1.2.4.1 虚山無音 → 八坂八重
東アジア・東京市国・第九行政区・寂れた裏通り。
東京市国・第九行政区。その裏通りは、ソレイナの生み出す影に深く沈んでいた。空からの光は幾重にも重なるソレイナの不可視のカーテンに遮られ、地表へとたどり着く頃には完全にその鮮やかさを失っている。死んだ光の降り注ぐ街。
虚山無音は地面から数センチだけ身体を浮かせ、湿ったアスファルトの上を滑るように進んでいく。足音はない。遠くで響くサイレンの音や、頭上を通過する交通機関の重低音だけが、この街が死んだ光の下で生きている街であることを証明していた。
「背後、取らせてくれないんだな。さすが、身体拡張技術の頂点、ソレイナ適合兵士――アセンブラ」
ビルの谷間で反響する声が、コンクリートの壁に吸い込まれるようにして消えていく。どこか金属的な冷たさを感じさせる声音だった。
無音は振り返らない。 そのまま、路地の先へと視線を向けたまま、言う。
「だれ? 官と姓名、言え」
「内務市民委員部特別査察局特別資料監理部第0課」
「長い」
「通称、ゼロ課。捜査官の
「何の用?」
「特別オファー。虚山無音――」
名前を出されて、ついに無音は振り返った。
建物の影から音もなく現れた女――八坂八重は、三十代半ばといったところだが、その顔立ちは不思議なほど若々しい。加齢という概念から切り離された、滑らかすぎる肌。人間ならば必ず存在するはずの微細な毛穴や肌理の乱れが見当たらない。いかにも仕事着といった風情の、しかし仕立ての良いパンツスーツに、短く切りそろえられた黒髪。鋭い眼光は、相手の骨格から心理状態までを見透かすように、常に冷静な光を宿している。
「一緒に来なさい。あなたは本日付でゼロ課に配属。たっぷり働いてもらうわ」
「福祉局から何の連絡もない」
無音のような精神的に不安定で警備車両を壊してしまうような「優秀ではない」アセンブラは福祉局の訓練所を出たあとも福祉局預かりとなり、福祉局の備品として一日から数週間単位で市国内の法執行機関に「貸し出される」のが普通だ。
「そんなもん、飛び越えてるのよ。第一総裁が空の星になったんだから」
「まだ死んでない。そんな報道ない」
八坂との距離を測る。目視。推測。五十メートルと少し。その間に幾重にもソレイナの不可視のカーテンが掛けられているのを無音は感じていた。それを媒介にして、八坂の身体を平たくも、球体にもできる、力の源。
「死んでないわけないでしょ。で、緊急であなたの採用が決まったわけ。おめでとう。正規雇用労働者よ」
「誰が決めたの」
「太陽の所有者」
自分が唾液を飲み込む音がうるさい。拳を握りしめる。
「これからアセンブラ有原とアセンブラ氷室のところにも行くわ」
つい先程交わした精神科医との会話が電撃のように頭の中で炸裂した。
この女、この女がアセンブラ狩りだ――!
八坂を中心に半径3メートルの球状の空間だけが、ソレイナの作動によって地球から追放され、別の、地球のよりもさらに大きな惑星と同じ重力に書き換えられた。
それは彼女を地面に倒し、這いつくばらせるのに十分な力だったはずだが、八坂は重力に逆らって、平然とした表情のまま、さらに距離を詰めようとする。
無音の指が再び動く。今度は一点集中。圧縮された空気の杭が、八坂の身体へ向かって放たれ、左腕に命中した。
軋む音。金属のひび割れる音。
八坂の腕が、奇妙な角度で折れ曲がる。
それだけだった。
出血なし。
痛みも感じているのかすら怪しい。
「何者」
八坂は苦笑しつつ、折れたはずの腕を、平然と動かしてみせた。
「脳以外全部機械なのよ。この身体は脳を運ぶ人型の乗り物。美人でしょ?」
「微妙」
「フラットな心で見てみなさい。私の遺伝情報を元にデザインされた身体なのよ?」
ジャケットの袖が裂け、その下にあった構造体が露出している。義腕。人工神経接続済みの、戦時仕様だ。
「優しいのね。腕じゃなくて、胸か首に命中させるべきだったのよ」
「次はそうする。今のは警告だ」
八坂が肩を竦める。今にも千切れそうな腕が微かに電磁的な音を立てる。
「あなたみたいな子、昔はもっとたくさんいたわ。アセンブラ、本当に強かった。戦場では、私も何回も助けられたしね」
八坂は揺れる片腕をもう片方の手で弄びならが、攻撃するでもなく、威嚇するでもなく、ただの昔話のように、話し続ける。
「でも、あなたたちには致命的な弱点がある。その力が、あまりにも繊細な計算の上に成り立っていることよ。関係のない情報、予期せぬ刺激、そういうノイズを大量に与えられると、あなたたちの脳は簡単に飽和する」
その言葉を証明するかのように、八坂はおもむろに足元の砂埃や小石を無音に向かって力強く蹴り上げた。
「冷静に話が聞けるように腕を一本貰うわね」
無数の砂粒や小石の質量、速度、軌道。無音の思考が、その単純で膨大な処理に一瞬だけリソースを割く。浮遊がほんの少しだけ揺らいだ。
「どうかしら? 単純な質量攻撃も、数が多ければ立派なノイズでしょ?」
間髪入れず、八坂はポケットからドローン型の情報端末を取り出し、無音の頭上に放り投げた。そして起動。
ああああああああああああああああああああああああああいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあああああああああああああああああああああああああああああああ愛愛逢い愛愛愛愛愛あああああああ良い良い良いいいいいいいいいいいいいい――!
