第5話 とびらひらき

 そこは近代化されて発展した町の近くにありながら、今もなお豊かな自然の残る場所だった。

 神社の敷地内には様々な木々や植物が生え、周囲は小さな森のようになっている。

 ただし季節はもう冬に差し掛かろうかという時分で、周りの樹木はすでに色鮮やかさを失いつつあった。

 だがそうなってもなお、まだ辺りには厳かで神秘的な雰囲気が多分に残っている。

「馬鹿野郎! そんなふざけた事を言うためにわざわざ俺を連れてきたのか!」

 そんな穏やかさで満たされた空間にあって、それを引き裂くような怒声が響き渡った。

 誰が発したのかと見れば、ランドセルを背負った活発そうな少年が目に付く。

 その少年はやや色褪せた古いジャンパーを着込みながら、今なお収まらぬ怒りに体を震わせている。

「そ、そんな……。急に大きな声出さないでよぉ」

 一方でその真正面にいたのは、真新しいマフラーを首に巻いた同年代の少年だった。

 背には傷一つないランドセルを背負い、びくついた様子で体を硬直させている。

 さらに相手と目を合わせる事もできぬまま、眼鏡の下の潤んだ瞳からは今にも涙が溢れてしまいそうになっていた。

「うるせぇ! もう勝手にしろ! お前なんてどこにでも、さっさと行っちまえばいいんだ!」

 しかしジャンパーの子の怒りは一向に収まる気配を見せず、踵を返すと足早に立ち去っていく。

「ひっく……。う、うぅ……」

 残されたマフラーの子はそれをただ見送った後、しばらく静かな嗚咽を漏らしながら立ち尽くしていた。

 それでもある時、不意に体の向きを変えたかと思うとどこかへ歩き出していく。

「……」

 その歩調はあくまで緩慢であり、途中でふらつきながらも決して立ち止まる事はない。

 虚ろな目は前方にある何かだけをじっと見つめ、いくつもの藪や居並ぶ木々の間をすり抜けていった。


 やがてその行く手にはこの瞬間にも崩れてしまいそうな程の、とんでもなくぼろぼろな社が現れる。

 小さめで古びた外観は全体的にひび割れ、作られてからかなりの時が経過しているのが容易に感じ取れた。

 装飾された部分も大半は外れているか壊れており、前面にある戸のような部分は完全に閉じ切っていない。

 薄暗い内部を覗き込めば、何やら文字らしきものがびっしりと書き込まれているのが確認できる。

 ただしほとんど掠れて判別できない上、いつの時代に使われていたものなのかも分からなかった。

 周囲は深い緑に覆われているが、何故か植物は社を避けるように枝や葉を伸ばしている。

 おかげで壊れかけの社ばかりが目立つ格好となっているが、それでもまだそれなりの威厳や風格は薄っすらと漂っていた。


「……」

 マフラーの子はそれを見つめたまま呆然と突っ立っていたが、やがて一歩ずつそちらへ足を進めていく。

 その度に得体の知れない、言葉にできない迫力のようなものがどんどん増していった。

「うっ……」

 次の瞬間にはこの季節にしてはやけに冷え込んだ木枯らしが、一気に辺りを吹き抜けていく。

「……」

 わずかなりともその場で身を竦めたマフラーの子ではあったが、それからすぐに気を取り直すと再び社へと近づいていった。


「くっ……。何なんだよ……。あいつ。悩みがあるんなら、どうして相談してくれなかったんだ」

 一方で神社を後にしたジャンパーの子は、かなり悔しそうに口を噛んでいる。

「あんな事を言われたって、俺は……。俺は友達だと思っていたのに、あいつは俺の事を……。何だと思ってたんだよ……。ちくしょう……」

 さらにそう続けながら表情を歪め、少しずつ手足の動きを緩めていく。

 その時に脳裏に浮かんでいったのは、少し前にあの場で起きていた出来事についてだった。


「とびらひらき?」

 ポケットに両手を突っ込んだまま、ジャンパーの子は思わず顔をしかめる。

「そうだよ。この地に古くから伝わる伝承なんだって。亡くなったお爺ちゃんが持ってた古い、とても古い本に書いてあったんだ。何でもここの神様はね、人がだーい好きなんだって」

