第15話 道化師の涙

  子供の頃。 

 家族でサーカスを見にいった。

 隣りの町でしばらく興行をしていたサーカス団は、凪の様な家族にとって、仕事を休まなくても都合のいい娯楽だった。

 空中ブランコや、綱渡り、一見やる気のない猛獣達が見せる火の輪くぐり。ショーの合間を縫うように、笑っている様で悲しげな道化師のジャグリングを見ているうちに、上手く笑えない自分と数人の子供達が、知らないうちに別の世界に連れて行かれる様で、凪は怖くて母親の手を握りしめた。

「さっきから何?」

 母親は帰り道、凪の手を離した。

「早く帰らないと、夕方の搾乳に遅れる。」

 父は車のスピードを上げた。

 家に着いて、同じ様にこっちを見ている牛を見て、凪は少しホッとした。


「凪、やっぱり緊張するよ。」

 凪の家の玄関の前で、澤井は立ち止った。

「いつもはズカズカと人の家に入ってくるんでしょう?」

「だってそれは仕事だから。」

「私の家にも、そうやって勝手に入ってくるくせに。」

「そうでもしないと、いつも寝てるから、中に入れてくれないだろう。」

「私が断った事ってある?」

 2人で玄関の前で話しをしていると、凪の母親がドアを開けた。

「いい加減、中に入ったら?」

 

