第9話 風のにおい
目が差すような真っ白い病院の壁は、外からやってきた人が見る最初の色にしては、少し刺激が強い。
去年新しく建て替えられたという病院は、くすみの無い白が与える緊張感は、弱った心をかえって圧迫しているようにさえ感じる。所どころ見える木目調の手すりや案内板が、少しだけそれを解きほぐしてくれるけれど、全ての色を受け入れられない白という存在は、自分は少し苦手なんだと感じた。
生まれ育った町に引っ越してきてから3ヶ月。
凪は実家がある町から少し離れた、隣町の市立病院に勤務していた。
転職した初めの頃は、実家で暮らしながら、車で通勤していたが、今月から病院の近くにアパートを借りて、1人暮らしを始めていた。
秋の風から、冬にむかおうとしている冷たい風は、夕方には半袖の白衣から出ている腕を冷やしていく。
「広澤か?」
患者を隣町の大きな病院まで搬送をした帰り、救急車の中で、水色の服を着た救命隊員が凪に声を掛けてきた。
「澤井くん?」
見覚えのある顔は、高校の頃の同級生だった
「こっちに来てたんだ。」
「そう。」
「それならそうと知らせろよ。クラス会もずっと欠席してるし、どうしてるかなって思ってたんだぞ。」
凪は澤井に向かって小さく笑顔を作った。
自分は人とは違うと強がっていた過去の自分の記憶なんて消してほしい。人が欲しがる何もかも手に入れたいと、容易にこの町を捨てたのに、それが初めから完成しないパズルだって事に気付けなかった情けない自分が、目の前の同級生を羨んでいる。
「後ろは寒いだろう。広澤、なんで上着を着てこなかったんだよ。」
「急いでたから。」
澤井は運転しているもう1人に確認すると、車内の温度を上げた。
「市立の外来にいるのか?」
「ううん。病棟。夜中の急変で、たまたま乗っていく事になっちゃって。」
「じゃあ、今日は明けか?」
「うん。」
「これから帰って寝るってわけか。」
「そうだね。」
こっちへ戻ってきてからも、眠れない日々は続いていた。松下からもらった漢方はとっくになくなっていたが、どうせ眠れないんだし、最近は布団に入ることさえ諦めた。眠れないと言っても、一晩中映画なんか見ているうちに、知らず知らずのうちに朝方にはテーブルに伏せって眠っている事が続く。毎日、身体中が痛くて堪らない。
凪が左肩に手をやると、
「ここに座ると、身体痛かっただろう。寒かっただろうし、大丈夫か?」
澤井はそう言って気遣ってくれた。
「うん。大丈夫。」
「なあ、広澤。連絡先教えろよ。少し寝たら、なんか暖まるもの、食べにいかないか?」
「アハハ、携帯忘れた。」
「嘘つけ。さっき病院に電話してただろう。早く、連絡先教えろよ。」
澤井の誘いを断れず、凪は待ち合わせの居酒屋に来ていた。
「ここのおでん、すごくおいしいから。」
凪は苦手な日本酒を、熱燗で注文しようとした澤井を止めた。
「なんだ、広澤は下戸か。」
「違うけど…。」
「じゃあ、いいじゃないか。」
「澤井くん、喉が渇いた。」
凪がそう言うと、澤井はビールを2つ注文した。
「これ飲むと、また冷えるぞ。」
「大丈夫。」
乾杯とグラスをぶつけ合うと、空腹のお腹にアルコールが運ばれる。
「広澤がこっちに帰ってきたのって、何か理由があるのかよ。」
「何もないよ。ただ、親の近くにいようと思っただけ。」
「そうか?都会でバリバリ仕事してたほうが、親にしたら自慢だったんじゃないのか?」
「うちの親はそんなの望んでないし。」
「まぁ、娘だしな。仕事で一人前になるよりも、結婚して孫連れて家に来る方が、親孝行ってもんなのかな。」
「澤井くんはずっとこっちにいたの?」
「俺はずっとこっちだよ。」
「じゃあ、親親御さんは安心してるだろうね。消防士さんなら、頼りになるだろうし。」
「俺、一応、救命士なんだけど。」
「へぇ、そうなの?」
「そうだよ。そりゃあ火事の現場にもいくけど、広澤になんかあったら、すぐに駆けつけてやるから。」
「馬鹿言わないで。私は誰にも迷惑なんか掛けないで、一人で生きていけるし。」
澤井が勧めてくれたおでんは、冷たいビールが身体を冷やす前に、温かさを胃の中に届けてくれた。お腹の中はこれでもかもいうくらいに満たされたのに、アルコールが行き渡ってないはずの指先は、ずっと冷たいままだった。
会計を済ませ外に出ると、凪はポケットに入っていた手袋に指を入れた。
「寒くなったな。」
「うん。」