 対するマフラーの子は手振りを交え、何度も頷きながら楽しそうな表情すら浮かべていた。

「あぁ……。そう、なのか」

 だがジャンパーの子の反応は明らかに鈍く、荒唐無稽とも言える話にただ目を丸くしている。

「うん、だからね。あのお社の前で強く願えば、とびらが開いて……。その向こうにある神様のおわす世界に連れて行ってくれるんだって。ね、すごい話だと思わない?」

 それからマフラーの子は、意気揚々と細い指を横に向けていく。

 そちらを見ればその先には、今にも自壊しそうなくらいぼろぼろな小さい社があった。

「ね、ねっ……!」

 ただしそのみすぼらしさとは裏腹に、何度もそれを指し示す少年の目はずっと輝いている。

 かなりの興奮や上気した様を見ていると、疑う事を知らない純心さばかりが目立っていた。

「ふーん……。で、それがどうしたんだよ。まさか本当に、それをやろうって言うつもりじゃないだろうな?」

 逆にジャンパーの子はひどく冷めた様子で、社の方を見ようともしていない。

 足元にあった小石を適当に蹴り飛ばすと、地面の上を転がって先にある草むらに入り込んでいった。

「はぁ……。これならあいつ等と野球しに行った方がマシだったな」

 ジャンパーの子はそれからもなお、行方の分からなくなった小石をずっとつまらなそうに眺めている。

「え、うん……。あのね、僕はうん。やろうと思ってる。とびらひらきをどうしても、やってみたいんだ……」

 するとマフラーの子は体を折り畳むように身を屈め、おずおずと自分の両手の指を突き合わせていった。

「何言ってんだ、お前。そんな訳の分からない事をやって、どうなると思ってんだ。神様の世界? そんな所に行って、戻ってこれるのかよ?」

 それからもジャンパーの子の応対は芳しくなく、呆れたように溜息をつくとようやく正面へと視線を戻す。

「戻ってこられないよ」

 その直後に返ってきたのは、やけに短くはっきりとした声だった。

 声色も声量も大して変わっていないのに、どうしてだかそれは辺りに響き渡るように確かに浸透している。

「……!?」

 予想だにしない言葉にジャンパーの子は耳を疑うが、相手は先程同様の姿を保っていた。

「だってそこは、神様のおわす世界なんだもの。ただの人である僕が、行けるだけでも恵まれ過ぎた事なのに。そこから戻ってしまうなんて。あまりにも無礼だよ。ありえない」

 微塵も疑わぬ素振りを見ていると、周囲の薄暗い雰囲気も相まって空恐ろしささえ感じられる。

「は……? そもそも、何でそんな所に行かなくちゃいけないんだよ。ば、馬鹿じゃねぇの。行く理由がないだろ。り、理由が」

 それを目の当たりにしたジャンパーの子はやや動揺すると、視線を縦横無尽に揺らしたまま声を上ずらせていていった。

「ううん。僕には、あるよ。僕はね、心底この世界が嫌になったんだ。親からは勉強、勉強って口うるさく言われて。学校でも先生から、お前に一番向いているのは勉強だって言われてさ」

 一方でマフラーの子はわずかに顔を俯かせると、頭を手で何度も掻いていく。

「結局、僕の事なんて誰も何も気にしてなくて。塾でも家でも、どこにも。最初からこの世界に、僕の居場所なんてなかった。皆、僕の成績にしか興味がなかったんだ」

 段々と強まる語気に同調して手の動きも徐々に早くなり、次第に髪をかきむしるようにまでなっていった。

「……」

 ジャンパーの子はその異様かつ執拗なまでの姿に対し、絶句したまま立ち尽くしている。

「だからね、僕は決めたんだ。勉強なんてない、うるさい親や先生もいないそんな所へ……。とびらをひらいて、いこうって。今日の朝、自然と思い立ったんだ」

 やがてマフラーの子はぴたっと手を止めると、再び顔を正面へ向けていく。

 その顔に浮かぶ微笑みには、儚さと同時に狂気が確かに入り混じっているかのようだった。

「どうして、俺にそれを言うんだ……」

 対するジャンパーの子はポケットから手を出す事も忘れ、顔を歪めながらどうにか言葉を絞り出している。

「……君が友達だから」

 それから少し間を置いた後、マフラーの子はやけに小さく呟いていった。

 その時に限ればおかしな様子は消え失せ、年相応の普通な姿に見える。

「……?」

「勉強しかできなかった僕に気さくに話しかけたり、色々と遊びに誘ってくれたのは君だけだった。何もかもが無関心な僕の家族と違って、君だけが僕にとって救いだったんだ」

 マフラーの子はそれから目を細めると、懐かしい事を思い出すかのように語り出していった。

「……」

 一方でジャンパーの子は眉間にしわを寄せたまま、なおも複雑そうに話に聞き入っている。

「僕がこんな風に思い切れたのも、君のおかげで変われたから。そんな大切で、唯一の友達だからこそ……。最後にせめて、お別れをしておきたかったんだ」

 やがてマフラーの子はそっと手を伸ばすと、別れの握手でも交わそうとしているかのようだった。

「くっ……」

 しかし肝心の相手は顔をしかめるだけで、ポケットから手を出そうともしない。

 むしろかなり力が込められた腕や前のめりの体を見ると、手を余程強く握り締めているかのようだった。

「どう、したの?」

「このっ……」

 続く無自覚な声にその怒りも頂点に達したのか、ジャンパーの子は体を仰け反らせるように上を向く。

 息を大量に吸い込んでその胸が大きく膨らむと、次の瞬間にはそれまでになく盛大に口が開かれていった。


「馬鹿野郎!」

 そしてつい少し前に叫んだのと同じくらい大きな声を、ジャンパーの子は思わず叫んでしまう。

「何で、そんな事をしようって言うんだよ……。お前がそんな事をして、俺が喜ぶとでも思ったのかよ……」

 それでも大声を出して落ち着きを取り戻したのか、その後は声の調子を一気に下げていく。

 落胆の気持ちも大分強まってきたのか、すでにいつ止まってもおかしくないくらいに歩く速度が落ちていた。

「俺がお前に声をかけたのだって……。俺は、単にお前と……」

 やがてそう言いながら立ち止まると、そこは先が二手に分かれた道となっている。

「へぇ……。どうやら、随分落ち込んでいるみたいだね?」

 その直後、分かれた道の片側からはとても涼やかな声が放たれてきた。

「……!?」

 驚いた少年がそちらを見ると、そこにはつい直前まで気配も感じなかった誰かの姿がある。

「やぁ」

 気さくに手を振る少年は気温の低さに合わぬ半袖と半ズボンを着用し、目深に被った帽子によってその表情はよく窺えなかった。

「何だよ、お前……? この辺ではあまり見かけない奴だな。違う学校の奴か?」

「さぁ? 別に僕の事なんて、どうだっていいでしょ。あぁ、もちろん君についてもそれは同じ。間違っても自己紹介なんてしなくていいから」

 それからも少年の口元は常に余裕に満ち、帽子を被り直しながら言い返してくる。

「は……?」

「今、君が知りたいのはもっと違う事なんじゃないかな。例えば、こことは異なる世界へ行く方法とか……」

「お前……! 何でそれを……。お前もあいつから聞いたのか?」

 ジャンパーの子も初めは怪しんでいたが、予期せぬ言葉に目の色を変えて詰め寄っていく。

「聞く? 僕が? まっさか。僕は教える、伝えるくらいしかやらないよ。それ以外の事なんてとても、とても。あんまり露骨にやり過ぎると『対怪機関』、あるいは『破魔祇衆』なんかが動き出して面倒だし」