 中に入ると、兄夫婦がきていた。

 目まぐるしく動き回っている男の子は、凪の父親がその後を追っていた。

「消防って言ったっけ?」

 凪の兄が澤井に聞いた。

「そうです。」

「ほら、飲んで。本当はお茶を出したらいいんだろうけど、子供がいると危ないからね。ペットボトルでごめんね。」

 澤井がペットボトルの口を開けてお茶を飲もうとすると、兄の子供がそれを見て澤井の方にむかってきた。

「こら、ジジのやるから。」

 父が自分に出されたペットボトルの口を開けようとしたら、

「やめてくれよ。そんなの飲んだら、また眠れなくなるだろう。母さん、いつものりんこジュース、出してくれよ。」

 兄はそう言って母に冷蔵庫に向かわせた。

「こんにちは。」

 凪と澤井は兄の嫁に挨拶をした。

「こんにちは。」

 小さな声で挨拶をした兄の嫁は、動き回る子供を見ることなく、兄の顔を見て不安そうな表情を浮かべた。

「子供ができても、ここには預けるなよ。来年には2人目が生まれるから。」

 兄は凪にそう言った。

 さっきから兄夫婦によそよそしい態度をとっている母親は、紙パックのりんごジュースを黙って兄に渡すと、

「こっちでコーヒーでも飲みましょうか。」

 そう言って澤井を食卓テーブルに誘った。

「砂糖、いる?」

「いいえ。」

「少し甘いほうが、話しが弾むと思うけど。」

 母がコーヒーメーカーからカップに注いだコーヒーを澤井の前に出すと、

「私のは?」

 凪が言った。

「凪はコーヒーなんて飲まないじゃない。この子ね、牛乳も嫌いなの。親不孝な娘。」

 母は桐山のコーヒーに砂糖を入れようとした。

「余計なお世話なのよ。澤井くんは甘くしなくても飲めるし、ちゃんと話しができる人だから。」

 凪は母の手を止めた。

「あら、そう。」

「澤井くん、アスパラは嫌いよ。そこにあるのは、お兄ちゃんにあげたら?」

 凪は箱を指さした。

「あら、残念。じゃあ、どうしようかしらね。」

 母は兄の方をチラッと見た。

「俺、出掛けてくるわ。」

 父は男の子を兄に預けると、車の鍵を手に取った。

「俺達も行くわ。」

 兄はそう言って嫁を連れて立ち上がった。

「ヒロちゃんは?」

「母さんが見ててくれよ。サユリはつわりがひどいんだ。コーヒーの匂いもダメなんだよ。少しはこっちにも気を使ってくれよ。」

 澤井はバツの悪そうに下をむいた。

「あら、それは悪かったわね、サユリさん。」

 母は嫌味たらしくそう言うと、自分用のカップと凪のために出したカップにも、波々とコーヒーを注いだ。

「私は甘くしないと飲めないの。」

 澤井ににっこり笑った母は、 

「これから油つかうから、ヒロちゃんは連れて帰ってね。」

 兄にそう言った。

 兄達は澤井に見惚れている母に文句を言いながら、子供を連れて家を出ていった。


 コーヒーが飲み終わる頃。

「凪ちゃーん。」

 玄関から声がした。凪は澤井を連れて玄関に向かった。

「アヤカちゃん、昨日おじさんから頼まれてたもの持ってきたよ。その人が彼氏?」

 アヤカは澤井を見て、にっこり笑った。

「いい男じゃない。こっちにこんないい人、いたぁ?」

 アヤカはそう言って澤井を指さした。

「アヤカちゃん、これ持っていって。今日は茄子も入れておいたから。」

 母はアスパラの入った箱を持ってきた。

「おばさん、いつもありがとう。」

 アヤカはそれを嬉しそうに受け取った。

「うちのお父さんと会わなかった?」

「おじさん、家にきてるよ。うちの人と将棋始めたから、しばらく帰らないと思う。やっぱり、娘が彼氏連れてくるのって、父親はなんとも言えない気持ちなんじゃないの。」

 アヤカの言葉に、

「本当に困った男達ね。」

 母はため息をついた。

 発泡スチロールの箱から、キューッと音がする。

「生きてるの?」

 凪はアヤカに聞いた。

「まだ生きてると思う。早く捌きなよ。凪ちゃん、またね。おばさん、おじさんには早く帰るよう、言っておくから。」


 箱の中身が気になっている澤井に、

「気をつけて持ってね。」

 母は箱を澤井に渡した。


 父が帰ってきて、賑やかな夕食となった。澤井はお酒も入り、お喋りな母とずっと話しが止まらない。

 嫁がつわりだと言って家に戻っていった兄夫婦も、子供を連れて夕食にはやってきた。

 相変わらず、嫁に気を使っている兄の注文など、澤井との会話にすっかり夢中になってる母には、気にも止めていないようだった。


「面倒くさい家族でしょ。」

 部屋で布団を敷いていた凪は、澤井に言った。

「うちの親だって面倒くさいよ。」

 窓を開けて草の匂いを確かめた凪は、

「夜の匂い。」

 そう言った。

「この匂いが嫌で出ていったのに、むこうには自分の居場所なんてなかった。」

 凪が外を眺めていると、澤井は凪の隣りで、一緒に草の匂いを嗅いだ。

「むこうの夜はどんな匂いがするんだ?」

 澤井は凪の顔を見ていった。

「そうだね、」

 凪は病院に漂う、消毒の匂いを思い出していた。

 桐山の最後は、その匂いに包まれて、永遠に夜のままだった過ぎていったのだろう。 

「よくわかんない。」

 凪はそう言って誤魔化した。

「凪。」

「ん?」

「あの手紙には何が書いてたんだ。」

「前にも言ったじゃない。何も書いてないよ。」

「そんなのってあるかよ。最後に伝えたい言葉があったから、手紙にしたんだと思うけど。」

「きっと、言葉が見つからないから、手紙にしたんじゃない。」

「俺にはぜんぜんわからんないわ。」

 澤井はそう言って窓を閉めた。

「澤井くん、疲れたでしょう。」

「大丈夫。」

 澤井の背中に頭をもたれた凪は、規則正しく聞こえる鼓動を感じていた。

「こっちをむけばいいだろう。嫌ってだけ、俺の心臓の音を聞かせてやるよ。」

 澤井は背中越しに言った。

「聞いてるってわかったの?」

「わかるよ。」

「特別な音なんかじゃないの。みんな同じ音なんだよね。」

 澤井は凪を自分の胸に抱くと、

「どっちが先に、最後の音を聞くんだろうな。」

 そう言った。


 寂しくても、辛くても、嬉しくても、叫びたくても、同じ顔で居続ける道化師の心臓は、時々速くなったり、ゆっくりになったり、感情に反応している。

 桐山を最後に抱きしめた時、彼の心臓はどんな速さだったのだろう。


「澤井くん、苦しくないの?」

 だんだん速くなっていく澤井の鼓動を凪は心配した。

「そりゃそうだろう。好きな人がこんなに近くにいるんだから。」  

 澤井は凪の手を自分の心臓のあたりにあてた。

「そっか。今はこんなに速くても、嫌いになったらゆっくりになるんだろうね。」

「嫌いになんてなるわけないだろう。」

 澤井は凪を見て微笑んだ。


 終



 

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道化師たちのアリバイ 小谷野 天 @kuromoru320

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