複数の人間の悲鳴や怒声、笑い声が混じり合った不快な音響が、指向性を持って無音の聴覚を襲う。意味を解析しようとしてしまう思考の罠。愛? 会い? 悲鳴? 嬌声? 何処で録音した? 襲撃したアセンブラの声? 生成AIに作らせた? 重力計算の精度が、明らかに落ちていく。さらに八坂は今ひとつの小型の情報端末を取り出し、タップ、タップ。
ビルの谷間から差し込む夕陽が、一瞬にして真昼のように、あるいはそれ以上に強く、不自然に輝きを増す。
「ソレイナを操作できるのはアセンブラだけじゃないってこと、忘れてない? この街は金で天気を買う街なのよ! 分割払いで日光を大量買いしたからお裾分け!」
突然の強烈な光に目が眩む。ソレイナによる環境情報を書き換えのための意識のリソースが、眩しさを軽減しようという意識に奪われる。環境情報の計算が根底から狂い、浮遊が大きく乱れた。高度が下がる
感覚が飽和する。思考が白く染まる。
その一瞬の隙を、八坂は見逃さなかった。
獣のような速さで距離を詰め、無音の懐に入り込む。流れるような動きで無音の左腕を掴み、完璧な関節技を仕掛けた。
ゴキッ。
生々しく鈍い音が響き、激痛が走った。腕がありえない方向に曲がる。痛みと驚きで、思考停止。
重力制御が完全に途切れ、無音の身体は、なすすべもなくアスファルトの上に崩れ落ちた。
しかし、無音はうずくまらなかった。 地面に叩きつけられるよりも早く、折れた腕に周囲のソレイナが光の糸のように集まり始める。傷口が淡い光を発し、折れた骨が軋むような音を立てて繋がっていく。皮膚が再生し、ほんの数秒で腕は元通りになった。
八坂が「これで少しは」と口を開きかけたが、その言葉は続かなかった。
無音は、ゆっくりと立ち上がった。痛みも、驚きも、もうない。ただ、自分の領域を侵犯されたことに対する、絶対的なまでに冷え切った怒りだけがあった。彼女は、静かに反撃の姿勢を取る。今度こそ、この女を排除する。その思考だけが、クリアだった。
「まじかよ。まあ、念のため、お守りを持ってきてるのよね」
八坂は、無音のただならぬ気配に気づきながらも、まだ自分が優位にあると信じているようだった。勝ち誇ったように、彼女は慣れた手つきで情報端末を操作し、画面を無音に向けた。
そこに映し出されていたのは――白い部屋でぽつんと座っている、少女の姿だった。不安げな表情で、こちらを見ている。
無音は彼女の名前を知っていた。
あのクソみたいな訓練所で唯一、心を許せた仲間。
無音のように福祉局預かりになることもできず、まだ訓練所で庭を見つめて過ごしている親友。
「透子――!」
その名を口にした瞬間、無音の世界から、思考が消えた。 代わりに、腹の底から燃え上がるような、純粋な熱が全身を駆け巡った。それは、怒りだった。殺意だった。
「なにした!?」
それは問いではなかった。ただの絶叫だった。
無音の感情に呼応して、周囲の空間が歪み、捻れ始めた。重力とは時空の歪みのことだった。両側のビルの外壁がメリメリと音を立てて剥がれ落ちる。砕けたコンクリートや鉄骨が、まるで意志を持ったかのように無音の周囲を衛星のように高速で回転し始め、破壊的な瓦礫の嵐と化した。
八坂の顔から「大人の余裕」が完全に消え、焦りと驚愕に変わっていくのが視界の端に見えた。
「待って待って、逆効果じゃないの、これ! ちょっと話を聞きなさい! 太陽の所有者が貴女を推薦したのよ! で、蘇枋さん――、私の上司が断るようならこれを見せろって!」
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