「……? じゃあ、何なんだよ。お前は何を知ってるって言うんだ?」

「そうだねぇ。まぁ、それは色々と。例えば異世界に行くのにも二通りのやり方があってね。表側から行くのと、裏側から行くのでは大分勝手が違ってくるんだ」

 一方で相手は飄々とした立ち居振る舞いのまま、ぐるりと円を描くように歩き出していった。

「表側から行くのなら特別な呪具、あるいは相性なんてのも必要になってくるけど……。裏側だとそうじゃない。運は絡むけど、誰でも行く事ができる。夢さえ見られればね」

 その時々によって見える顔の角度は違うが、どうしてだか完全に表情を捉える事は叶わない。

「ただ裏側から行く場合は、ほとんど一方通行なのが問題かな。ごく稀に戻ってこられる事もあるけど、大概は向こうに行きっ放しだし」

 やがてぴたりと動きを止めたかと思うと、こちらに背を向けたまま独り言のように呟く。

「は?」

「まぁ今回、君が知りたいのは表側から……。具体的には、あの社を使った方法でしょ?」

「そ、そうだ……! いや、そもそもそんな事が本当にできるのか……!?」

 直後にはジャンパーの子が相手を追い越しつつ、横から顔を覗き込もうとする。

「それはまず、行く人間次第だろうね。表側から行くのなら、選ばれた人間以外はまず無理さ。本人がいくら望もうと、ね」

 一方で少年はそれより早く歩き出すと、そのまま相手との距離を空けていった。

「じゃあ、もしも選ばれたのなら……?」

「さぁ? 僕は試した事ないし、試すつもりもないから。どうなるかなんて知った事じゃない」

「は……?」

 なおも困惑や疑問を隠せないジャンパーの子だったが、答えを知るはずの相手はむしろここから遠ざかろうとしている。

「でも……。もしも……。もしも選ばれた人間があの場にいて、本気でそう願うのなら。この世界そのものを真に厭うのなら。とびらは、自ずとひらかれるかもしれないね」

 それから少年はふと立ち止まったかと思うと、顔は横を向きながら視線をかなり上げていく。

 その口調は静かで落ち着きながら、まるでここではないどこか遠くにいる相手に語り掛けているかのようだった。

「お、おい……」

「僕はもう行くよ。これでも暇じゃないんだ。じゃあ、後は好きにして」

 置いてけぼりにされたようなジャンパーの子は思わず手を伸ばそうとするが、相手は構わずぐんぐんと先に進んでいく。

「それにしても、意外と残ってるものだね。あの箱だけじゃなく、社までまだ無事だったとは……。人の業の深さには、全く恐れ入るよ」

 やがて道を進んだ先の角を曲がる直前、最後に見えた横顔には微かな笑みすら浮かべていた。

「お、おい……!」

 それからジャンパーの子が慌てて追いかけるも、角を曲がった瞬間に気配は完全に途絶えてしまう。

 つい直前までしていた声も、今となってはあやふやで不確かなものに思えてしまった。

「ったく……。何なんだよ。どいつもこいつも好き放題、言うだけ言いやがって……。ちっ……」

 一人で立ち尽くす少年は苛立ちを隠せず、足元にあった小石を気紛れに蹴り飛ばしていく。

 舗装されたコンクリートの上を何の障害もなく転がっていった小石は、やがて側溝の小さな穴に吸い込まれて消えていった。

「……まさか。いや、本当にまさかとは思うけど。でも、くっ……。あいつなら、やりかねないか……! ちくしょう……!」

 その様を見るとジャンパーの子の顔は一気に強張り、思い立つと同時に力の限り駆け出していく。

 青ざめた顔は少しでも早くマフラーの子を見つけようとしているが、見えてくるのはくすんだ色をした木々ばかりでしかない。

 どれだけ目を凝らしても相手が見えないと、焦燥感ばかりが募ってしまう。

「待って、いろよ……! 俺が、行くまで……。ちく、しょおおお……!」

 それでもジャンパーの子は衝動を力ずくで抑え込むように、ただがむしゃらに走る速度を上げていった。


「ふふっ。あんな事言われちゃった。馬鹿野郎だなんて……。あぁして面と向かって言われると、案外傷つくものなんだね」

 時をほぼ同じくして、マフラーの子は社の前で一人で放心していた。

 わずかに緩んだ目元や口元に加え、その声色は非常に落ち着いている。

 だが身に纏う雰囲気はどこか自虐的で、今にも崩れてしまいそうな脆さすら漂わせていた。

「あーあ……。結局、こうなってしまうんだ。僕はいつでも、どこでだって……。ずうっと一人ぼっちのままだ。最後の最後まで、つまらない一生だったなぁ……」

 そう呟きながらじっと見つめる先には物言わぬ社があり、まるでそれ自体に話しかけるように近づいていく。

 顔つきには感情の欠片もなく、ふらふらと揺れる体も不安定そのものだった。

「ねぇ、神様。いるんでしょ? 僕を連れて行ってよ。そっちに……。あなたのいる所に、僕を迎え入れてよ……!」

 やがて両手を前に突き出すと社をぐっと掴み、頭を垂れたまま悲痛な声を上げていく。

 他に縋るものがないような必死さは目からこぼれる涙にも現れ、真っ直ぐに落ちたそれらは乾いた地面を次々に湿らせていった。

「もう、僕は……。こんな世界に一秒、一瞬ですらいたくないんだ……!」

 そしてさらに続けてもう一滴の涙が地面に落ちた瞬間、それを合図にしたかのように異変が起こり始める。

 目の前にある社の内部からは、いきなり目を覆わんばかりの眩しい光が溢れ出してきた。

「……!?」

