第11話 文字のない手紙

 冬の朝は、凍った空気がキシキシと音をたてる。息ができないほど、冷えた景色は、あんがいはっきりと遠くを映し出す。

 誰もいなくなった南極で、置き去りにされた犬達が見ていた景色は、空なのか陸なのかもわからない、そんな暗い景色だったに違いない。

 人がごった返した病院のロビーで、最後に呼ばれた自分の名前は、置き去りにしてきた何かの叫び声だったのだろうか。それとも、置いてきたものを渡すための呼び声だったのだろうか。


 あれだけ眠れずにいた朝を迎えていたのが嘘の様に、澤井といると薬なんて頼らなくても、自然と眠れる様になっていた。


 澤井と会うようになって、何回目の夜だろう。

 先に眠りにつこうとする凪に、澤井は何度も執拗にキスをしてきた。

「これじゃあ、眠れないよ。」

 凪が怒ると、澤井は子供の様に笑った。

「怒ったか?」

「澤井くんがしつこいから。」

「広澤は俺といると安心するんだな。」

「だから?」 

「俺は一晩中眠れないんだよ。」

「ごめん。もしかして、イビキ?」

「違うよ。ほら。」  

 澤井は凪に右手を見せた。澤井の大きな手を凪が触ると、

「なぁ、触ってもいいか。」

 真剣な顔をした澤井は、凪を見ている。

「ダメ。」

 顔をそらした凪を自分の方にむけると、澤井はキスを繰り返しながら、凪の服の中に手を入れた。貪る様に凪の口を塞ぎながら、身体に手を這わせると、すっかり眠りから冷めた凪は、そのまま澤井に身体を預けた。    


 あれからいくつかの夜を澤井と一緒に過ごしてきた。朝になれば、何もなかった様に笑い合う。

 澤井といれば、明日がこないなんて、不安になる事もない。

 桐山が指の跡を残すほどきつく抱きしめた背中は、澤井が優しく触れるたびに、自分達を取り囲む敵なんていないんだと、すっかり安心していた。

  

 人が言う当たり前の幸せに手を伸ばそうとすれば、少しずつ何かと交換して手に入れたい鋭いナイフを、深い沼へ落としてしまう事になる。

 そんなものを捨ててしまいなさいと言われ続けても、隠して持っていた自分の感受性は、どんどん錆びついて何も感じなくなっていった。

 必要のないものを整理すれば、平凡という明日が見えてくる。もしかしたらそんな毎日の方が、本当は容易には手に入らない、贅沢なものなのかもしれない。

 

 この町に初雪が降った朝。

 松下からラインが届いた。


 “ゲンがもうすぐ死ぬ”

  

 悪い冗談かと願いながら、凪は松下にラインを返した。

 “本当の事ですか?”

 松下からすぐにきた返信は、凪の心臓を鷲掴みにした。

 “肺癌が再発したんだ。脳にもいってる”

 松下から桐山が入院している病院を教えてもらい、凪はすぐに支度をした。


「凪?」

 玄関を開けると、澤井が立っていた。やっと合わせた休日に、2人で約束をしていた事など忘れて、凪はドアを締めて澤井に言った。

「ごめん、あとで連絡する。」

 理由を聞いてくる澤井と目を合わせず、呼んでいたタクシーに乗り込むと、凪はそのまま空港へむかった。

「飛行機なんてほとんどが欠航だよ。」

 タクシーの運転手がそう言うと、凪は行き先を駅に変えた。


 新幹線に乗っている時間がもどかしかった。

 自分の犯した裏切りという罪は、どんなに償っても清算できない。

 錆びついたナイフで自分の身体を刺したって、致命傷を与える前にナイフの刃がダメになる。


 桐山の生きてきた人生の中で、幸せだと思える時間がどれくらいあったのだろう。

 自分からこの町を離れる事を決めたくせに、こんなに早く最後を迎えるのなら、もう少し、桐山と話しておけば良かった。

 取り返しのつかない事をした自分を、何度も錆びついたナイフで傷つけようとしている。


 松下に教えられた病院に着いたのは、日がとっぷり暮れて、夕食の配膳が始まっている頃だった。

「面会の許可は取ってるの?」 

 詰所のカウンターから顔を出した看護師が、凪を止めた。

「いえ、とってません。」

 凪はなんとか入ろうと看護師を頼むような目で見つめたが、

「じゃあ無理ね。」

 看護師は無情にもそう言った。

「予約はどうやってとればいいんですか?」

「それは、ここに電話してきたらいいでしょう。」

「ここには病院の代表で電話をして、それで伝えたらいいんですか?」

「あなた、家族じゃないでしょう。ここは病気を治す場所で、治療に邪魔になるものは持ち込めないの。面会だってそうよ。患者に余計な気を使わせるような事は認められないの。」

 

 凪は渋々病棟を後にすると、人がいなくなった広いロビーで、松下にラインをした。

 “面会できませんでした”

 それだけ送信すると、

 “今どこにいる”

 松下から返信が帰ってきた。

 “ロビーにいます”

 “わかった、そこで待ってろ”

