第8話 許される嘘

  久しぶりにカラカラに晴れた空は、これから本格的な夏を迎える事を意味している。

 明日からまた少し雨が続くらしいから、ほんの一時の乾燥なのもしれないけれど、あと少したら、雨が恋しくなるくらい、暑くて寝苦しい夜がやってくる。


「辞めるって、どういう事?」

 凪は看護部長室に呼ばれていた。

「今月いっぱいで、田舎に帰ろうと思っているんです。むこうに残している母親が、最近体調を崩してしまって。」

 凪は嘘をついていた。今までだって、すぐに見透かされる様な嘘をついてきた事はあるけれど、家族の事を引き合いに出して、それ以上踏み込めない事情を並べる事は、たとえ嘘だと感じても、それを受け入れざるを得ない状況になる事を、退職していった先輩達から学んだ。

「だって、広澤さんの実家にはお兄さんがいるんじゃないの?」

 いつもは人の家庭になんて興味のないくせに、部長は凪の家族の事を、思い出した様に踏み込んだ。

 彼女の頭の中では、今の働き蜂の数では、自分が産んだ子供達に、きちんと餌が与えられるのかどうか、そんな心配をしている。

「兄の所にも子供が生まれるんで、母親の面倒は見ることができないんです。」

 まんざら嘘でもない事も、時々話してみる。

「困ったわねぇ。ただでさえ人手不足なのに。ねえ、お母さんは何の病気なの?」

「それは教えられません。本人にもまだ話してませんから。」

「もういいわ。後は事務長と相談するから。」

 退職を受け入れざるを得ない部長は、事務長に電話を掛けていた。

 

 桐山からの連絡はなかった。彼を忘れるために選んだ道は、実家に帰る事だった。新しい環境に踏み出す勇気のない自分は、結局端から端まで知っている狭い空間で、昔から変わらない空気を吸い込み、本当はこんなはずじゃなかったと愚痴を言いながら暮らす事を選んだ。

 桐山という人間に想えば想うほど、自分が必死で守ろうとしているものが壊れていく。 

 普通、普遍、平凡、平均、それ以上ものを望まない暮らしは、けっこう居心地がいいはずなのに、桐山と一緒にいると、そんな何もない日常なんて、続かなくてもいいとさえ、思えてくる。

 会いたくてたまらない。

 会ったところで、彼の持つ独特な世界観の前では、自分の様な薄っぺらい人間は、影にさえもなれない。

 もう諦めて、当たり前の幸せというものを手に入れよう。自分の目の前で、それがなくなってしまう前に、少しでも早く、その列に並んでいなければ。


 桐山の連絡先は知らなかった。彼がスマホをじっくり覗いている姿を見た事はない。

 病院の玄関で待っていたあの日。

 松下の彼の店で待っていたあの日。

 たったそれだけの時間だったんだし、これからの約束なんてしていない。

 いなくなれば追いかけてくるのではないかと、少し自意識過剰な自分もいたが、あの日以来、桐山は自分を待っている事はなかった。


「広澤、病院辞めるってどういう事だよ。」

 最後の深夜勤になった夜、松下は凪に言った。

「急に実家に帰る事になって。」

 凪はそう言った。

「嘘つくなよ。ゲンから逃げようとしてるんだろう。広澤なさ、やっぱりゲンが重過ぎたのか。」

 松下は言っている事は、その通りだった。だけど、男の事で病院を辞めようと思っている愚かな女だとは、ここまで育ててくれた松下には思われたくはなかった。

「母親が調子悪くしてて…。」

「それ、師長から聞いた。そうでも言わなきゃ、簡単には辞めれないもんな。」

「むこうの病院で、看護師続けます。」

「ゲンはどうするんだよ。あいつ、時々ここに来てるぞ。広澤が毎日ゲンを探してるのだって、あたしはちゃんと知ってるぞ。なぁ、ちゃんと2人で話せよ。」 

 ナースコールがなり、凪は部屋にその部屋へ向かった。

 

「おい!隣りの奴のイビキ、なんとかしろよ。」

 いつもは静かに眠っている患者の様子を見ると、だらりと開かれた唇から、ヨダレが垂れている。

 凪は慌ててナースコールを押して松下を呼んだ。

「広澤、個室にベッド移動させるぞ。」

「はい。」

 暗闇の廊下をキリキリと患者を乗せたベッドを押しながら、個室まで移動させる。

「おお、石毛!広澤とこのままMR室に連れて行け。あたしは家族に連絡しておくから。先生、脳外科の医者には連絡したのかよ。」

 やってきたレントゲン技師と若い当直の医者に、松下はテキパキと指示を出している。


 朝。 

「看護師さん、隣りの人、どうなった?」

 凪が洗面所を通り掛かると、夕べナースコールを押した患者からそう聞かれた。

「バタバタしてすみません。夕べは眠れなかったですよね。」

 凪は当たり障りのない返答をする。

「やっぱり、こっち、きちゃったんだろう。」

 患者はそう言って自分のおでこを指さした。

 何も言わず、頭下げて患者の前を去った凪に、

「お礼くらい言っておけよ。あの人が教えてくれなかったら、危ないところだったんだから。」

 近くを通った松下は、凪にそう言った。


 更衣室にあった荷物をカバンに詰めていると、

「引っ越しはいつだ?」

 松下が聞いてきた。

「明日です。」

 本当は今日なのに、凪は嘘をついた。もしかしたら、松下はゲンに会わせてくれるかもしれないと期待したが、

「元気でな。」

 松下はそれ以上何も言わなかった。


 職員玄関の前には桐山がいるような気がして、正面玄関から出ていこうと、混み合っているロビーを突っ切った。

「凪!」

 自分を呼ぶ声の主は、きっと桐山だと気がついたが、凪は振りむいて、桐山を探したが、その姿は見つからなかった。

 ため息をついて玄関を出ると、ちょうどついたばかりのタクシーに、凪は乗り込んだ。


 桐山はこの1カ月、何をしていたんだろう。仕事も探さず、ずっと家にいたのだろうか。孤独でいる事が好きだといいながら、この世最後は誰かといたいなんて、都合のいい話しだね。

 あの日。

 自分じゃない他の看護師が、桐山の身体に触れたら、桐山はその人の事を抱きたいと思ったのかな。

 きっと誰でも良かったのか。

 これからだって、誰でもいいんだ。

 頭のいい医者なんだし、その容姿なら尽くしてくれる女性だってすぐに見つかる。今まで自分を取り巻いていたファンの子だって、今度は甘い声で歌ってあげたりなんかして、チヤホヤされればいいじゃない。

 答えのない事をとめどなく考えようなんてせずに、世の中の流れに、上手く乗っていけばいいだけの事。

 人並み以上の幸せを手に入れる事ができる要素は、私なんかよりもたくさん持っているのに、どうして辛い思い出ばかりの過去から、這い出そうとしないんだろう。

 桐山は未来なんてないんだと目を塞ぎ、今日という時間がくれる希望でさえ、切り取って捨ててしまうとしている様に感じる。

 もう、やめようよ。

 生まれてきた事を悔いるのはやめて、母親の事も父親の事も、許してあげたらいいじゃない。

 

 引っ越しのトラックに最後の段ボールが積まれた。凪は言われた通り、部屋の鍵はキッチンのカウンターの上に置き、4年間住んだ寮を後にした。

 ベランダにかかったクモの巣が、風に揺れていた。

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