 いきなりの事に驚いた少年はすぐに後ずさるも、前方からの光は一向に収まる気配はない。

 むしろより強まるようにしながら、やや薄暗い辺りを真夏の太陽の下のように激しく照らし出していった。

「あ……。え、え……?」

 一方で少年はただ狼狽えるばかりで、その場から立ち去る事もできずにいる。

 すると直後には社の前面にある戸が勝手に開き、中に安置されたものが露わになっていく。

 そこに収めてあるのはかなり古そうな鏡で、それ自体が眩い光の根源に他ならないようだった。

 ただ何らかの光を反射しているという訳ではなく、鏡そのものが放つ輝きは人工的な明かりとはどこか違う。

 そんな怪しさや不気味さすら漂わせる光は、どう見ても普通の常識とはかけ離れた存在でしかなかった。

 そんなものがいきなり眼前に現れれば、もうとっくにここから逃げ出してもおかしくない。

「え、もしかしてこれ……。この社じゃなくて、この中にある……。これが、とびらだとでも言うの……?」

 しかし少年は困惑する様子はあっても、むしろおもむろに社の方へ足を踏み出す。

「すごい……。やっぱり、本当にあった。こことは違うどこかへ。僕の嫌なものなんて何一つない、素晴らしき世界への入口が……」

 熱に浮かされたような表情に加え、その目もずっと探していたおもちゃを見つけたような羨望に染まっていた。

 社はすでにほんの目の前で、後は手さえ伸ばせば光に届きそうな程にまでなっている。

「やめろ!」

「え……?」

 だが背後から大きな声がすると、マフラーの子は思わず動きを止めて振り返っていった。

「はぁ、はぁ……。何、やってるんだよ。お前……。ふぅ……。そんな、訳分かんないものからは……すぐに離れて、こっちに来い……」

 見ればそこにいたのはジャンパーの子であり、全身からは玉のような汗を流している。

 肩で息をしながらもなかなか胸の動悸は収まらず、気を抜けばすぐにでも座り込みそうな程に疲労は蓄積していた。

 それでもあくまで視線は前方に固定されたまま、ゆったりとした足取りで今も前に進み続けている。

「何で……。どうして来たの?」

 対照的にマフラーの子は一切の動きを止めたまま、訳が分からないといった様子だった。

「っはぁ……。決まって、いるだろ……。お前は、俺の……。はぁっ……。大切な、友達だからだ……」

 ジャンパーの子は普段と違ってうまく口が回らない事をもどかしく感じつつも、なおも懸命に言葉を口にしていた。

 その足は相手まであともう少しという所で止まったが、向ける視線は片時もぶれていない。

「え……。え……?」

 一方でマフラーの子は純粋な驚きに包まれ、ただ顔や視線を右往左往とさせていた。

「こんな事、もうお前は覚えていないかもしれないけどな……。まだ俺達が小さかった頃、お前は今よりずっと明るかった。皆の人気者で、いつも周りには人がいた」

 それからジャンパーの子は肩を下げて大きく息を吐きながら、脇腹の辺りを抑えつつも話し出す。

「逆に俺は人見知りが激しくて、誰とも打ち解けられなかった。いつも一人で、本やおもちゃだけが友達代わりだった。そんな俺に声をかけてくれたのが、お前だったんだ」

 以降も荒い呼吸と言葉を重ねつつ、その目はかつての光景を思い出すように静かに細められていった。

「……」

 対するマフラーの子は心当たりがあるのか、先程から目や口を開きっ放しにしている。

 呼吸すら忘れているような当人の脳裏にあったのは、今よりもっと幼い頃の二人の出会いの場面に他ならないようだった。

「あの時、お前の笑顔があったから俺は救われた。一人じゃなくても、楽しい事や嬉しい事はたくさんあるんだって……。初めて、知る事ができたんだ」

「じゃあ……。その恩返しのつもりだったの? それから、僕に声をかけてくれたのは……」

「違う。俺は単にお前ともう一度、友達になりたかっただけなんだ。気恥ずかしくて、これまで言えなかったけどな……」

 やがてジャンパーの子は息を整え終えると、口元の辺りを腕で拭っていく。

 やっと言えたのは心からの本音なのか、まだ表情は少し曇っていても真剣そのものだった。

「そんな……。本当なの……? だったら……。だったら、僕は……」

 一方でマフラーの子は真顔のまま、今までにない感情の揺らぎを見せている。

 不安定になった体は勝手に後ろに下がると、その時に丁度社の方へ手がぶつかってしまう。

「僕は、どうしたら……。神様!」

 すると救いを求めるように社の方へ向き、今度こそ掴もうと両手を伸ばしていった。

「かつて俺は、お前に助けられた。だから……。今度は俺が、お前を助ける番だ!」

 ジャンパーの子がそれを止めるように動き出そうとすると、その瞬間にまたもや異変が起こる。

 まるで二人の邂逅を阻むかのように、社の中の鏡からは先程よりも一層強い輝きが放たれていった。

 それから薄暗い辺りは一気に閃光に支配され、目が眩む程の明るさが周囲に広がっていく。

「く、う……!」

「わ……!?」

 間近からそれを受ける二人は驚き、目を瞑ったり手で覆うなどして光を防ごうとしていった。

 それから光が徐々に勢いを失くしていくと、ようやく鏡の様子を窺えるようになる。

 二人が揃って社を恐る恐る覗き込むと、一瞬だけ鏡の表面が不意に歪んだように見えた。

「え……?」

 しかしそれに目を疑う暇もなく、鏡面には揺らめく何かが映り込む。

