あたしと狐と美味しいごはん
@chauchau
第1話
「だから……結婚とかそういうの考えてないっていうか、そもそもあたしには合わないんだって」
「何言ってんだい! 結婚もしたことないくせいに偉そうに! だいたいあんたは昔っからそうやってやってもないことをあーだこーだと言い訳ばっかり!」
「はぁ……」
「はす向かいの宮崎さん家の娘さん、あんたの同級生。ちゃーんと結婚して今度三人目のお子さんが生まれるんだよ? あーあー、どうしてあんたはそんな子になったかねえ」
「あー! 電波がおかしいなー! お母さーん、もしもーし! 聞こえるー? あれーおっかしいなー!」
電話口から聞こえてくる怒鳴り声はボタン一つでシャットダウン。折り返しも出なければひとまずは問題ないときたんだからいい時代である。
「はす向かいの宮崎さん、ねえ……」
『はす向かいの宮崎さん家の娘さん、あんたの同級生。こーんなにスカート短くして足ばっちり見せてやらしいったらありゃしない! あーあー、あんたはあんな子になっちゃだめだからね!!』
昨日のことも覚えていない母が、15年以上も前の言葉を覚えているわけがない。そもそも都合の悪いことは知らない、覚えていない、自分じゃない、挙げ句の果てにはうるさいと怒鳴る母の言うことを一つひとつ気にしても仕方がない。
取引先からかと間違えて電話に出てしまったのが運の尽き。おかげで三本逃した電車には、いい具合にできあがったおじさまやイチャつくカップルが数名しか乗っていない。座れたことを喜ぶべきか、一時間以上を無駄にしたことを悲しむべきか。そもそも深夜にかかってくる取引先の電話に飛びつくなという諭しはブラック戦士には届かない。
結婚ねえ……。
二十五を超えたあたりから周りがうるさくなった。慌ただしいように届く式の案内状の出席に何度丸をしたかわからなくなった時には、あたしという木が描いた年輪は三十を超えていた。
会社はこのときを待っていたのかいないのか、その年に主任を任されるようになってからもう二年。無茶しか言わない上司と無理としか言わない部下の板挟みにも慣れてきた。
ありがたいことに一昔前と比べて結婚しない人間が目立たなくなっている。コンプラを多少は気にしてくれるおかげでセクハラまがいの質問も、まあまあ少ないんだろう。
もし言われたとて角を立てずにお茶を濁す。それでも食い下がられるほど、私は面白味がある人間ではない。
別に結婚だけが幸せじゃない。
子供がすべてじゃない。
母に届くはずのない言葉を心の中で繰り返したのは、負け惜しみという名のなにかだ。いや、別に本当は結婚したいのに……という話ではなく。
『結婚もしたことないくせいに偉そうに!』
根に持っているのは、この言葉。
言ってないから悪いけど、言わないあたしが悪いけど。
「ただいま」
「おかえり」
独り身の独り言。
悲しき妄想ではなく、ちゃんと返ってくるのは相手が居てくれるから。たった四文字の言葉だけれど、明確に不満が見える言葉だけれど。
「すっかり夕餉が冷えてしまったではないか」
お玉を持ってエプロンかけた二足歩行の狐が発した言葉だけれど。
拝啓、お母様。
不肖の娘は結婚したことあるんです。
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