〈1分小説〉月明かりの続く先

夕砂

月明かりの続く先





今夜の月は、すこし眩しかった。


まるで、空のどこかで、今日がそっと手を振っているようだった。


ベランダに出ると、春が残していった風が、肩にふれて過ぎていった。


空を見上げながら、ふうっと息を吐く。


もうすぐ、この穏やかな時間が閉じていく。


明日からまた、変わらない日々がゆっくり動き出す。

目覚ましの音に起こされて、混んだ車両にゆられて、仕事をして、眠るだけの日々。


でも、今日はまだその手前。

終わりと始まりの、ちょうど間にある静かな夜だった。


目を閉じると、今日の風景が浮かんでくる。


陽だまりの中で食べた遅めの朝食。

誰かの庭先に咲いていた花。

駅前で聴いたアコースティックギターの音。


どれも小さな出来事だったけれど、確かに心のどこかをあたためてくれた。


ふと、以前旅先で出会った老婦人の言葉を思い出す。


名前も知らないその人は、夕暮れのカフェでコーヒーを啜りながら、こんなふうに言った。


「名残惜しさってね、そこにたしかに“幸せがあった”って証なのよ。人は、何でもなかった時間には、別れを惜しまないから。」


そのときは深く考えなかったけれど、今ならわかる気がする。


この胸の静かな寂しさは、きっと“幸せだった”という形をしているのだ。


またひとつ、春が遠ざかっていく音がした。陽だまりのような日々が、そっとほどけていく。



「明日も、きっと悪くないね。」


月に向かって、そっと呟く。


月は、ただ静かに照らしていた。


月の光は、まだ見ぬ明日の道にも、そっとかかっている。


その柔らかな明かりをたよりに、また一歩、歩いていけそうな気がした。








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