 すると次の瞬間には、いきなり鏡の中から予期せぬものが飛び出してきた。

「!?」

 あまりにも常識の範疇にない異常な光景の連続に、二人はただただ言葉を失っている。

 その直前に鏡から抜け出てきたのは人の手のようにも見えるが、その長さは明らかにおかしい。

 不気味なくらい青白いそれは妙にうねっており、不定形のまま空中ですでに何メートルも伸びていた。

「……」

 二人はそれをじっと見上げたまま、口を閉じる事すら思い付かない程の衝撃を受けている。

 それからも謎の手は辺りの様子を窺うように宙を漂っていたが、急に予兆もなしに動き出す。

 その速度はこれまでのゆったりとした緩慢さが嘘のようで、狙いも事前につけてあったかのように正確だった。

「えっ、えぇ……!?」

 マフラーの子は自分目掛けて飛び込んでくる謎の手に対し、行動を起こす暇さえない。

 がっしりと腕を掴まれると、強く引っ張られながら無理矢理にその場を動かされていった。

「やだ……。やめて……! 離してってば……!」

 どうにかして抵抗を試みるも、見た目以上に手の力が強いのか効果はない。

 わずかでも引き込まれる速度は落ちたが、その体は今も謎の手が伸びる鏡の方へ近づきつつあった。

「ま、待って。ねぇ、待ってってば! もしかして、僕を連れていくつもりなの……? とびらの向こうへ。こことは違う、別の世界へ……!」

 それからもマフラーの子が抵抗を続けていると、痺れを切らしたように新たな手が伸びてくる。

 その手は腕から指先に至るまでが漆黒に染まり、今さらだがこちらも明らかに人のものではない。

「うっ、わっ……!」

 不気味な鏡からなおも発せられる白と黒の手は、挟み込むようにマフラーの子の両肩を掴み取る。

 そして更に力を込めると、そこから一気に自らの元へ引きずり込もうとしていった。

「待って! やっぱり、僕は……。僕は向こう側に行きたくない……。もうそっちに行く必要なんて、僕にはなくなったんだから……!」

 対するマフラーの子は首を盛んに横に振りつつ、腰を下に落として少しでもその場に留まろうとする。

 だが手が力を緩める事もなく、それからもずるずると引きずられていく。

 社を見ればさらに発せられる手の本数が増え、何かを受け入れようと蠢き続けていた。

「あぁ、全くその通りだ……!」

 そんな時、どこから探してきたのか太い木の棒を手にしたジャンパーの子がいきなり側方に現れる。

「嫌がっているんだから放してやれよ……。この、化け物が!」

 そして憤りのまま、木の棒を何の躊躇もなく振り下ろしていく。

 それは白い方の手を的確に打ちのめしたが、ぶよぶよとした柔らかな感触しか返ってこなかった。

 衝撃などは全て吸収や分散されてしまったのか、表面は波紋が伝わるように波打っている。

 木の棒をどかしても叩いた箇所には傷跡の一つすら確認できず、わずかな痛みすら与えられていないようだった。

 そのために手の動作はそれからも変わらず、むしろラストスパートと言わんばかりに引く力を増しつつある。

「わっ、わぁぁっ……」

 もう進退が窮まった少年の目元には、涙すら浮かぶようになっていった。

「ちっ……。何だってんだよ……!」

 自分の力が通用しないと悟ったジャンパーの子は、焦りを浮かべながら木の棒を投げ捨てていく。

「おい、踏ん張れ……! ここで踏み止まらないと、本当に後がないぞ……!」

 そしてマフラーの子の背後に回り込むと、後ろからしっかりと体を掴んで引き戻そうとしていった。

 二人分の力によって一気に体を持っていかれる事はなくなったが、向こうの勢いを完全に止めるには至らない。

 今も少しずつだが社の方へ引き込まれ、足元では地面や木の葉を掻き分けながら車の轍のようなものを作り上げていく。

 このままでは謎の手に直接掴まれているマフラーの子だけでなく、決して離れようとしないジャンパーの子も道連れにしてしまいかねなかった。

「う……。ど、どうしよう……」

 マフラーの子は自分を掴む別の手を交互に見つめ、困ったような表情や迷うような仕草を幾度となく繰り返す。

「……」

 それでもある瞬間からふと考え込むように目を瞑ると、こんな状況でも何かを考え込んでいった。


「ふふっ……」

 時間にすればそれはほんのわずかな間だったが、やがてどこか寂しげな顔を動かしていく。

 なおも強い恐怖を感じているはずなのに態度は落ち着き、視線は今も名残惜しそうにただ一人に向けられていた。

「もういいよ」

 そして次に響いた声はか細くとも、空気を震わせるように確かに相手の耳に伝わっていく。

「……!?」

 驚いたジャンパーの子は強張った顔つきのまま、思わずそちらへ目を向ける。

「今まで、ありがとう」

 その先にいるマフラーの子は儚げな笑みを浮かべ、直後に唐突に手を振り解いていった。

「おい……!?」

 すると支えを失くしたように体はふらつき、慌てて手を伸ばしても間に合わない。

 しっかりと掴んでいたはずの手はすでに引き剥がされ、二人の間にはあっという間に距離が生じていった。

「……」

 だがむしろその事を喜ぶかのように、マフラーの子は一切動じていない。

 足掻くのを止めた体は今や複数の手に絡め取られ、ゆっくりと社の中に引きずり込まれようとしていた。

「何で……。何でだよ! どうして……!」

 その光景を目の当たりにしたジャンパーの子の悲痛な叫び声は、最後の最後で相手に届いたらしい。

