だが程なくしてAは何の前触れもなく、唐突に思い知らされる。

 自分達はあらゆる束縛を受けていないと確信していたが、すでにその身は何者かによって雁字搦めに捕らわれていたという事に……。


「おい、そこのお前。ちょっといいか。聞きたい事があるんだが」

「はい……? 何でしょうか」

 とある平日の昼下がりに、いきなり背後から声をかけられたAは何事かと思って振り返る。

 その場所は大学の構内であり、今も周囲には行き交う多くの学生の姿を見る事ができた。

「お前、Bって奴の事を知ってるよな」

 一方でそこに佇む男は、緊張感とある種異様な雰囲気を醸し出している。

 鋭い目付きは何者をも逃さぬようで、屈強な体つきなどは服の上からでもはっきりと分かった。

 年の頃は三十代を少し過ぎたくらいで、学生でもなければ大学の関係者のようにも見えない。

 しかも直前まで足音や気配など感じさせず、密かに背後に忍び寄る動きは只者ではないと思えた。

「は、はい。知っていますけど。それが、何か……?」

「最後にそいつの見かけたのはいつだ」

「いつ……? 確か、数日前でしょうか。でも、どうしてそんな事を?」

「それから連絡を取っていないのか」

「はぁ……。まぁ、そうですね。別に毎日、連絡を取り合ってる訳でもないですし。向こうも向こうで、色々とやる事があるでしょうから」

 Aはこちらの事などお構いなしに問われ続けると、相手をあからさまに訝しんでいく。

「じゃあ今、そいつと連絡を取ってみてくれ」

「……? はい。まぁ、いいですけど。あれ……。おかしいな。この時間なら、すぐに出てもいいはずなんだけど……。もしかして、まだ寝てるのか?」

 それからAはスマホを取り出し、電話をかけてみるが応答はない。

 しばらくコール音を聞いてはみたが、以降もその無機質な音が続くばかりだった。

「ちっ……。やはりもう、戻せる段階ではなくなっていたか。せめてあとほんの少し、情報が早く回ってきていれば……」

 すると男はいつの間にか手にしていた紙を力任せに丸め、忌々しそうにポケットに捻じ込んでいく。

「あの……。さっきから一体、どういう事なんですか。そもそも、あなたは……」

「妖怪の話……」

「はい?」

「山に出る妖怪の話だ。お前、あの山に行ったんだろう? Bはその話を、誰から聞いたと言っていた?」

 やがて男は気を取り直すと、抜身の刀のような視線を向けてきた。

「え、いや……。そう言えば、名前までは聞いてなかったな。確かバイト先の同僚から聞いたけど、その人はまた別の人から聞いたって。えっと、あれ……。その人って、どこの誰なんだっけ……」

「ちっ……。こっちも、やはりって所か。あの野郎、いつまで経っても小賢しい事を続けていやがる。それまで怪異と一切繋がりのなかった連中に、おかしな縁ばかり広めて……。一体、何がしたいんだ」

 以降も男は終始苛々とした様子で、呟きながら動きも落ち着きがない。

「破魔祇衆の奴等から情報を受けてからすぐに動いたってのに、こうも次から次へと……。今になって活動が活発化しているのか? だが、何故……」

 その視線もすぐにAから外れると、今度は腰に手を当てて考え込むように下を向いていった。

「あの……?」

「こっちの話だ、気にするな。それよりも、お前……。意識や体調に変化はないか。あるいは周りから、いつもと違うとか言われたりしていないか」

「え……?」

「もし少しでも心当たりがあるなら、早めに手を打っておけ。寺でも神社でも何でもいい。でないと、後悔する事になるぞ。あいつの本当の住処は、山の中なんかじゃないんだからな」