 エレベーターから降りてきた松下は、凪の腕をギュッと掴むと、急いで凪をエレベーターに乗せた。 

 病棟の入口で、さっきの看護師に止められると、

「うるせーよ!」

 松下はそう言って凪の腕を引っ張った。

「ゲン、連れてきたよ。」

 掛け布団が僅かに盛り上がったベッドには、痩せこけた桐山が横たわっていた。

「起こしてくれよ。」

 松下が電動ベッドのスイッチを入れようとしたら、

「違うよ。背中に釘が刺さっているんだ。」

 桐山はそう言って凪を見た。

 青白い顔に、白目をぎっとむき出した桐山が自分を見ている。

「あたし、もう行くわ。帰りにあの看護師に文句言ってくる。」

 松下は気を使ったのか、病室を出ていった。 

「背中の釘、見せてくれる?」

 凪は何かを掴もうと少しだけ動かした桐山の手を握った。桐山の両腕の間に、凪の腕を入れて背中を抱えると、凪の背中を、力のない桐山の手が触っていた。

 ゆっくりを桐山の背中を、ベッドから剥がす様に身体を起こした。

 いつまでも凪を離さない桐山の頬に、凪は自分の頬をぴったりとつけると、痛みを払うように、凪は桐山の背中を優しく撫でた。

「ごめん、上手く釘がとれないよ。」

 凪は涙が止まらなくなった。

「初めから、釘なんて刺さってないよ。もういいから、幸せになれよ。」

 桐山が言った。

「そんなもの、いらない。」

 凪は桐山の痩せた肩に顔をつけて泣いた。

「そうだな、幸せなんていらないか。」

 凪の背中を触れていた桐山の手に少し力が入った気がした。

「桐山さん。明日もくるから。」

 桐山をゆっくりベッドに寝かせると、目を閉じた桐山に口づけをした。

「凪。」

 名前を呼ばれた様な気がして、桐山の方を見たが、桐山は眠っていた。


 ホテルに帰ると、凪のスマホがなった。

 松下からの電話だとわかると、凪は出るのを躊躇った。


 もう会えないんだ。


 凪はそれがわかった。ひとつを息を吐いて、松下の電話に出た。


「ゲンが死んだよ。」


 桐山の葬儀は、本当に熱狂的なファンが群がっていたのかと思うくらい、ひっそりとしたものだった。 

 公にできない父親の存在。

 そんな父親が不在の中テキパキと動いている松下とその彼氏。

 心がここにない母親。

 すっかり毒が抜けた元バンドのメンバー。


「あんたは百合に似てるかもな。」 

 バンドメンバーの1人が凪に言った。

「百合さんってどんな人だったの?」

「普通の子だよ。普通に見えるのに、なんで笑えないのか不思議だった。」

「桐山さんの前でも、そうだったの?」

「笑わないよ。誰の前でも。」

「桐山はやっと自由になれたんだよ。元々、自分は生まれてはいけない存在なんだって言ってたからさ。俺が解散を決めたような事になってるけど、そういう風に仕向けたのは桐山だよ。」

 すっかり社会に溶け込んで、常識と並ぶ元メンバーの3人は、桐山の棺桶が焼却炉に入って扉が閉まると、

 すすり泣いていた声が嗚咽になった。

 焼き上がった桐山の骨を拾った1人が、

「お前、ずいぶん白かったんだな。」

 そう言った。

 遺骨になり、自宅の祭壇に置かれた桐山に焼香をすると、免許証の写真なんだろうか、どこにでもいるような顔の桐山の遺影を凪は少し見つめていた。

「広澤、いろいろありがとうな。」

 松下が凪の手を握った。

「借りた喪服、クリーニングして返します。」

「いらねーよ。そんなの何枚もいらないし。広澤に引き取ってもらえて、ちょうど良かったよ。」

 松下が言った。

「松下さん、私達、人が死ぬ事にすごく鈍感になってますよね。」

 凪は桐山の遺影を見つめた。

「仕方ねーだろ。そういう仕事なんだから。そうだ、広澤。これ、ゲンから。」

 松下が差し出した何も書かれていない真っ白封筒は、少し厚みがあった。

「広澤に渡してくれって、頼まれたんだけど、直接渡せよってゲンに返したんだ。病院から渡されたゲンの荷物の中に、そのまま入ってた。」


 新幹線の中で、凪はその封筒を開けた。

 中には真っ白い便箋が3枚入っていただけで、何も書いていなかった。

 よく見ると、所々紙が歪んでいる。

 それが桐山の残した涙の跡だとわかると、凪の涙もその歪みの上にぽたりと落ちた。

 

 最後の言葉は、持っていってしまったんだ。

 

 もし、桐山が普通の家庭に生まれて、罪の意識なんてなく育ったら、どんな人生を歩んでいたんだろう。

 神様は彼が誕生を祝福したし、最大限に味方してくれたはず。

 きっとたくさんの人を救える医者になって、笑顔の似合う奥さんと温かい家庭を作って、桐山に似た賢い男の子と、奥さんに似た美人な娘さんと、今年の桜は咲くのが早いねなんて、そんな他愛も無い話しなんかをしたりして、ありきたりの幸せを、なんの疑う事なく握りしめたんだろう。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る