「友達だから」

 マフラーの子は疲れ切ったような、意識の薄弱な様子でも決して立ち消えぬはっきりとした声で言い返す。

「……!?」

 それを聞いたジャンパーの子は目を見開き、問い返すかのように相手を見据えていった。

「君は僕の大切な友達だから、もうこれ以上は巻き込みたくない。こうなったのは僕のせいだから……。だから、もういいんだ」

 対するマフラーの子は真面目な顔で呟きながら、その体はすでに鏡の中に取り込まれつつある。

 それでも後悔の感情は微塵もなく、ただ諦め切ったように顔を横に振っていた。

「ふざけるな……。ふざけるなよ! お前に最後まで付き合うってのは俺の意思だ。お前が何を言おうとこれは変わらないぞ! そうさ、俺達は友達なんだ。だから……!」

 一方でジャンパーの子はむしろ決意を新たにすると、前に進みながら手を突き出すように伸ばしていく。

 荒々しい声や態度とは裏腹に、縋るような目付きにはそれまで以上の覚悟が感じ取れた。

「いや、いいんだよ。僕には、その気持ちだけで充分だから。本当に、充分なんだから……」

 しかしマフラーの子はそれまでと同様に、弱々しい笑みを浮かべた顔を振るばかりとなっている。

 やがて次の瞬間には鏡から溢れんばかりの光が発せられ、マフラーの子の姿は後光によってほとんど見えなくなってしまう。

 あまりにも強い輝きは鮮烈であり、人知の及ばぬ畏怖への感情を強く呼び起こさせた。

「……」

 ジャンパーの子も見惚れるように動きや視線を止めると、ただその場で立ち尽くすしかなくなる。

 するとその直後には、放たれている光は瞬間的にさらに強まっていった。

「うわ……!」

 眩い光を直に受けると体は勝手に委縮し、思わず閉じた瞼の裏には何も映らなくなってしまう。

 それからすぐに光は収まったようで、辺りは元の薄暗さを取り戻しつつあった。


「……?」

 ようやく視界が元に戻ったのを確認すると、ジャンパーの子は目を開いて周囲をぐるりと見回していく。

 あれだけ放たれていた光もすでに完全に消え失せ、その場には自分一人だけが残されるのみとなっている。

 先程までいたもう一人の少年の姿や痕跡は跡形もなく、初めから存在していなかったような静寂さがあった。

「……」

 そして茫然自失とするジャンパーの子は瞬きすら忘れたように、それからもいつまでもその場に突っ立っている。

 視線の先には扉が開いたままの社と鏡があり、うらぶれた雰囲気は余計に今の虚しさを際立たせるかのようだった。


「馬鹿野郎。何で……。何でだよ……」

 やがてたった一人きりになったのを実感すると、ジャンパーの子は消え入りそうな声で呟く。

 悔しそうな表情で座り込む姿は別人のようで、それからも打ちのめされたまま立ち上がる事もできない。

 その顔からはいくつも水滴が垂れ、落ちる度に地面へ吸い込まれるように消えていった。

「あの……」

 そんな時、ふと背後から申し訳なさそうな声がしてくる。

「どうしてこうなる前に、相談してくれなかったんだよ……!」

 だがジャンパーの子に聞こえた様子はなく、握り締めた拳を何度も地面に叩き付けていた。

「えっと……。あ、あのっ……!」

「な、何なんだよ……! えっ……!?」

 直後に目元を拭いながら振り返ると、ジャンパーの子はすぐさま驚愕の表情を浮かべる。

 その瞳はこれまでになく大きく見開かれ、心臓も激しく脈打ち出したようだった。

「お……。お前、何でそこに!?」

「うーん、えっと……。何かよく覚えていないんだけど……。真っ白で、変な空間を通って……。気が付いたら、神社の裏手に出ていたんだ」

 そこにいたのはマフラーの子で、当人は頬の辺りを掻きながらしきりに辺りを見回している。

「何だよ、お前。こ……。このぉっ……」

 対するジャンパーの子は上ずった声を発しながら震えていたが、急に勢いよく立ち上がっていく。

「う、うわっ……!」

 自身に素早く駆け寄るその様を見ると、殴られるとでも思ったマフラーの子は思わず身構えていった。

「大馬鹿野郎!」

 しかしジャンパーの子が伸ばした手は開かれたまま、相手の肩をしっかりと掴み取っていく。

「え……? え……?」

 予想と違う展開にマフラーの子は戸惑い、閉じていた目を恐る恐る開いて眼前の様子を窺っていった。

「いや……。とにかく、無事で良かった……。お前が戻ってこれなかったら、俺は……。いいか。もう二度と、こんな事するんじゃないぞ……」

 そこにいる相手は顔を俯かせたまま、その手や体は小刻みに震えている。

 見れば目元からは透明な液体が何度もこぼれ、きらきらと輝きを放ちながら落ちていった。

「う、うん……。うん……。ありがとう。僕は……。僕は、決して一人なんかじゃなかったんだよね……」

 それを見たマフラーの子は深く頷き、同じように顔を俯かせる。

 目元をそれから何度も拭いつつ、その顔にはいつまでも嬉しそうな笑みを覗かせていた。

 辺りの雰囲気には少しの異変や怪しさもなく、すでに微かな風の音以外はほとんど静まり返っている。

 そんな場所にいるのがたった二人だけでも、そこはとても暖かで心地の良い空気で満たされているかのようだった。


「お……? こんな所で何をしとるんじゃ、お前達?」

 それから少し経った頃、静寂を裂くように唐突に声がしてくる。

「……?」