 そして男は一方的に背を向けると、言葉を発しながら立ち去っていく。

 予告もなしに現れ、余韻も残さずになくなる様はまるでいきなり吹き付けた突風かのようだった。

「……」

 後に残されたのは立ち尽くすAのみで、心中には言い知れぬ不安感ばかりが募っていく。

 周りを歩く学生達の明るい声や雰囲気からも孤立するように、その場ではやけに湿った空気がじっとりと肌を撫でるように流れていた。


「何なんだよ、あの人……。ん……。これはもしかして、あいつからか……?」

 以降もAは戸惑いを浮かべていたが、ふと手にしたままだったスマホに目を落とす。

 すると画面にはメールが届いた旨の表示があり、見ると送信者はBとなっていた。

 しかし件名や日付などはよく分からない記号に置き換わり、肝心の文章も大半の部分が文字化けしてしまっている。

 どこかに意味のありそうな所がないかと読み進めても、意味不明な文字の羅列でとても読めたものではない。

 それでもかなり先まで文字を送っていくと、ようやく普通に読めそうな文章に出くわした。


 A、いきなりだが謝らせてほしい。本当にすまない。今さら言ってもどうしようもないが、あれは遊び半分で会いに行っていい存在じゃなかった。

 本来ならあれは、普通の人間とは一切関わりのないもの。あれの存在を認識さえしていなければ、仮に遭遇しても何もされる事はなかったはずだ。

 だがあれを知った上で会いに行くなんて、わざわざ肉食獣に餌となる肉を運び込んでいたようなものだった……。我ながら、本当に愚かとしか言いようがない。

 こんな事に巻き込んでしまったお前には、いくら謝っても足りないのは分かっている。それでもどうか、せめてお前だけでも無事であってほしい。

 以下に俺の推測を示しておく。この情報を元に、できればどこかへ助けを……。


 大量の文字や記号がばら撒かれたメールの中、読み取れたのはこの辺りがほとんどとなっている。

 後はさらに内容を飛ばし、最後の方になってわずかな文章が残っているだけとなっていた。


 あれは、単に人の心に穴を開ける妖怪という訳ではない。真の目的はその先にある。そもそも、あれ本来の名前……。シン。それの意味を考えれば、答えは自ずと……。


 その後の文章は唐突に途切れ、後には文字化けした文字すらない。

 いくらスクロールしても、ただ空白が延々と続くばかりとなっていた。


「シン。しん……。侵……? まさか……」

 スマホを眺めたままのAはそれからも立ち尽くし、時折側を通り過ぎる人の目も気にせずに考え込んでいる。

「あれが穴を開けるのは、自分が入り込むスペースを手に入れるため……。人の中に入り込んで安全を確保するのが、その妖怪の生存する術だとしたら……」

 集中した頭の中で駆け巡っているのはあの日、山の中で経験した出来事やBの姿などだった。

 それらを思い出す内、意識せぬ間に心臓の鼓動は自然と速さを増していく。

「いや……。仮にそうだとして、妖怪に入り込まれた当人の心はどうなる。乗っ取られるのか? 共存するのか? もしも前者だとしたら……。すでにあいつの中身は……」

 そして視界までもがあの日の夜のように真っ暗に染まろうかとしていた時、不意に背後に誰かの気配を感じた。

「よう、久しぶり」

「……!」

 Aはその方向から聞こえてきた声に、体が跳ね上がる程に驚いている。

「いやー、参ったよ。少し体調が悪くて、ちょっと大学を休んでいたんだけどさ。それもようやく良くなって、今日になって復帰できたんだ」

 今も聞こえてくるのは間違いなくBの声で、抑揚や話し方なども変わっていないのは分かっていた。

「……」

 だがAは何故か振り返る事ができず、体を丸め込むようにしたままそっぽを向けている。

 周囲にはぬめりのある独特な臭気が満ちるようになり、それは明らかに今までの空気とは異なっていた。

 これまでの人生の中であの山でしか嗅いだ事のないそれは、この瞬間にも自分の背後の方から漂ってきているらしい。

「ところでさ、あの山……。覚えてるだろ。できたら、また行ってみないか? 今度は同じゼミの後輩とか連れてさ。な、いいだろ。なぁ、なぁ?」

 一方でBは何ら反応のない相手を変に思う事すらなく、そこからさらに言葉を捲し立ててくる。

「……? あれ、は」

 対するAが体を震わせながら耐えていると、視界の端にゆらゆらと浮かぶ一匹の蛾を見つけた。

 それはすでに自ら飛ぶ力を失い、わずかに吹く風に流されるようにして終いには地面に落ちてしまう。

「そうか……」

 Aは一切の動きを止めた蛾から、何故かそれからも目が離せない。

「俺も、いずれは……」

 いつしか体の震えは収まったが、なおも同じ姿勢のままひたすら固まり続けていた。

「あぁ……? なぁんだ。もうばれちまったのか。くひひひひっ……」

 やがてBは相手のあまりの反応の無さに、何かを察したように笑みをこぼす。

 そのどこか陽気で楽しむような声は、いつまでも耳にこびりついて決して離れる事はなかった。


「はい、お疲れ様。もう結構な量の話をしてきたけど、そろそろお気に入りの話とかは見つかったかな? え? まだなの? んもう、君も欲張りだねぇ。まぁ僕の所にわざわざ来てる時点で、普通の話なんかじゃ満足できないって事か」

 少年は座りながら足を組み、膝の上に手を重ねながら顔を傾けている。

「じゃあそろそろ本格的に夜も更けてきた事だし、とっておきのやつでも話してみるとしようか。もしもそれが駄目だったなら、しょうがない」

 それから頭の後ろに手を回すと、体ごとソファーに倒れ込んでいく。

「その時はまだ他の誰にも教えた事のない、君にだけ教えられる最新情報があるんだけど……。まぁ今はとりあえず、この話を聞いてみてよ」

 そして天井をじっと見つめたまま、その姿勢で言葉を宙に向けて放っていった。

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