第16話「使用可能期間、終了しました」
朝、
「深優、おはよう」
「お母さん、おはよう。……どうしたの? 今日、会社、早く行く日?」
「そうじゃないけど、一時間早く起きて、深優と朝ごはん食べようかと思って」
「じゃあ、いっしょに食べよう! ……仕事、落ち着いたの?」
(お母さんの機嫌はいつだって仕事に左右されるから)
「だいたいね。まあ、毎月ノルマがあってきついけど。……深優、ごめんね」
「何が? どうしたの、お母さん」
「会社の人に言われたのよ。朝ごはんくらい作って、娘さんといっしょに食べたらって。家のこと、全部娘さんがやっているなんて、娘さん、大変だよって。……わたし、自分のことで精いっぱいで、深優のことまで考えられなくて……ごめんね」
「いいんだよ、お母さん。だって、わたし、おかげで料理も出来るし掃除や洗濯も出来るんだよ」
「しかも、わたしより、よっぽど上手。……お母さん、家事苦手だから」
「わたしが出来るから大丈夫だよ。――あ、お母さん、わたし、もう行かなくちゃ!」
「もう? 少し早いんじゃない?」
「うん、少し早く行ってね、合唱部の自主練をするの!」
「そう、いってらっしゃい」
「いってきます!」
(いってきますって言うのなんて、いつぶりだろう? お母さんが働き始めたころから、いってきます、って言わなくなっていたような気がする)
深優は玄関に見送りにきた母親に手を振った。
いってきます! いってらっしゃい!
心があたたかくなるのを感じた。
走るようにして学校に行き、合唱部のみんなと候補の歌をうたいあった。
「深優ちゃんのソプラノはほんとうにきれいだね」
「ゆらちゃんのアルトも響いていて、好きだよ」
「……先輩だち、上手だよねえ」
「ほんと、上手」
「いつか、ああなりたいね!」
「うん」
それは約束された未来であるような気がした。
(合唱部に入ってよかった。自分でちゃんと決めて行動してよかった!)
深優の目に音楽室のピアノが目に入った。
(いつか、ピアノも弾けるようになるといい。弾き語りが出来たら、素敵だろうな)
合唱部の部活の最中、ピアノは自由に触れたので、見よう見まねで練習しているところだった。
(自分の心の音をちゃんと聞いていこう。これからもずっと)
「深優ちゃん、そろそろホームルームの時間だよ」
「はあい!」
片づけをして、深優はゆらといっしょに自分のクラスへと向かった。
初夏にさしかかって、明るい光に満ちた教室へと。
*
授業と部活、慌ただしい毎日を送る中、深優は友だちとLINEをすることが増えた。或いは、スマホを使って、合唱部でうたう歌を聞いたりもした。だから『kokoroの音』を開く回数は自然に減っていたし、練習で疲れた日は家事をするので精いっぱいで、スマホをあまり触らないまま眠ってしまうこともあった。
そんなふうに過ぎたある日、久しぶりにぽかっと時間が出来て、深優はスマホの画面を眺めた。『kokoroの音』のアイコンが目に入る。
(しばらく、開いていない)
(久しぶりに心音ちゃんとおしゃべりしたいな)
深優は『kokoroの音』をタップした。
しかし、いつものように光が出て、心音のホログラムが出ることはなかった。代わりに「使用可能期間、終了しました」という文言が表示された。
(え? どういうこと?)
何度やっても、心音は出てこなかった。
深優は最初にQRコードを読み込んだ「心の相談カード」を机の中から出して、じっくりとカードを読んだ。すると、こんなことが書いてあった。
『kokoroの音』は、悩み多い十代のみなさんを支えるためのアプリです。
しかしまだ開発段階にあり、試験的に行っているサービスなので、一定期間が過ぎたら使用出来なくなります。今回、ご使用いただいたやりとりを活かして、長期間使える本格的なサービスを開始する予定です。
それまでは従来通りの相談窓口をご利用ください。
(……ここまでちゃんと読んでいなかった……)
深優は心音を思い浮かべた。
苦しいとき、心音が深優を支えてくれた。
(ありがとう、心音ちゃん。わたし、心音ちゃんのおかげでうまくいっているよ)
深優は「心の相談カード」を机にそっとしまった。
ねえ、深優ちゃんは何が好き?
心音の声が蘇る。
(わたし、今は好きなことが増えた。それから、心音ちゃんのこと、ずっと好き。忘れないよ)
深優の目から涙がこぼれた。
心音が深優にくれた、あたたかな言葉を一つ一つ思い出していた。
(心音ちゃん。心音ちゃんのこと、本当の友だちだと思っていたよ。心音ちゃんがいたから、わたし、中学校生活をうまくスタートさせることが出来た)
深優ちゃんと呼ぶ声、深優の悩みを真剣に考えてくれている顔、いっしょに発表の練習をしたときのこと。そしていっしょに何度も笑ったこと。
(本当の友だちでなくて、何なんだろう?)
(ねえ、心音ちゃん。いつかきっと、会えるよね。なんだか、そんな気がするの)
(いつか、本格的なサービスが始まったら……)
深優は、心音にアカペラでうたったあの歌を口ずさんだ。
それは深優にとって、忘れられない大切な歌となっていた。
歌声は夕陽が射し込む室内に細く響いた。
(心音ちゃんに届くといい)
それは祈りだった。
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