 二人が気付いてそちらを見ると、和装に身を包んだ神主らしき老人の姿があった。

 その手には長い箒も握られ、顎には長く伸びた白い髭が蓄えられている。

「あ、うん……。えぇっと……。べ、別に? 何にもしてないよ」

「あ、あぁ……! そう、そう……!」

 対するジャンパーの子は急な事に狼狽えつつ、何度も何度も深く頷いていた。

「むぅ……。本当か? まぁ何かいたずらしようにも、この辺りにはろくなものもないが……。ん? 何で社が開いとるんじゃ?」

「……うっ!」

「ぁ……」

 やがて神主が不審を覚えつつ辺りを見回すと、二人はつい不用意に声を上げてしまう。

「お前達ぃ……。やっぱり何かしたのではないか? 余程の事でなければ怒らんから、さっさと白状した方が良いぞ?」

 すると神主はやけにゆっくりと振り返り、懐疑的な視線を投げかけてきた。

「や、やだなぁ……。俺達、町でも評判の良い子なんだぜ? それが、まさかそんな悪い事なんてするはないじゃん」

 応じるジャンパーの子は笑っているが、どうも何かを誤魔化しているようにぎこちない。

「……」

 マフラーの子も若干顔を引きつらせ、体は後ろめたい事でもあるかのように萎縮していた。

「それならいいが……。昔、都市伝説や怪談など……。そんなものが流行った時にはのぅ。ここにも若い奴等が大勢押し掛けてきて、それは大変だったんじゃぞ」

 一方で神主はすでにそちらを見ておらず、社の内部をじっくりと覗き込んでいる。

「えっ? そんな事があったの?」

 すると二人は安堵した様子を見せつつも、不思議そうに聞き返していった。

「うむ。何故かは知らんが、誰もが急に競うようにここを目指してのぅ。その時には色々と荒らされて、随分とひどい事になったんじゃ。まぁそれも一時期だけで、そんな不心得者も自然といなくなったが」

「……! そ、その人達ってどうしてここに? 何か、目的でもあったのかな」

 それからマフラーの子は心臓が跳ね上がるように大きく反応すると、珍しく積極的に前に出てくる。

 あまりの勢いに隣の少年はもちろん、神主の方も驚いたように見返していた。

「うーむ。そこまではわしも知らんのぅ。何しろ誰が来ても追い返すばかりじゃったし……。おぉ。じゃが一人だけ、若いのが尋ねに来た事があったの。妙に礼儀正しく、雰囲気も只者ではなかったから覚えておるが。確か、とびらがどうとか言っておった」

「え、それって……!? 前にもここでとびらがひらかれたって事? その時って、誰かがいなくなったりしたの?」

「ん? とびら? 何を言っておるんじゃ?」

「何って、とびらひらきだよ! そういう伝承がここにはあるって……。神主さんなら、知っているでしょ?」

 それからもマフラーの子は懸命に、相手に食ってかかるように前に出ていく。

「む? あぁ、そう言えばそんな与太話もあったのぅ」

「与太話?」

 やがてジャンパーの子に後ろから腕を引かれると、ようやく当人は疑問を浮かべながら動きを止めていった。

「そうじゃ。いきなり何を言うかと思えば。はっはっは……。まぁ、与太話というのは言い過ぎかもしれんが。そんなものは、あくまで単なる伝承に過ぎんよ」

 神主はしわがれた声を辺りに響かせつつ、開きっ放しとなっていた社の扉を丁寧に閉めていく。

「全く……。異界への扉なんぞ、そう簡単に在るものではないわ。昔のそのまた昔、わしの曾祖父さんの知り合いの神社にそういうものがあったと聞いた事はあるが……。まぁ、眉唾じゃろうて」

 そしてまだ表情に軽く笑みを残しつつ、やんわりとした顔つきで二人の事を見据えていった。

「……」

 その先にいる二人は呆然とした顔を見合わせたまま、なおもどうなっているのかと不思議がっている。

「で、でも……。もし、本当にとびらがひらいて……。向こう側から、何かが……。例えば、手を伸ばすとかしてきたら……?」

 ただマフラーの子はまだ固執するように、やがておずおずと話を切り出した。

「む? そうじゃのぅ。うーむ……。うぅむ……」

 すると神主も神妙な顔つきとなり、先程からの笑みを潜ませていく。

 さらに顎から伸びる長い髭を擦っていくと、声を唸らせながら深く考え込んでいった。

「ねぇ、どうしてそんなに考え込んでいるのさ?」

「うむ。仮に、そのとびらとやらがひらいたとして……。その向こうには一体、何がいるんじゃろうな……?」

「え?」

「いや、ここの神様はきちんと本殿に祀られておるからな。ここは昔からある社というだけで、ここにおられるなんて事は間違ってもないと思うんじゃが……」

 ふと社の方へ目を向ける神主には、嘘や相手をからかう素振りはない。

 当の社は日が落ちてきて段々と暗さを増す辺りの中でも、何故か特に薄暗く見える。

「……」

 その場にいる三人はしばし黙り込んだまま、人それぞれ違う感情の入り混じった視線を注いでいった。

「で、でも……。お爺ちゃんの本だと……。あ、あの人から聞いた話だって……」

「まぁ、何しろ古い話じゃからな。伝わっている事にも多少の差異や、間違いはある。むしろ昔から伝わっているからこそ、細部には事実と異なる部分も出てくるんじゃろうて」

「そ、そうなのかな……?」

「うむ、そうじゃとも。それにもし仮に、向こう側に何かがいたとすれば……。それは明らかに人外の類。神とも魔性のものとも知れない、恐ろしいものじゃ。うかつに関わるべきではない」

