第3話「風は、南より来たる」
山の風が、南より吹いていた。
どこか湿り気を帯び、
微かに血と鉄の匂いを含んでいた。
木影は、その匂いを感じ取った。
そして言った。
「鹿ではない。獣でもない。……人の匂いだ」
その夜、廃寺の裏手にある竹林の奥で、
月陰は星を仰いでいた。
雲の切れ間に、一筋、
風を裂くような星の流れ。
「風が……変わった」
月陰は呟き、闇に紛れて姿を消した。
翌朝、水影が川筋を下り、
渓流の水位を測った。
流れは鈍く、岸に踏み荒らされた痕。
水面に浮いた枝が、不自然に折れていた。
指を水に浸し、目を細めて囁いた。
「……潜った者がいるな。しかも、ひとりではない」
火影は小屋に籠もり、火薬の調合を続けていた。
猫が一声鳴き、天井裏を走り、
火影の肩を飛び越えた。
「猫が騒ぐ夜は、敵が近い」
呟くと、古びた弓を手に取り、弦を張った。
金影は金床の埃を払い、焙烙の蓋を打ち終えた。
「戦か……久しぶりだな」
寡黙な彼が、ふと空を見上げた。
その日、壮元は童子を呼び寄せた。
「山を降りる者がある。
志乃とともに、しばし山奥で過ごせ」
童子は黙って頷いたが、
その目の奥に、初めての不安が揺れていた。
志乃――土陰は、既に支度を整えていた。
干し飯、火打石、針薬、小刀。
その背には包みをくくりつけ、
腰には鎖鎌が揺れていた。
童子の手を取り、低く言った。
「風が騒ぎ出した。
お前の出番ではない。今は、じっとする時だ」
童子は、唇を噛んで頷いた。
志乃はその頭を軽く撫でると、
手を引いて、山の奥へと分け入っていった。
その夜、日影は現れなかった。
だが、七曜の者たちは知っていた。
“
壮元は、廃寺の池のほとりに立ち、
一枚の葉が水面をゆっくりと流れていくのを見つめていた。
風に運ばれたその葉は、静かに、しかし確かに、
南から北へと向かっていた。
「……いよいよか」
そう呟くと、そっと袂に手を差し入れ、
懐の中の古びた護符に指をかけた。
その指先に、あの夜の記憶がふと甦る。
黒ずくめの一団、女忍びが差し出した童子。
「やんごとなき片の、一粒種――」
壮元は、童子を抱いた瞬間の重さを思い出していた。
――尊き血が、また動き出す。
そのことを思うと、和尚の胸は、
静かに、しかし確かに、痛んでいた。
(つづく)
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