「もう一件付き合えよ。明日は休みなんだろう?」
「休みじゃないし、もう帰る。」
「じゃあ、送っていくよ。」
「いいよ、1人で帰れるから。」
「ここらへんだって危ないんだ。田舎は平和だろうって思って、油断するな。」
平日の夜のせいか、町を歩く人はまばらだ。街灯が少ない道に入ると、澤井が言う通り、少し不気味な感じがした。
「3年前だったかな。ここで女の人の首が見つかって。」
「首?」
「スナックのママが殺されたんだ。恋愛関係のもつれが原因だったらしいけど、犯人の男は遺体をバラバラにして、町のいろんな場所に捨てたらしい。その時は町中のゴミの果てまで、バラバラになった体を捜索してさ、そりゃあ、みんな大騒ぎ。」
「首が見つかったのは、この道なの?」
「そうだ。」
澤井は凪の肩を自分に寄せた。
「怖くなっただろう?もっとくっつけよ。」
「大丈夫。人が死ぬのも、血まみれの身体ももう見慣れてるから。」
凪は自分の肩に乗せられた澤井の手を離した。
「なあ、広澤。好きな人、いるのか?」
「何よ、急に。」
「いないんなら、俺とつきあえよ。俺ってけっこう優良物件だろう。広澤の親だって安心するだろうし。」
「そうだね、安心するだろうね。」
「じゃあ、決まりだな。」
「お断りするよ。私はそういうの、望んでないし。」
「田舎でこれ以上のいい条件なんてないぞ。」
「澤井くん、私の家、こっちだから。今日はありがとう。」
凪は澤井から離れて歩き出した。
どこかの角で、桐山がこっちを見ている様な期待をしている。この町にきてから、ずっとそうやって桐山を探している。たった数回会っただけなのに、桐山を想う気持ちが、いつまでも自分を縛り付ける。
澤井と付き合えたら、いろんなものが簡単に手に入るだろうな。それは裕福な暮らしじゃなくても、手に持てないだけの満点の未来。
そこそこ勉強もできて、卒なく何でもこなせて、人の平均を超える運動能力、丈夫な体と、非の打ち所がない顔。
澤井はずっと1人だったのだろうか。
桐山には盛られたひどい毒は、まだ身体から抜けきれていない。
彼は勉強する事を鎧にして、人から避けるように生きてきた。無駄に医者になんかなっちゃって、人を助ける前に自分が病気になり、信頼していた人は罪を犯して、社会から断絶された。
元々彼を産んだ両親だって、法律では裁けない不倫という罪を犯していたんだ。
おかしな連中と世の中に背いた歌を歌い、それが行き場を失くした若者の心を捉え、気づいた頃には、自分のものなのに、自分では止められないものになってしまっていた。
もしかしたら、桐山は終わりにするために、わざと怪我をしたのかも。
入院してきた病院で、たまたま通りかかった自分に声を掛けてきたのは、お腹を空かせた蜘蛛が、糸にかかる餌を待っていただけの事だろう。
いいや違う。
その糸にむかって飛んで行ったのは私の方だ。
あのまま、食べられてしてしまえば、本当は良かったのかな。
凪はそう思いながら、早足で夜道を歩いた。
「広澤、相変わらず、足遅いな。」
追いかけていた澤井が、凪の腕を掴んだ。
「ちゃんと家まで送るよ。」
「大丈夫だって。」
「なぁ、ちゃんと好きだって言えば良かったか?」
「はあ?」
「素直に好きだって言えば、さっきの返事、」
「アハハ。大嫌いでも、一緒にいたい人っているんだよ。好きだって言葉なんて、範囲が広いんだし。」
「俺の好きは広澤だけだって。」
「考えておくよ。どうやって断るか。」
凪は澤井を見て笑った。
「断る前提なのか?」
「澤井くんなら、すぐにいい人が見つかるんじゃないの?モテるだろうし。」
「まぁな。だけど、結婚するなら、ちゃんとした人じゃないと。」
「ずいぶん遊んだんでしょう。だからそろそろ落ち着こうと思ったの?」
「違うよ。」
「じゃあ何、異常な結婚願望?」
「さっきの事件だけど、本気で好きになっても、あんなふうな最後を迎えるなんて、哀れだと思わないか。広澤なら、絶対そういうのって嫌だろう。」
「みんなも嫌だと思うよ。」
「理屈じゃないんだよ。そんなふうに思っていても、アホみたいに恋愛に溺れるんだ。」
「だから?」
「広澤は、絶対に溺れないし、俺が守るから。」
手袋の上から握った澤井の手は、とても温かった。
「おやすみ。」
凪は玄関に向かって走り出すと、後ろ振り向かず、家に入った。
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