第36話 生還シタ者

「一色さん!!どこですか!!」


波間に漂いながら必死に呼んだ。

でも、一色さんの冷静な声はどこからも聞こえてこない。

海水を含んだ服が重い。

ぐずぐずしていると俺は溺れてしまうだろう。


「くっそ!」


とにかく一度岸へ上がるしかない。

真冬の海はみるみるうちに体温を奪っていく。

動きが緩慢になってきた。


振り返った先にある岸までは結構な距離だった。

1㎞以上はあるだろう。

泳ぎが得意な人なら何てことない距離なのかもしれないが、残念ながら俺は得意じゃない。

頑張っても250mほどしか泳げない気がする。

そもそも、きちんと泳ぐなんて学生時代以来かもしれないのだ。

息継ぎの度に口の中に海水が入る。

気道に入ってしまい、波間でバタつきながら咳き込んでしまった。

その間にも上下に揺れながら口に鼻に海水が入る。


まずいまずいまずい。


焦れば焦るほど、バタバタと藻掻いて溺れる準備が整っていく。


ついには足が攣ってしまった。


「あ!!あ!!」


顔が半分海水に浸かる。

両手をばたつかせて浮上しようとするが思うように浮上しない。


「あ!!た!!たすけ!!あ!!!」


俺は一度天を仰ぎ見て、そのまま海の中へ沈み始めた。

必死に水を掻くが、東京の濁った海は重たい。


足元の暗い水の中には、この鉛みたいな海に沈めようとする無数の手があるような気がした。


遠ざかる陽の光。

視界の端に黒い染みが広がる。

音も光もどこか遠く、別の世界に引き離される。

肺はもう限界だと悲鳴をあげていた。


視界が狭窄していく。


水泡になっていく息を見上げた時、人の声が聞こえた気がした。


『ハナちゃんはね、なくなる予定だったんだよ』


それは記憶の幼い声。

ハナちゃんの声だった。

見知らぬ記憶。

忘れていた記憶なのかもしれない。


小さな自分の手をぎゅっと握って俺を見ていた。


『雷はハナのこと好きじゃない』


小刻みに震えるハナちゃんはついに涙をこぼした。


これはあの日の記憶か?

死に際の走馬灯というやつなのかもしれない。


意識が混濁する。


もう何も考えられない。




全身の力が抜ける、その一歩手前。




俺の体は抱きかかえられ、顔が海面に浮上した。


「歩人!大丈夫か!?しっかり!」


俺は大きく咳き込み、声の主にしがみついた。


「力いれちゃダメだ!もう大丈夫だから、落ち着け。体は仰向けに。顎を少し上にして。あとは俺が連れて行くから」


俺は咳き込みながらも言われた通りに体勢を整えた。

両手で目を拭い、ようやく、声の主の顔を見れた。


「あ・・・舜介・・・」


眩しさと温かさが、ぐらついた世界に差し込んだ。

半分意識が飛んだ頭に、その声は何より確かだった。


「今、間宮が救急隊のボート要請してるから、もう少しの辛抱だよ」


「一色さん・・・一色さんがっ」


「亨が第六研究所のある工場に着いた。咲守くんの目を通して探ってる最中」


「しょ、咲守、復活したのか?」


「あぁ。まだ入院中だけど、意識は戻った。そして・・・第二のマチュアになったよ」


「え・・・」


ついに、咲守はマチュアとして覚醒したのか。


「咲守くんの目がなかったら、俺はここには来れてない。咲守くんが歩人と一色さんの軌跡を追ってくれたんだ。本当にギリギリだったね」


舜介は波をかき分けながら、ぐんぐん引っ張って岸へと向かっている。


「咲守・・・」


「歩人はこのまま病院へ。間宮が付き添うからね。俺は着替えて亨に合流する」


あと500mほどになったところで、救急隊のボートがやってきて、俺と舜介は引っ張り上げられた。

中には間宮も乗っていて、簡単に異常がないかを確認し、そのまま救急車で搬送。

その後、一通りの検査を経て、病院に駆け付けていた寺岡課長に事情を報告した。

寺岡課長は深いため息と共に立ち上がり、誰かに電話をしたあと、俺に第六研究所へ向かうよう指示を出した。

ここから本件は寺岡課長が指揮を執る。


すぐに亨達に合流しようと思ったが、先に咲守の顔を見ておきたかった。

なんだかんだで、俺が咲守と顔を合わせられたのは正午過ぎだった。


ICUの扉を開くと、咲守がPC画面を見ながら見慣れぬスマホで誰かと話している姿があった。

俺に気が付くと、スマホを切り、少し困ったような笑顔で手招きをした。


「歩人、無事でよかった」


「それはこっちのセリフだよ。よく戻ってきてくれた。本当に良かった」


ベッドサイドに座り、咲守の顔をまじまじと見る。

外見からは分からないが、大きな目には今、どんな世界が映っているのだろうか。


「・・・お兄さんが僕を戻してくれたんだ」


「え?」


咲守はPCを閉じ、ゆっくりと話し始めた。


「僕は2人の最期を見た。鳥成雷に・・・いや、鳥成透曄に捕まった僕たちはユニット縛られてて、全く動けない状態だった。そこで、3人中2人は必ず死ぬゲームが始まったんだ。生殺与奪の権利はお兄さんにあった。僕は・・・お兄さんはお義姉さんを選ぶと思ってた。でも・・・・・・」


咲守は俯いた。


・・・そうか。

兄貴は義姉さんと一緒にいることを選んだのか。


「咲守が気に病む必要はないよ。2人が犠牲になったのは、どうやら俺が原因らしい」


「どういうこと?」


「鳥成透曄が言ったんだ。俺のせいで2人は死んだって」


「何それ。全然意味が分からない」


「俺も分からない。でも今はとにかく・・・咲守が戻って来てくれて本当に良かったって思ってる」


分からないことだらけだ。

それでも、兄貴と義姉さんはもう戻ってはこない事に変わりはない。

そして、咲守は命からがら戻って来てくれた。

咲守の命があったことを喜ぶのが先だ。


「でも・・・ごめん・・・僕・・・」


「兄貴は多分、気にするなって言ったんじゃないか?」


「・・・うん」


俺たちは瞬きと共に涙がこぼれた。


「俺たちが元気に暮らしているのが一番の供養なる。マチュアになってしまったのは・・・咲守にとって辛いことかもしれないけど」


「ううん。お兄さんがね、僕をこっちへ戻すためにやってくれたんだよ」


「え?」


「僕は・・・眠っている間、お兄さんと一緒にいたんだ。場所は分からない。でも、確かにお兄さんが隣に座ってた。それでね、不本意だろうけど、僕が助かるにはマチュアになるしかないって言ってた。あと、力を使いすぎちゃダメだって。あと、透曄と雷を助けてやれって。それからね・・・2人とも幸せに生きろって」


ぎゅうっと掛け布団を掴んで泣いている咲守。


死んでなお、兄貴らしい言葉。

兄貴、咲守を守ってくれてありがとう。


「咲守、目の前でどうにもできなくて辛かったろ。2人の最期を見届けてくれてありがとう」


「歩人・・・」


俺たちはそれからしばらく泣いていた。

誰を責めても、きっと悲しみだけが残る。

何となく、俺はそんな気がしている。

それでも、愛する人がこの世から旅立つのは辛いことだ。

すぐにでも現場へ行かなければならないのは分かってる。

けど、あと少し。

もう少しだけ悲しみを分け合っていたい。

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