玉の手の君
とう子
第1話 ▼アルバム
シートに深くもたれて車窓に視線をやる。何を見ているわけではない。ただ瞳を向けているだけだ。
暮れかけた町にぼんやり浮かび上がる信号機の光。危ういスピードの中学生の自転車。首が千切れるほどに走る子犬と、スマホを見ながらゆっくり歩く飼い主。
ふいに満員の路線バスが視界を埋めたが、彼女は相変わらず視線だけを車外に向けていた。
「……寝た?」
運転席から彼が低く尋ねた。もし寝入っているなら起こしてしまわないように、という気遣いが窺えるささやき。
「ううん、起きてる」
誰を起こす心配もないのに、彼女もささやき返した。
「そう。ちょっと疲れた?」
「うん。頭使ったから」
言葉にした瞬間に疲労感を思い出して、彼女は目を閉じた。眠るわけではない。エンジン音とわずかな振動が暗い世界に強調される。
「あなたは、眠くない?」
「全然。運転中だからね」
「安全運転でね」
「もちろん」
閉じた視界に強い光が届いた。目を開けてみると大きなパチンコ店だった。国道沿いには大きな店舗が多い。牛丼屋、眼鏡屋、スーツ屋。ボーリング場にファミレス、ドーナツ店、書店、車のディーラー、焼き肉店。
「晩ご飯どうしよう」
独り言のようなつぶやきは彼に向けた言葉だった。何の疑問もなく彼は答えた。
「冷蔵庫に豚バラあったと思う。あと玉ねぎと……にんじんと、ごぼうかな」
「さつまいもも残ってるよ。根っこばっかり」
ふふ、と息だけで笑う。
「君が葉物だけ使うからでしょうが」
「青椒肉絲美味しかったでしょ?」
「キャベツと鶏肉の謎メニューね、うまかったよ。キャベツカレーも。今日は何食べたい?」
「ラーメン」
今度は彼が声を出して笑った。
「ごぼうとさつまいもって今言ったじゃん!」
「ごぼうラーメンやだ」
「うどんじゃないの珍しいね。うどんかそばなら全部入れられるかもよ。具だくさんのあったかいやつ」
「しょうゆがいい」
「はいはい、もうラーメンの口ね。この辺にしょうゆあったかな。とんこつならすぐあるんだけど」
彼がハンドルを握ったまま首を伸ばし、数件先の店舗に目をこらす。
「土曜だからどこも多いかも。ちょっと並んでもいい?」
「うん」
程なくして彼の車は一件のチェーン店に滑り込んだ。
店内は混んでいるが、幸い待ち時間なくカウンターに案内される。彼が二人分の注文をする間、彼女は水を二つ用意した。
「ありがと。今日の美術館なんか明るかったね」
「あー」
彼女は視線を天井にやり、ほんの一時間前に出てきた美術館を回顧した。
「そうかも。写真展だったから、保護の関係じゃないかな。絵は暗くしないといけないけど」
「なるほどね。俺あれ好きだったな、廃船の」
「うん、好きそうだと思った。白黒のやつでしょ。ショップにポストカードなかったよね」
「そうそう。ショップ見る時間ぎりぎりだったね」
「ちょっとゆっくり見過ぎた。考えすぎて疲れちゃった」
「何考えてたの?」
「何ってわけじゃないけど。これ綺麗だなーって」
お疲れ、と彼がつぶやく間にどんぶりが二つ運ばれてくる。彼が彼女に割り箸を手渡した。
手を合わせる音といただきますの挨拶は、一秒ほどずれた。
彼女が一口目のスープをレンゲですくい、吹いて冷ましている隣で、彼は豪快に麺をすすった。
「もう、散る」
「ごめんって」
すかさず彼が寄越したティッシュで、頬に飛んだスープを拭き取る。熱くはなかった。髪を耳にかける。
「明日、病院何時から?」
「何時だっけ。帰ってカレンダー見ないと分からない。昼からだったと思う」
もう一度麺をすすってから彼が続ける。
「どうする?」
送迎のことだ。短い言葉で十分通じるほど、もう何回も、何十回も繰り返したやりとり。
彼女はもう一度視線を上にやって考えた。体調は悪くない。確か明日は天気も良かったはずだ。
「電車で行けそう」
「そう。じゃ家で待ってる」
「しんどくなったら電話してもいい? カウンセリングあるし、急にだめになるかも」
「うん、すぐ取れるようにしとく」
ありがとう、と頷きながら、彼女は薬を忘れて来たことに気づいた。昼間家を出た時点では外で夕飯を取る予定ではなかったのだ。帰ったらすぐ飲もう。