 やがて神主は自ら納得するように頷くと、箒を持ち直して歩き出す。

「本来ならこの世と繋がりのないものを、わざわざこちらから招き入れる必要などないんじゃからな」

 そしてこちらには背を向けていくが、その時だけは声が低く重くなっていったような気がする。

「う、うぅ……。さっきは自分で与太話なんて言ってたのに、脅かさないでよ……」

「ん? お、おぉ。そうじゃな。すまん、すまん。まぁこんな所に近寄らなければ、そもそも大丈夫なはずじゃ。さぁ、もう暗くなるから帰るといいぞ。周りが見えなくなってからでは、遅過ぎるからのぅ」

 それでも直後には神主はあっけらかんとした様子を見せると、箒を手にしたまま立ち去っていった。


「……」

 一方で残された二人はまだどちらも考え込み、それからも帰ろうとせずにその場に留まっていた。

 だが明瞭な答えなど見つかるはずもなく、その間にも日はどんどん落ちていく。

 見れば空はとっくに暗くなり、もう夜になったと言って差し支えない時間にもなっている。

「……で、これからどうする?」

 やがてジャンパーの子がポケットに手を突っ込むと、緊張を解くように息を吐く。

「う、うん。と、とりあえず……。もう遅いし……。帰ろっか……」

 その横顔を見ながらマフラーの子も頷くと、二人して横並びにその場から立ち去っていった。


 やがて神社を抜けて道路に差し掛かると、一気に人工物の増えた町中に出る。

 そこでは人工的な明かりがそこかしこに目に付き、木々ばかりで真っ暗だった境内とは景色から違う。

「わぁ……」

「おぉ……」

 二人はそれを見ると思わず表情を変え、躍り出るように前に進み出す。

 そしてそのまま道路を進んでいくと、やがて左右に大きく分かれた道に行き当たった。

「じゃあ……。また明日な」

 そこから右へと進もうとしていたジャンパーの子は、途中で手を上げながら振り返ってくる。

「ぁ……。うん。また……。明日ね」

 マフラーの子は初めこそきょとんとしていたものの、すぐに嬉しそうに応じて手を上げていく。

 すでに夜空では星が瞬くようにある下で、二人はそれから確かに視線を交わしてから別れていった。

 直前までは交差していた二人の影も、それから徐々に離れるようになっていく。

 ただ例えこの瞬間には離れ離れになろうと、同じ世界にいる限りは必ず再び巡り合えるに違いない。

 そう確信している二人を祝福するかのように、町の明かりの煌めきも頭上の星々に負けない爛々とした輝きを放っていた。


 丁度その頃、人気のなくなった境内はかなり閑散とした空気で満たされていた。

 乾いた冷たい風の吹き荒ぶ辺りには人はおろか、虫や獣の姿も見当たらない。

 すでに明かりが消え失せたそこは完全な暗闇に包まれ、明るく華やいだ町中とは一線を画していた。

 そんなまともな視界すら確保できないような場所ではあるが、不意にその内の一点にわずかな光が灯る。

 よく見れば内部から光を発しているのは社であり、今も光が扉の隙間から漏れているようだった。

 さらにそれから社の扉は誰の力も借りずに、ぎちぎちと軋んだ音を立てながら開いていく。

 やがて扉が開き切るとその中にある鏡からは、まず人の唸り声にも似た不気味な音が発せられる。

 その直後には奇怪でおぞましい光と共に、何本もの手が一斉に宙へと向けて放たれていった。


 手は社の周囲を旋回しながら増え続け、やがてそれが止まったかと思うと鏡にいきなりヒビが入る。

 鏡はその上でカタカタと音を立てながら震え出すと、遂には鏡は真っ二つに割れてしまった。

 そして一番大きな破片が鈍い光を纏うようになると、やがてそこから新たに光が溢れ出す。

 初めは不定形だったそれは宙を漂う内に、段々とその形を確かなものに変えていく。

 長い髪や手足を持ったそれは少しずつ人の形になると、最終的には女の姿へと変貌していった、

 女は体の輪郭には淡い光のようなものを身に纏い、なおもその場に立ち尽くしている。

「し、うん……」

 しかし急にそう呟いたかと思うと、前に動きながらふっとその姿を消していく。

 周囲には今度こそ何も残されず、ただ平穏な風景ばかりがいつまでも在り続けるばかりとなっていた。


「ふぅ……。さて、これでこの話はひとまずお終い。何だか他のと比べると、あまり直接的な被害は少なかったかな? 君はどう感じた?」

 一仕事終えた少年はソファーに座り直すと、やや砕けた態度で正面を見据える。 

「え、あの社は何だったのかって? さぁて、ね。あれはどこか、別の異界に通じていたのか。それとも常識的な現実にはそぐわぬ、この世に出してはいけないものを封印していたのか」

 次に顔を傾げたかと思うと、ころころと表情を変えながら呟いていった。

「果たして君は、どう思う?」

 続けて放たれた挑戦的な視線に自分が応じようとすると、その前に相手はくすくすと笑い出す。

 そして冗談交じりに質問を打ち切ると、それからすぐにまた別の話を始めていった。

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