いつも外出から戻った後は温かい飲み物を入れるから後回しにしてしまって、寝る前に慌てることがよくある。
「あ、コーヒーもうなくなるかも。明日買ってくる」
「それぐらい今日行くよ。車のほうがいいでしょ。卵も買いたいし」
彼はスマホのメモ機能を確認しながら反対の手を挙げて、店員に替え玉の注文をした。
彼女は耳からこぼれてきた髪をかけ直した。
スーパーとドラッグストアに寄り、ようやく帰宅したころには空は完全に暮れていた。彼が冷蔵庫を整理している間、彼女はソファに体を沈めてぼうっとしていた。
テーブルの上には美術館のショップの小さな紙袋と、いつもはテレビ台に置いてあるアルバムが一冊。ポケットに一枚ずつ綴じていくタイプだ。一ページに二枚、見開きで四枚ずつ。もう厚みも重さもかなりのものになっている。
程なくして、彼がマグカップを二つとボールペンを持って隣に座った。布張りのソファがぐっと沈み込む。
「今日はローズヒップ」
「最高。ノンカフェイン」
「でしょ」
受け取ったマグはぬるめだった。氷で調節してくれたようだ。
彼女がお茶を飲んでいる横で、彼が紙袋のシールを剥がし、中に入っているポストカードを取り出した。今日の展示でそれぞれ気に入った写真。二人で一枚ずつ選んだものだ。
彼は自分が選んだほうを裏返して、宛先の部分に今日の日付と美術館名を書き込む。出かける度に記録している、もう習慣と呼んでいい作業だった。
彼女はアルバムを開いた。一ページに一日ずつ、二人の思い出が重なっている。付き合い始めてから数年分。これで何冊目になったか覚えていない。今までのものは彼の部屋の本棚に並べられている。
「これも新しいの買えばよかった」
残り少ないページを爪の先で弄びながら彼女がつぶやいた。
「ああ、確かに」
短く整えた爪の男の指が、はじめのページから順に思い出を辿る。
水族館で買ったいるかの写真に、温泉街の水彩画。テーマパークのお土産は、ポストカードというよりキャラクターのブロマイドのようだ。映画館のショップで見つけたものは、3D仕様で少し厚みがある。
彼女は細い指を、ページを繰る彼のものに重ねた。手の甲に浮いた骨や血管をなぞる。手首は長袖の形に日焼けしていた。
彼はアルバムを手放し、すくい上げるようにして彼女と手を繋いだ。磨いた爪の一枚いちまいを親指の腹で撫でる。てのひらをくすぐる。
大きな手は少し汗ばんでいるが不快ではなかった。
「……眠い?」
「ううん。起きてる」
車でした会話と同じようにささやいた。低く笑う声。
「それ質問と答えが微妙に噛み合ってないよ」
「うるさいなあ」
「お風呂は?」
彼女は、今度は天井ではなく彼の手を見つめながら考えた。
「後で行く」
「ちょっと休む?」
「うん。三十分経ったら起こして」
ソファに深く座り直す。背もたれに引っかけたままだったブランケットを手繰り寄せて膝に広げる。
「起こしてあげるけど、寝る前に薬飲みなよ」
「あ、忘れてた」
「お願いして」
「お水ちょうだい」
「はいよ」
彼が席を立つと、沈んでいたソファが彼女の体を押し上げるように戻った。
少しスリッパを引きずる彼の足音。水道水がコップの底を叩く音。コップと一緒に差し出されたポーチの中で、たくさんの薬のシートが奏でるかさかさという音。
いくつかある錠剤をまとめて口に放り込み、水で流し込む。ふうと息をつく前に、次は漢方の粉薬だ。これがひどく苦い。昔よりましになったとは言われているが、それにしてもだ。
コップを空にしてから、彼女はすぐ目の前で見守ってくれていた彼に報告した。
「飲んだ」
「うん、えらい」
子供にかけるような言葉で、彼は彼女の頭を撫で、髪にひとつキスを落とした。
口がよかったな、と思う前に、彼はコップとポーチを持って離れて行った。彼女はソファの上で膝を抱えて丸くなった。
疲労はまだ頭痛や吐き気にまでは至っていない、あくまで心地良いものだ。
「電気は? 消す?」
「ううん」
小さく首を横に振る。明るい室内で静かに目を閉じた。満腹で、あたたかい。
彼が風呂の支度を終え、優しく彼女を揺り起こしてくれたのは、それから四十五分後のことだった。
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